第2話 人形のように
初老の紳士は、見事な銀髪に、細く白い美しい指をした紳士だった。薄い縁の眼鏡の奥に光る爬虫類のように冷たい瞳が印象的だった。咲花はおずおずと紳士を見上げた。動物的な感覚で、咲花は思わず目をつぶって体を硬くした。ほのかにジャスミンの匂いがした。
咲花がここに呼ばれた理由。
ある日、”自作詩の朗読”という課題が出て、各自が詩を披露した。その後、咲花は教授に呼ばれた。
「今日のように、詩の朗読を学外でやってみたくはないかね?」
月に一度、開催されるらしい個人的なイベントらしかった。
「演劇の舞台に立てるような学生がいたら是非、と前に言われていたんだけれど、そんな心当たりもなかったのでね……すっかり忘れていたんだが」教授はそう言った。
まるで夕陽の残り火のように咲花は、長い睫毛を思わず伏せたまま、はい、と教授の言葉に従順に答えた。咲花の長い黒髪は普段は豊かに編み上げられ、Uピンで一筋の乱れもないように丁寧に止められていた。
咲花はぐらぐらする頭で考えた。気のせいか目眩がする。緊張しすぎているのか、床が真っ直ぐでないような錯覚に陥った。教授とは違って、もっと何というか……怜悧な刃物のような雰囲気の人……
どれだけ広いのかわからないアパルトマンの一室に通された咲花は、磨かれて光る木の床をゆっくりと真っ直ぐに歩いた。まるでオーディションのよう。咲花は極限に緊張した。……自分にできるだろうか。咲花は急にここに来たことを後悔した。
音もなくムッシューがさっと咲花に近づき、「これを」と、一冊の分厚い本を手渡した。「重いから気をつけなさい」
ずっしりと重い本を受け取るのに、ムッシューの柔らかい指先がふと触れ、咲花は驚いた。温かい。
深い緑の革の表紙に金の重厚なアルファベットが刻まれていた。ムッシューが言うには、この本を手に、まるでこの本を読んでいるように詩の朗読をして欲しい、とのことだった。
咲花は分厚い本を開けた。
ムッシューは、はは、その本を読めとは言ってないさ、と砕けた言葉を使った。
「中身はラテン語だ、君には読めないだろう。。。。わかっている」
読む振りでいい。即興でいい、とムッシューは言った。「その代わり……」
「何があっても、途中でそれを止めずに、20分間、朗読を続けるように」と言った。
「はい」
「その後は、45分間、そのまま横たわってもらう。」
咲花はうなづいた。
ムッシューは先の丸いソファを目で示した。
……朗読の後に?
クッ、とムッシューは意味ありげに笑った。その時になれば、うまくいく。深く考える必要はない。ありのままの君でいればいいだけだ。「しかし……君はいかにもモノを知らなさそうだね。」
咲花はそっとティーカップに口をつけて飲んだ。……そんなこと……咲花は見透かされたような気がして、思わずむっと顔を赤らめた。
「それで君の仕事は終わり。人形のようにじっと朗読し、ソファに仰向けに横たわる。君の役目はそれだけだ。その後は、せっかく来たんだ、ぜひパーティを楽しんでいってくれ給え。」
ムッシューはじっと咲花の瞳を見つめた。咲花は「ありがとうございます、ムッシュー」とフランス語で答えた。
ムッシューが黙ってしまうと静かすぎて、居心地が悪くなり、咲花は思わず、肘掛のついた椅子の上で居住まいを正した。
「……『流星の仔猫』とは良い名だね」
流星のように、一瞬、光って消えて無くなりたい。自由に気ままに生きたい、まるで野良猫のように。そう思ってつけた
『海外に留学して、もっと魅力的になって帰ってきたいと思います。それまで、距離を置きましょう。それから……改めて私のことをご覧になって、このままご結婚されるか、お返事をお聞かせください』
咲花があの人にそう言ったのは、もう随分前で……中学生の時……
白紙と言えど、正式に婚約を解消したわけではなく……。咲花は、振り向いて欲しい一心で、そう言っただけだった。……このまま、お互いの気持ちのそぐわないままに結婚したくなかった。幼い二人のぎこちなさは、お互い努力すればするほど、咲花を傷つけた。愛されて求められて一緒になりたい。
