相和する杯事 Ⅵ

「__キルシェ?」


 声を掛けられて、我に返るキルシェ。


 声の主に顔を向けると至極心配した顔を向けているから、思わず驚いて目を見開く__と、目の前の顔の輪郭が滲んだと思えば、目から雫が流れ落ちたので慌てて手で拭った。


「すまない、つまらない話しをした」


「い、いえ……」


 顔をやや逸らして目元をおさえ、ハンカチを取ろうとしていれば、リュディガーの大きな手が見越したように差し出してくる。礼を言いながら受け取って、ありがたく使わせてもらう。


「賢しらに自分は不運だったなどと言うつもりはなかったんだが……」


「……いえ、違うの……少し、昔のことを思い出していて……」


「昔のこと?」


「えぇ……寄宿学校のことを思い出して……そんなに思い出せてはいないのだけれど……」


 寄る辺なさの心細さたるや__16やそこらの子供とも大人とも言えない龍騎士の見習いの彼らも、あえて厳しい規律の中で生活を強いられるのであれば、抱くに違いないことは想像に容易い。


「__帰りたい、と思うものよね……」


 ありがとう、と使わせてもらったハンカチを畳み直して返し笑顔を見せるが、リュディガーは難ししい顔でハンカチを受け取った。


「私の場合、帰ったところで、さほど変わらない感じでしたけど」


「キルシェ……」


 自嘲気味に言ってみれば彼の視線はまっすぐで、キルシェはやや目を伏せるように俯く。


「__16の人たち……16というと、私は大学へ進学していた年だわ……」


 そこでビルネンベルクという恩師に巡り会えた。


「……大学では、帰りたいなんて思わなかった」


 大学生活では、恩師は間違いなく親代わりだったことは言うまでもない。今では後見人にまでなってくれている間柄だ。まさかこれほどの関係になるとは思いもしなかったが、肉親以上に思いやってくれ、ときには厳しくも接してくれていたビルネンベルクがいたからこそ、どんな苦境も耐えられる教養が培われたと言える。


「__教官がビルネンベルク先生でなかったら、どうなっていたのかしら……」


 まずリュディガーを紹介されることはなかった。紹介というが、あの当時は必修の弓射の指南役を頼まれて、という形。


 それがなければ、他の学生と積極的に交流をもたなかったキルシェだ。リュディガーに対しては、なんとなく見覚えのある学生止まり。おそらく名前も記憶しないままであっただろう。


「__まぁ、私が弓射で落第しそうで、そうなるくらいなら自主退学をしていた可能性が高いな」


「そうなの?」


「あまりにも不名誉だからな……伝説の学生として語り継がれたくはない__だのに、もうすでに表向きそうなってしまっているからな……」


 心底うんざり、というため息をリュディガーがこぼすので、キルシェは思わず笑ってしまった。


 そうしてリュディガーは一度、周囲を見張ってから、少し身を屈めて顔を近づけ、耳打ちするような姿勢を取るので、キルシェは思わず彼に倣って身を寄せた。


「ここだけの話、ビルネンベルク先生みたいな教員は、すごく人気が出たと思う。指導の仕方、采配の仕方……当時の私だったら、間違いなく心酔まで言っていた可能性はある」


 件の人物の耳はすごく良いが不在だ。それは彼も承知であるというのにわざわざ小声になるあたり、本当は言いたくはないことだったのだろう。


 キルシェはくすり、と思わず笑ってしまう。


「先生なら、確かに人気はでそうではあるけれど……リュディガーが心酔なんて、信じられないわね」


「だろう? 信用し切ると痛い目を見る人物もいるということを知らない幼気いたいけな子では、そうなってしまってもおかしくはない為人なんだよ、先生は」


 やれやれ、と首を振って姿勢を戻し、腕を組むリュディガー。


「__で、その先生の一番の気に入りで、しかもお墨付きの君はといえば、間違いなく先生の影響を受けているわけだ。いい指導者にはなるだろう、と思っている」


 キルシェは唐突に自分の話題にされて、きょとん、としてしまう。


「……だから反対しない?」


「ああ」


 キルシェは、改めて視線を便箋へと向けた。


「教養だけでなく、為人は私が保証できる。甘やかすだけでなく、厳しくもできるだろうし……__まあ、何様だと言われてしまうかも知れないがな」


 リュディガーの言葉に、御大層な評価だ、と首を振って肩を竦め、今一度便箋を読んでからテーブルに置くと、お茶を手にとって一つ口に含む。


 指先__とりわけ、左手の親指と人差し指の、針で突いた傷を見た。


 __3月から挙式まで2ヶ月弱はあるのだから、そこで一気に巻き返せばいいのよね……。


 普段から少しでもやっていれば、絶対数は減るだろうが、それでもそこそこにはできるだろう。


「__そうよ、出来なくはないわ……」


「ん?」


 ひとりごちて言えば、お茶を口に運んでいたリュディガーが、軽く聞き直すような声を上げる。


「お受けしようかと。__良いですか?」


「私は構わない。だが、気がかりの布支度は? いいのか?」


「指導のことがおろそかにならないように、毎日時間を作って……教員の契約が終わってから2ヶ月弱はあるので、そこで取り戻します。希望的観測といえば、そうですけど……間違いなく量は減ってしますし……取り戻すとは、やはり言えませんね」


