#4 平安京という場所②
「はあ、びっくりした。もう!あんたのせいだからね?」
屋敷が見えなくなる距離まで走りきり、二人はようやく安堵のため息をついた。
野分は隣で立腹しているタエにひとこと言い返してやりたかったが、口から出てくるのは乱れた呼吸ばかりだ。何度か深呼吸を繰り返し、ようやく膝から手を離して上半身を持ち上げる。
土剥き出しの通りには、相変わらずたくさんの人が行き交っていた。
大体の人が着古したような色あせた服を着ていて、中には襤褸布をまとっただけのような人もいる。
そういう人たちは大概、地面に敷いたゴザらしきものの上に座って道端でじっとしていた。
忙しなく横を駆け抜けていく労働者らしき男性は、裾から伸びた泥まみれの浅黒い足と、きちんとかぶった烏帽子姿がなんだか妙に不釣り合いに見える。
そして、みんな骨張っていて痩せていた。
時折やってくる牛車の煌びやかさが逆に違和感を覚えるくらいの、うらびぶれた風景だ。
「……あんた、牛糞踏んでる」
「え?ギャッ!」
街並みをまじまじと観察していたために前方への注意が散漫になっていた野分は、慌てて視線を落とす。
指摘されたとおり、そこには立派な牛糞が積み上がっており、彼女の足先半分がそこに突っ込まれている状態だ。足を引き抜こうとすると草履の裏から柔らかい感触が伝わり、一気に肌が粟立つ。
───臭い。
野分は鼻を摘んだ。
よく見れば、通りのそこかしこに牛糞が落ちている。しかし、それだけではない得体の知れない刺激臭や腐敗臭が、この街の空気には含まれていた。
「ねえ、めちゃくちゃ臭いんだけど」
あまりの匂いに口もとを着物の袖で覆う。
「そりゃ、牛糞踏んだからね」
「いや、違くて。なんかもっとこう……、汚い公衆トイレみたいな匂い」
「こうしゅうといれ?」
「えっと……あ、大便とか小便とかの匂い!」
あまり使ったことのない表現だったが、首を傾げるタエにきちんと伝えるためには致し方ない。
この世界で生き残ること決意した彼女は、恥や外聞などは早めに捨てることにした。
タエはようやく理解したようで、通りの奥を指差し、
「みんなそこらで用を足してるから、当たり前じゃない」
と、こともなげに言い放った。
つい、つられてタエの指が示す方を見てしまった野分はすぐに後悔をした。
衝立も穴もなにもないただの平坦の道に、おぞましい数の糞尿が放置されている。
しかもまさに今、用を足している最中の人まで。
野分は吐き戻しそうになる口を押さえながら、そこから漂う臭気から逃げるように早足でその場を立ち去った。
「なによ?普通じゃない」
「あれが?!普通ッ?!」
涙目でえづきながら、野分が目を剥いて振り向く。
(せめて穴を掘って土をかぶせていくとか、一か所に集めて汲み取り式にするとか、何か対処の仕方があるでしょう!こんなんじゃ絶対に病気になるじゃん!)
「誰だってするでしょう、あんなもの。それとも、あんたは糞もしない天女様なのかい?」
ニタリニタリと馬鹿にしたような笑みを浮かべるタエが羨ましく見えた。
無知というものは本当に恐ろしいものだ。
野分は肩に巻いていた手拭いを解いて、口と鼻を覆った。彼女がいた世界のマスクとは性能が程遠いとは分かってはいるが、していないよりは気が紛れる。
タエは呆れたような視線を投げかけて、市のある方向へスタスタと歩みを進めた。
野分は出来る限り呼吸の数を抑えようとして、若干酸欠気味になりながら彼女についていく。
「どこから来たのか知らないけどねぇ、そんなのいちいち気にしてたら、ここでなんて生きていけないよ」
タエが続けた。
「まあ、私らは若様に拾われたんだから、相当運がいい。確かに厳しいお方だけど、食いっぱぐれもない。おまけにあんな色男だしね!」
カカッと大口を開けながら振り向く。
彼女の最後のセリフに引っかかりは感じるが、確かにこんな不衛生な中で生きていく自信はない。
あの暴言と衛生環境を秤にかけるとしたら、間違いなく秤は衛生環境に傾くだろう。
野分は自分の命の重さと比べれば、あの程度の罵声はどうでもないかと思おうとしたが、それとこれとは話がまた別であると、清麻呂の顔を思い出しては再び腹を立てた。
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