第5話 読まれることの意味

 人は誰もが書き手になることができるし、また誰もが読み手になることができる。


 読む側にとっては、読むという行為は主観的な行為であり、一方では書き手側にとっては、読まれるという行為は客観的事実である。


 読書するという行為については、『読む』と『読まれる』では大いに異なる。


『読む』ことについては、別に想いを込めないて読むのであっても、夢中になって読むのであっても、同じ範疇の主観的行為である。


 しかし『読まれる』ことについては、単に主観的行為である『読む』と同等に対応した言葉ではなく、『書き手の切なる祈り』が付加され、『読む』の数倍、いや数十倍、場合によっては数百倍の重さが加わる極めて重要な客観的事実となる。


 つまり読み手が、あまり意味もなく、興味もなく、暇つぶしにのぞいた行為が、読まれる機会がほとんどない書き手にとっては、神の行為にもなり得るのだ。


 大勢の仲間やたくさんのファンを抱えている作者であれば、1人の読者などとくに意味をなさないものなのかもしれないが、私と同じように弱小の名も無い書き手にとっては、『読まれる』ことは、大いなる愛を感じる客観的事実となるのだ。


 だから私は、単にジッといつまでも『読まれる』ことを待ってはいない。


 私が行う駆け足での走り読み、斜め読みでさえ、大いなる愛に変わり、書き手に大きな夢や希望を与えることを知っているから。


 自分の作品を『読まれる』ことを希望するのであれば、まず『読む』ことから始めよう。


 その読むという行為が、巡り巡って読まれるという花を咲かせてくれることを信じて・・・・・

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