宵の前の妻問い Ⅰ

 3日後__慰労会当日は朝から薄曇りで、なかなか気温が上がらない日となった。


 慰労会はイャーヴィス元帥の勇退に際して、元帥と同格の神官の長である教皇、文官の長の大賢者、国軍の将軍らに囲まれての国儀としての退任式は終えていて、あくまで身内だけのもの。


 主催は新元帥フォンゼルと新団長のシュタウフェンベルクで、新左大隊長の着任の祝賀会も兼ねているという。


「__では、本当に、身内だけなのね」


「ああ」


 温かな湯気をあげる茶器を口元へ運びながら、窓の外を眺めるリュディガーは頷いた。


 キルシェもまた手元の茶器を口に運んで、暖炉の炎とお茶から温かさを噛み締めつつ、部屋の中に視線を巡らせる。


 談話室は、窓からの照り返しで明るかったはずだが、昼には空が薄曇りになってしまった。ちらちら、と柔らかい印象の雪が降りはじめたのはその頃からだ。


 この日キルシェは朝食をとってからは、特段用事はなく、ビルネンベルクを見送ってから部屋に籠もって布支度に勤しんでいた。そして昼を食べ終わって今少し__と部屋で続きをしていると、午前の集中しきっていた疲れがでてきたのと、いよいよ夜の慰労会に婚約者として赴くと言うことも相まって、そわそわし始め、なかなか捗らなくなってしまった。


 お茶の時間になろうか、というところで、リュディガーが訪れ、談話室に移動したのである。


「少し雪が落ち着いてきたか」


「そうね。昨日は帰宅するころは、雪は降っていたの?」


「いや。私の帰宅は朝だったんだ」


 キルシェは、思わずきょとん、としてしまった。


 最後に会ったのは、昨日の夕食前。


 大抵の場合、その時刻に訪れる場合は、夕食はビルネンベルクの邸宅でともにとるのだが、昨夜は用事があるから、と半刻もたたずにすぐに帰ってしまった。


「実は、あのあとは朝まで勤めでな」


「まさか、宿直とのい……?」


「ああ」


「まあ、そうだったの。お疲れ様でした」


 ありがとう、とリュディガーは穏やかに笑む。


 いよいよ仕事が本格的になってきたらしいリュディガーは、勤務に合わせた来訪になっていて、毎日顔を合わせるということが難しくなってきた。


 ビルネンベルクの邸宅へ訪れる形の彼は、夕食前の来訪が専らで、その時間を逃すとその日は顔を合わせられなくなる__これは、彼が前もって伝えてくれていて、下賜された所領の視察から戻ってから、それが顕著だった。基本的な拘束時間は、日中であることに違いないが、数日に一度、変則的な拘束が発生しているようである。


 同時に守秘義務も増えてきて、どういった仕事にあたるのかをキルシェであっても前もって告げない。それでも、終わってから別段問題がない内容であれば、教えてくれはする。


 だからキルシェは、リュディガーが言葉を濁したり、表情や声色からどこまでならば彼を困らすことがないのかを察して問うことにしている。


 婚姻して、晴れて夫婦となってからは、もう少し踏み込んで教えてくれることではあるだろう。あくまでまだ関係は、一度婚姻を形式上結んでいたとはいえ、婚約者に他ならないのだ。


 のけ者というわけではないが、少しばかり淋しい気がしなくもない変化だ。明かさないことができるということは。だが、彼の職業上の理由だけにやむを得ないことも理解しているし、自分のその感情は甘えとも言えること。当たり前としなければならないこと。


「__その……昨日はどんなお仕事?」


警邏けいら……だな」


「お空の? 地上の?」


「空からだ。よく見渡せたよ。冬は空気が凍てついている分、澄んでよく見通せるから。……そう、昨夜は帝都の外の平原に、鹿の群れがあったな」


 夜闇の中でも、月があれば白く雪原は輝く。


 昨夜は月が出ていたはずで、その輝く雪原の中を鹿の群れが行く景色は、粛々としつつ静謐に息を呑むことだろう。


 自分の周りは風を切る音に満ちているだろうに、見えるその景色の静けさ__。


「それはきっときれいな景色でしょうね……。見てみたいですけど、寒そう」


「ああ、寒い。本当に寒い」


 若干吐き捨てるような言い方になったリュディガーに、キルシェは思わず笑ってしまった。すると、リュディガーも、くすり、と笑うから自虐を含んで言い放ったのだろう。


 自分も少し前、寒空を陽の下であるが龍の背に乗って移動をした。防寒など配慮されての短時間の旅路であったが、日中でない夜の警邏はさぞ過酷に違いないことは、想像に容易い。


「だが、意外と、勤務で空の警邏中ならそこまで寒さを感じないんだ。集中して警邏しているからかもしれない。降りたとき、ぐっ、と体が凍えているということに気付かされて、そこが一番寒い。寒かったんだ、と思い知る」


 言いながら、リュディガーは茶器一式が置かれているテーブルへ向かうと、自身のカップへお茶を注ぎ淹れる。そして、キルシェにもティーポットを示して淹れるか、と動きで問うので、キルシェはまだあるから首を振る。それを受け、リュディガーはポットを置くと、キルシェと同じ卓を囲むソファーへ歩み寄り、腰を下ろした。


「降りてからの用意されている温かい風呂は、本当にありがたいったらない」


「それはそうでしょうね」


 これもまたキルシェは経験済みのこと。それもつい先日の新しい出来事だ。


「あとお茶もな。ラエティティエルがまた侍女としてついてくれるんだが、今朝さっそく淹れておいてくれたよ。当たり前のこととしてやってくれているのだろうが、本当に格別だったな」


