相和する杯事 Ⅰ
倉へ弓射の道具を仕舞う学生等の様子を見守る。
不慣れな様子が微笑ましくて、顔をほころばせながらも、あまりにも手間取る学生に見かねて助け舟を出す。
すべての用具を戻して、弓射の教官のデリング師から総括を受ける様子を背中で見ながら、キルシェは倉の最終点検を済ませてから手直しして倉を出る。
遠く彼らを見守ることしばし、デリング師の言葉が終わると、学生等はキルシェへと向き直って頭を下げて下がっていくので、キルシェもまた礼を返して見送った。
「__助かったよ、ラウペン……じゃない、コンバラリア嬢」
最後の一人を見送りつつ、歩み寄ったのはデリングである。
デリングは元国軍の軍人。最終階級は大佐で、退役後はこの大学を卒業していたこともあり、大学で必修の弓射と馬術の教官となっている。
「新入生の最初の弓射が、一番手間がかかるからな……」
武具の付け方、弓の選び方、番え方__片付け、それこそ禁忌まで諸々教えねばならない初日。よくて、一矢試しで放って終わりである。
キルシェもそうであった。
__懐かしい。
当時のことを思い出し、内心、ほわり、と温かくなって笑んでしまう。
「ビルネンベルク師が私のぼやきを聞いて、まさか君を連れてきてくれるなど思いもしなかった」
「お役に立てて良かったです。新入生を見ていると新鮮で……こうして卒業後も遠慮せずに出入りできるのは、何だか楽しいですし」
リュディガーが与えられた所領から戻り、キルシェとリュディガーが卒業して、一週間が経っていた。
キルシェは、後見人のビルネンベルクの邸宅に厄介になっている。その後見人ビルネンベルクから、デリング師が困り果てて猫の手も借りたいのだそうだと聞き、手伝いとして大学へやって来ていた。
「またお困りでしたら、どうぞ使ってください」
「そうだな。いつかの落第した……いや、彼の人物の名誉に掛けて言い直すか。__しかけた学生を、矢馳せ馬を任せられるまで引き上げた指導は、なかなかできるものではないからね」
デリングの冗談に、渋い顔をするリュディガーが浮かんでしまって、キルシェは思わず笑ってしまう。
弓射の鍛錬場から、校舎へと続く渡り廊下へと進むよう手で示すデリングに従うキルシェ。
歩むデリングは後ろ手で手を組んで、背筋はまっすぐと伸びている。その立ち居振る舞いや覇気は、国軍の軍人としての名残だ。
「今日はその当人は、中央へ?」
「はい、二苑へ。復帰に向けての調整だそうで」
そうか、と言ったデリングは、足を止めてキルシェへと振り返った。
「そう言えば、コンバラリア嬢は、この後はどうするのだね?」
「昼食を頂いて、ビルネンベルク先生がお帰りになるのを待ちます」
「それは……一日拘束してしまったな……。なんとも忍びない」
「いえ、大丈夫です。邸宅でしようと思っていたことは、こちらへ持ってきていますからできますので」
「ならいいのだが」
デリングは私室で行うことがあるというので、キルシェとは中央の棟へ戻ったところで別れた。
キルシェは昼食を頂くために食堂へ向かう__が、その食堂の出入り口で、見覚えのある学生に声をかけられた。
キルシェとともに卒業を迎えることはなかったものの、ビルネンベルクを担当教官にもつ女学生だ。
ビルネンベルクが話があるので、食堂で2人分の食事を受け取ったら私室へ来るように、と呼んでいるらしい。
女学生には礼を言って、伝えられた通り食事を持って一路ビルネンベルクの私室がある南西の棟を目指した。人の流れは食堂へ向かって集中しているから、教官らの私室がある棟までくると人の気配はかなり少ないから、妙に足音が響く心地がする。
たどり着いたビルネンベルクの私室では、ビルネンベルクが見計らったようにお茶を淹れているところだった。