許嫁だなんて、まるで明治時代のようでも、両親は真剣だった。取引先のご子息との政略結婚。母は言った。「お金さえあれば、多少の苦労や不幸せは埋まるのよ。お金で愛は買えないけれど、たいていのことは、お金さえあれば解決できるのよ。」咲花は両親に逆らうことはできない。自分が養子だと知ったのは、18歳の誕生日で、咲花は少なからずショックを受けた。両親は、いつかわかってしまうことだから、と言った。
その時、ドアがノックされた。
ムッシューは、「失礼」と席を外した。
ムッシューが応接室から出て行くのを見届けると、咲花は少しほっとして、ソファに寛いだ。素敵な部屋。天井のシャンデリアはすぐ見てわかる18世紀のもので、キラキラと重厚なクリスタルが煌めいた。
こんな場所があるなんて……まるで別世界。
薄いティーカップに咲花はそっと唇を寄せた。それ全体が今から開く花のようだった。金箔が貼られた取っ手に猫脚の高台。薄い透し彫りにブルーの菖蒲が描かれていた。
菖蒲はライラックが散った後、藤の次に咲く花だった。日本と同じ菖蒲のはずなのに、何故か心なしか藤も菖蒲もこちらでは派手な曲線で大振りの花をつけた。
この国に来て3年目の春が過ぎていく。上気した頬で咲花は無意識にため息をついた。天井までの窓の側にかかる重厚なカーテン。そこにはいくつも組み合わせられて一つとなった立派なシルクのタッセルがかかっていた。緑色のくすんだ大きなビーズが分厚い生地のカーテンを纏めている。天井の煌めくシャンデリア。まるで本物のお姫様の部屋にあるような豪華な調度品。
咲花は膝の上の大きな本を撫でた。でもなんだか腑に落ちない。
咲花には読めない本……でも、ラテン語?
じわりじわりと、金色の空にぽつりと落ちた漆黒の点は徐々に広がっていく。咲花が窓の外を見ようと立ち上がりかけた時、廊下に人の気配がして、大きなドアが開いて、ムッシューが帰ってきた。
「今日ここに招待されたことは、秘密にしてきたかね?」
「名の知れた名士が集まる。この会に関わる全てを誰にも口外してはいけないことになってる。家族や恋人にもね。ここで君が見た全て……。全ては秘密だ。君なら……約束を守れるね?」
誰に何を言うというのか。咲花に友達はいなかった。
あの人……あの人にも言わないだろう。秘密のある女性の方が、きっとあの人の目にも魅力的に映るはず。あの人はいつだって紳士で私に優しくしてくださったわ。でも……あの人も家の言いつけを守って、大人になれば、私と結婚してくださるおつもりだった……。でもそれは、家のため。
咲花の瞳が暗く曇る。
咲花は無意識に広い額を抑えて下を向いた。咲花の癖だった。
愛されたい……
もしも、もっともっと自分が魅力的なら……
あの人を振り向かせたい……
愛されて求められて結婚したい……
「……ボンボンをあげよう」
そんな咲花の気持ちを知ってか知らずか、不意に、ムッシューがそう言った。テーブルの上のクリスタルのボンボニエールの中から、赤と金の大きなボンボンを取り出した。包み紙を器用に
咲花はムッシューを見上げ、仕方なく言われた通りにためらいながら、そのまま目をつむり、唇でボンボンを受け止めた。……恥ずかしい。一度に口に入れるには大きい気がする。顎が思い通りに動かせないのに、何かを飲み込もうとする不自然さ。でもどうすることもできない。ムッシューは自分の思い通りにボンボンを咲花に差し出し、「歯を立てない」と咲花の顔を軽く天に仰がせて、ささやいた。咲花はボンボンに紛れ、滑り込もうとするムッシューの指先を唇の先に感じ取り、仔犬のように慌てて顎を引っこめようとした。「それは僕の指だ」ムッシューはいたずらっぽく言った。顔を赤らめ、ちょっと苦しそうな顔をする咲花。
「……素直ないい子だ。」
ムッシューはそう言い、咲花のせいでほのかに濡れた中指と人差し指で、咲花の頬をスーッと縦に撫でた。
そして、咲花の濡れた赤い下唇の際に端正な指先で触れて、「素直ないい子は、誰からも愛される」とつぶやいた。
「……君は本当に美しい。そのことを君は知らないようだ。君はただ、僕の言うことを聞いていればいい。」
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