「そう」


「まだそうやってお茶を淹れてくれたりする分には、愛想をつかされていないらしくて安心した。まぁ最も、今後見限られないなんて保証はないんだが」


 リュディガーは自嘲気味に言う。


「夜通しなら、眠くはないの?」


「ここに来る前、仮眠はとった。だから大丈夫だ」


 リュディガーの服装は制服ではない。制服で彼が借りている部屋まで戻って、着替えたのだろう。だからといって、宴席に出るような畏まった格の服装でもないから、ここで着替えてキルシェとともに会場へ向かうというということか。


「今日は先生は、こちらに戻られないのか?」


「いえ、朝ご出立する時、そうしたことは仰ってはいなかったですから、お帰りになると思いますよ。もしそうであっても、報せが来ますし……来ているのなら、私にも教えてくださるとは思うのですが、まだないので戻っては来られるのではないかしら」


 ビルネンベルクはキルシェが卒業し、帝都の邸宅で間借りすることになってからは、なるべく邸宅へ帰宅するようになっていた。キルシェが在学中は、毎日のように邸宅へ戻ることはなかったから、間違いなく気遣われてのことだとわかる。


「君は今日は一日、屋敷にいたのか?」


「ええ」


 布支度をなるべく多く__その決意があるから、使用人を伴って外出ということもしていない。


 出不精の極みのような状況だが、それを言ったら学生時分もお使いがない限りはそうだったから、その生活がそのままになっただけと言えばそう。


 籠もる場所が、大学から邸宅、寮の部屋が私室になって、昔のように勤しんでいた学はほどほどに、布と睨めっこをするように置き換わっただけ。


「朝から? ずっと?」


「ええ」


「疲れないのか?」


「それは……まあ疲れますよ。大学の頃と違って、頭はさほど使わないのですけど……休み休み……たまに本に持ち替えながら」


「気分転換に外へ出るのなら、付き合うが……雪も落ち着いてきたし……」


 顎をしゃくって窓の外を示すリュディガーに、キルシェは苦笑を浮かべて緩く首をふる。


 対してリュディガーは、そうか、と苦笑を浮かべてお茶を口に運んだ。その表情に、キルシェは申し訳無さがこみ上げてくる。


 駄目元で彼は誘ってくれる。ほぼほぼ断られることがわかりきっているというのに。


「ごめんなさい、いつも」


「いや、君がどれだけ布支度を大事に思っているかは、わかっている。くどく誘うのは、ただ、あまり根を詰めてほしくはないというだけのことだ」


「こうして顔を合わせて、同じ空間にいられるだけでも、かなり気分転換にはなっているの」


「ならいいが」


「……私も、リュディガーと散策とか……考えることはあるのよ。貴方だって忙しくなってきて、私もこれから短期とは言え教員にさせていただくから、今よりもっと時間が噛み合わなくなって、会えるのも少なくなってしまうのだし……」


 キルシェは手にしたカップを覗き込む。残り少なくなった水面に、やや困ったような顔の自身の顔。


「お忙しいし、お疲れなのに、わざわざ会いに来てくれて……なのに、お屋敷のどちらかでばかり__」


「なぁ、キルシェ」


 キルシェの言葉がだんだんと消え入りそうなそれになったところで、リュディガーが声を重ねるように発した。


 弾かれて彼を見れば、彼は穏やかな笑みでみつめている。


「私はな、そうやって、お針子をしている姿も、嫌いではないんだ」


「……ぇ」


「無論、本を眺めているでも、書き物をしているでも、窓の外を眺めているでも……あ、民族楽器カーチェを奏でているでも、いいな……。先日の、庭師の家で過ごした時、ことさら思った。だから、私も、こうして過ごすことは、嫌いではないんだ」


「眺めているのが、楽しいの?」


 いや、とリュディガーは笑う。


「__うまくは言えないが……いいものだと思える。もしかしたら、こういうものを守っているんだな、とでも思っているのかもしれないな」


 __守る……龍騎士として……?


 当たり前の日常が、帝国に当たり前のようにあるように__。


「__まぁ、正直に言えば、5回に1回くらいは応じてもらえると嬉しいが」


 少しばかりその口調は、悪戯っぽいもので唐突に明るく言うものだから、キルシェは面食らう。


「あまりにも修行みたいなことになっていたら、無理矢理にでも連れ出すから、そのつもりで。これは譲るつもりはないからな。泣こうが喚こうが」


 キルシェは困ったような笑みを浮かべ、頷いた。


 そこへ、リリーが入室の許可を求めるので、キルシェはカップを置いて、どうぞ、とすすめる。


 入室した彼女は、扉を閉めると二人に向かって丁寧に礼をとった。


「__お寛ぎのところ、申し訳ございません。キルシェ様、そろそろお召し物を」


 わかりました、とキルシェは立ち上がる。


「ナハトリンデン卿、リースマンさんは今出払っておりまして」


「左様でしたか。雪の中なのに、ご苦労様です」


 リースマン__ヘルムート・リースマンとは、この屋敷を主と執事に代わってまとめている従者。


「ですので、今しばらくお召し替えはお待ち下さい」


「いや、自分でします。もし戻ってきたら、出来上がったのを確認してもらって、これはいただけない、という部分があったら手直ししてくださるだけで十分」


「ですが……」


「私は外の人間です。いつも甘えさせて頂いているばかりでは申し訳ない。良い見本を、彼から間近でこの身を持って学ばせてもらっているので、それを発揮させてもらいます」


 まぁ、とリリーは小さく笑う。


「__リュディガー、今の言い方、先生なら言いそうですね」


 何、といくらか驚きに目を見開き口元を抑えたリュディガーに、キルシェはくすり、と笑ってリリーとともに部屋をあとにした。

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