「お疲れ様だね、キルシェ。デリング師が先程少し立ち寄られてね、すごく感謝していたよ」
「左様でしたか」
こちらへ、とお茶を湯呑みに注ぎ淹れている応接用の卓へ促され、キルシェはそちらへ足を運ぶ。
「もしかしたら、いつかのように、弓射で落第しかけている輩の世話を任されるかもしれないね」
「そんな学生はなかなかおりませんよ。居たら困ります」
「でもねぇ、居たんだよねぇ……。しかも、帝国が誇る龍騎士の端くれでねぇ……。間違いなく、伝説度合いに箔がついたよねぇ」
「またそのような。先生、リュディガーの前では言わないであげてくださいね」
「約束は出来ないねぇ」
くつくつ、と喉の奥で笑うビルネンベルクに、キルシェは苦笑を浮かべることしかできない。
「__それで、先生。お話というのは?」
「話というか……この後のことをね」
キルシェが置いた食事のトレイを具合良く並べて、腰を下ろしたビルネンベルク。
「昼食の後ですか?」
「そう。今日はこの後、ちょっと出かけてもらいたいのだよ」
「お使い、ですか」
「お使いというわけじゃないんだが……レナーテル学長とね」
湯呑みを手に取り口に運ぶ、その最中でこぼれた言葉にキルシェは、下ろしかけていた腰を思わず止めて固まった。
「学長と?」
在学中、ビルネンベルクにお供として付き従うことは多かったが、大学の長たるレナーテルと二人だけで、どこかへ出かけるということはなかった。
怪訝にしていると、ビルネンベルクは喉の奥で笑って、座るように促す。
「取って喰われはしないから」
「あ、いえ……そういうことではなく……」
「私も詳しくは聞いていない。今日来ているのであれば、連れていきたい、と仰せでね。君の警護は、レナーテル学長でもできるだろう。私よりとてもお力がおありだし、そこらの輩よりよほど頼りになる。__目的の場所は二苑だそうだ」
え、と驚きにキルシェは目を見開く。
__二苑へ何故……。
帝都は北にある懸崖を頂く山を背に、南へ向かって扇状に広がる。
そして一苑から五苑と区画が分かれ、一苑、二苑は国家の中枢があり、三苑は禁域としての森__四苑、五苑と続く帝国民が生活を営む区画とを隔てる森が広がっている。
「君も知っての通り、目的地の二苑に着いてしまえば、そこは国家の中枢。どうにでも対処できる心強い者たちの巣窟だから、現地では何の心配もいらないよ」
三苑より上の層は、一般人は自由に行き来できない領域。そこへどういう用向きでキルシェがお供として指名されてレナーテルとともに赴くのだろう。
__ま、まぁ……用向きがあるのはレナーテル学長で、私はお手伝いということでしょうから、そこまで考えなくていいでしょう……。手伝う内容が不明だけれども……。
「二苑は洗練された場所だろう? レナーテル学長のお付きでいくのであれば、教養があって所作に申し分ない者でないと__ね?」
くつくつ、と喉の奥で笑うビルネンベルクは、湯呑みを置いてカトラリーを手に取った。
「二苑にはリュディガーがいるから、帰りはリュディガーに屋敷へ送って貰うと良い。リュディガーは慣らしだから、そこまでかからなかっただろう?」
「おそらく」
リュディガーは慣らしということで、午後のお茶の時間ぐらいには職場から出られるらしく、帰りには必ずビルネンベルクの邸宅へと寄って、時には夕食を一緒にとってから、自身の借りている家へ帰っていく。
「では、そうしてくれ。私は今日はこちらで寝てしまうと思う。屋敷へ戻ったら、皆にそれを伝えてくれると助かる」
「承知いたしました」
「ありがとう。__では、食べてしまおう。学長をお待たせすることになっては、ね」
はい、とキルシェは頷いて、カトラリーを手に取った。
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