 もう一度お茶を口に運ぶ。それはいくらか苦く感じられた。


 カップをテーブルへ置くと、大きな手が伸びてきて手を握られ、キルシェは息を詰めて弾かれるようにしてリュディガーを見た。


「私は、そこまで気にはしない。__忘れないでいてほしいのは、ただ君がしたいようにしてくれればいいということだ」


 穏やかな口調と表情で言うリュディガーに、キルシェは頷く。


「君が受けてくれたとなれば、ケンプフェルト卿はやっと安堵できるだろうな。請け負ってくれる人__能力と為人も申し分ない人を探すのは、いささか難儀するものだから」


「__ぁ……回答をしないとならないけれど、3日後という期限があるということは、また片翼院へ行くということかしら?」


「__あ、そうか」


 リュディガーもまた思い出したような声を上げて、キルシェの手を放す。


「言っていなかったな」


「何を?」


 居住まいをいくらか正すリュディガーに問いかければ、彼は咳払いをし、まっすぐ見つめなおした。


「3日後の慰労会、一緒に行ってくれるか?」


 慰労会、とキルシェは小首を傾げる。


 打診への回答をする__回答の方法に、どうして慰労会が関わってくるというのか、まるで見当がつかなかったのだ。


「元帥閣下が勇退なさるから、それの。身内ばかりの面々らしい。同伴を認められているので……よければ、その……一緒に」


 徐々に歯切れ悪くなるリュディガーに、キルシェも気恥ずかしさを覚えて頬が火照る。


 よくよく考えてみれば、そういう夜会のような場所に異性から誘われるのは、初めてのことだ。


「そこへ君も来るということで、3日後までには、とケンプフェルト卿はおっしゃられたんだ」


 __3日後……。


「あぁ……3日後までというのは、それで……。でも、また急なお話ですね」


 リュディガーは照れた表情から今度は気まずそうになって、後ろ頭をかいた。


「それがその……同伴するという概念がなかったんだ。__君と」


 キルシェはきょとん、とする。


「招待されたのは私で……だからいつものようにひとりで行くつもりでいたら、嘘だろ、と呆れられた」


「呆れられた? どなたに?」


「エルンスト。エルンスト・フォン・シェンク。覚えているか?」


「ええ」


 エルンストという人物は、リュディガーと同期。キルシェも面識がある。


「それから、ラエティティエルにもな」


「まぁ」


 ラエティティエルとは、リュディガーが大学へ入学する以前、中隊長である彼に仕えていた耳長族の侍女。彼女もまたキルシェとは面識があり、とても世話になった。


 ラエティティエルは、上司であるにもかかわらず、リュディガーには指摘すべきことは恐れることなく発する。かなりぴしゃり、と言い放つことが多く、リュディガーは彼女には頭が上がらなかった。


「婚約してるなら、連れて来るものだろう、と……」


「そ、そうだったのね……そう……」


「で、まぁ……わかるとは思うが、お披露目も兼ねることになる」


 ぽっ、と一瞬にして顔がさらに赤くなり、顔の火照りは強く、また全身までも熱くなった。


 喉が異様に乾きを訴え、キルシェはお茶の残りを一気に煽る。それをリュディガーが見守っている視線を感じているが、彼の方を見る余裕はなく、カップをテーブルに置いた手は膝の上できつく結んだ。


 __婚約者……なのよね、私……。


 自覚していないはずではないのに、どうしても戸惑ってしまう。


「__一緒にいってくれるか?」


 顔を覗き込むように、リュディガーが問いかけてきて、キルシェは思わず息を詰める。


 いくらか早い心臓の鼓動が落ち着いた頃、はい、と返した。言葉は掠れた吐息のようで、キルシェはきつく結んだ手を見つめながら、肯定を伝えるべく小さく頷く。


 ありがとう、と言うリュディガーには、自分の赤ているだろう顔を見られたくなくて、やはり視線を向けられない。


 その視線が行き着く先は、きつく握りしめた手の一方__左手の薬指に嵌められている指輪で、キルシェは幾度も指の腹で撫でるのだった。

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