#5 初めての夜
食事を済ませた清麻呂はそそくさと牛車に乗ってどこかへと出かけて行った。
食事の片付けも野分が担当したが、料理は出した時とほぼ変わらない状態だった。彼はほとんど手を付けていなかったのだ。
「食べないならこんなに作らせるんじゃないわよ!」
地団駄を踏みながら苛つく野分から膳を受けとったタエは、
「わかってないわねぇ、野分」
と、ニヤニヤ笑いながら、清麻呂が食べ残した料理の品々を雑仕たちが棲まう小屋に運び入れた。
「さあ!今夜もご馳走よ〜!」
小屋の中にワッと歓声が上がる。待ってましたと言わんばかりに、箸やお椀を手にした雑仕たちが我先にと料理に腕を伸ばす。
「あんたも食べないとなくなるよ?」
すでに席についてみんなと共に頬張っているタエに袖を引っ張られて、野分はその隣に座った。
手渡されたお椀には、薄くて茶色い粥が入っている。
「……あいつの食べかけ、食べるの?」
野分は引き気味に尋ねた。
「食べかけって言っても、箸で小皿に移して召し上がっているし、直接口つけてるわけじゃないよ」
あっけらかんとしながらタエは料理をよそった小皿を渡してくれた。
「こんな豪華な食事、そんじょそこらの庶民は到底食べられないからね?それに若様の食べかけなんて、都中の女に羨ましがられる一品よ」
ケケッと狐のように目を細めるタエを見ながら、野分は半ば呆れながらも料理を口に運んだ。
素材本来の味と、少しの塩味が舌に広がる。なんとも淡白な食事だった。
夜は小屋の中で、みんな一緒に横になって寝た。
いわゆる雑魚寝というやつだ。
布団とも言えないような薄い布を床板に敷いただけの寝床で、野分は一日を振り返る。
治安の悪さ、貧困、差別、不衛生。
はじめは気が動転していたためよく見えていなかった。
しかし、この街には色濃い影の部分がある。
それをまざまざと見せつけられた気がした。
「平安時代じゃないのかな、ここ……」
野分の知っている平安時代は、もっと華やかでキラキラとしていた。
美しい着物を何重にも羽織り、煌びやかな屋敷の中で巻物を読んだり和歌を作ったりして優雅に暮らしている。そんな物語のような世界だった。
しかし、目の前に広がっている現実は違う。
建物や服装は国語の便覧で見たものとそっくりだったが、街をうろつく人々には、余裕の欠けらさえも感じられなかった。
本当だったら今頃、クラスのみんなとこうして横になりながら恋バナに花を咲かせていたというのに。
野分は現代とは比べ物にならないくらい濃い闇夜の中、ひとり目元を拭った。
枕元に置いておいた自分の鞄を静かに漁り、スマホを取り出す。
そして薄い布団を頭から被り、眩い光を放つ画面を見つめた。
繋がらないとはわかっている。
しかし、これはもう寝る前の習慣のようなものだった。
相変わらず、画面には『圏外』という文字が表示されている。
試しに110番をにかけてみたが、やはりつながらない。
手当たり次第に発信してみたが、どれもかからなかった。
「……みんな、心配してるだろうな」
友人や先生、両親の顔が頭に浮かび上がる。
その度に視界がぼんやりと滲み出す。
電話やチャットアプリ、SNS。
いつもなら、寝る間際まで友人と話すのが彼女の日課だった。
完全に情報を遮断された野分は不安を紛らわすために、SNSのアイコンをタップした。
いつも通り、アイコンの周囲がボワッと淡く光り出す。
「……どうせ繋がらないよね」
ため息混じりに吐いた彼女の言葉から、数秒後。
突然、真っ白になった画面の真ん中にローディングアイコンが表示された。
「えっ!嘘っ!繋がったっ?!」
思わず叫びそうになった口元を手で抑え、がむしゃらに画面をタップする。
画面上の表示は相変わらず『圏外』だ。
にもかかわらず、このスマホはどこかに接続されようとしている。
野分は固唾を飲んで、画面の挙動を見守った。
そして数秒後、パッと映し出されたのは、このSNSの初期設定のページだった。
まるで地獄に垂らされた一筋のクモの糸を発見したような心地だった。
今まで使っていたアカウントは消えてしまったみたいだが、これで新規登録をすれば外部との連絡が取れる。誰かに通報してもらえれば、警察も捜索に乗り出してくれるだろう。
野分は目にも止まらぬ速さで基本情報を打ち込み、登録ボタンを押した。
ぐるぐるとローディングアイコンが回る。
実際の何千倍も長く感じる時間の中で、それをただひたすら固唾を呑んで見守った。
瞳が乾燥するほど画面を見つめていると、パッと画面が切り替わった。
それは見慣れたホーム画面だった。
あまりの歓喜に、掛け布団を蹴り上げる。
彼女は記憶にある友人のアカウントを検索し、急いでダイレクトメールを送信した。
『助けて!迷子になった!なんか圏外なんだけど、これだけ繋がった!平安時代みたいな街並みのところにいる!警察に連絡して!』
最後に自分の名前を入れて、無我夢中で送信ボタンを押す。
(これで助かるはず!)
そう思ったのも束の間、ブブッという音と共に『送信できませんでした』というエラーメッセージが表示された。
「──え」
もう一度、送信ボタンを押す。
しかし、またもエラーになってしまった。
今度は文章を一から入力し直す。
──エラー。
送信先を変えてみる。
──エラー。
「なんで……なんでよっ!」
野分は縺れる指で何度も何度も試みた。
しかし、やはり誰にもダイレクトメッセージを送ることはできなない。
引っかかるようなことなんてなかったはずだ。
もう一度作成した文章を確認する。
画面をスクロールして最後まで目を通した時、あることに気づいた。
野分の名前が滲んでいた。
半紙に書いた墨文字に水を数滴垂らした時のように、じんわりと輪郭が溶けている。
もう一度自分の名前を入力してみる。
すぐに、同じように文字は溶けてしまった。
「なにこれ……。こんなの初めて見た」
彼女は他にも入力できない文字がないか、試してみた。
名前、住所、学校名、両親の名前、電話番号、メールアドレス。
彼女の個人情報につながるものを入力とすると、途端に文字が溶けてしまう。
まるで最初から彼女なんて存在していなかったかのように。
「嘘……、なんでよ……」
自分のプロフィールページの名前すら溶けている。
記事に名前を入力して投稿してみたが、やはりエラー表示が出ていた。
もしやと思い、彼女自身になんの関係もない言葉だけを送信してみる。
あっけないほどスムーズに送信できた。
彼女は肺中の空気を吐き切る勢いで、長い長いため息をついた。
個人情報を含まなければ、検索も投稿もメッセージの送信もできる。
いつものように正常に使用できるのだ。
今、彼女が外部との接触ができるのはこのアプリのみ。
なんとしてでもこのアプリを使って、ここから脱出を図らねば。
しかし、もう彼女の体力は限界だった。
野分はふらつく頭でカバンを引き寄せ、スマホを鞄の奥底にしまった。
そして、鞄を大事そうに胸に抱えたまま、人生で最も混乱に塗れた一日を振り返りながら重い瞼を閉じた。
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