いつかの面影 Ⅳ

 料理人のブルメスターの見立てによると、厨房を再開させるには明日以降になるという。故に、昼食はキルシェとリュディガーが逗留してすぐに使える庭師の家で、用意することになった。


 食材はブルメスターらが運んでくれたものを使い、もっとも手持ち無沙汰なキルシェが手伝う。


 そして用意できた食卓を囲う。雇い主と、執事と料理人、そして手伝い__かなり恐縮させてしまった食事となったのは言うまでもない。


 午後は、男衆は揃って屋敷の手入れの続きにとりかかり、料理人も屋敷の厨房で今現在で可能な範囲で作業をしに行ってしまう。唯一キルシェには手伝えることはほぼなく、庭師の家に留まることになった。


 休憩の時間を気にしつつ、いつ何時お茶を求められてもいいようにお湯の番をしながら、持ってきた布を弄っているのだが、料理人が夕食の支度に現れるとキルシェはそれを手伝うことにした。


 料理人の手際の良さに感嘆しながら、必要ないだろうに、と笑われながらも教わって作る食事。寄宿学校に追いやられていた頃もそうであったが、意外と好きだったからとても楽しいものだった。


 その夕食の支度が終わってから頃合いを見計らったように現れたのはリュディガー、ホルトハウスの二人だけ。アルノーとボヤールは必要な物品の手配を兼ねて、天候さえ悪くなければ毎日通いらしい。


 昼と同じで、同じ卓を囲っての食事が終わると、ホルトハウスとブルメスターは日中使えるようにしておいた使用人部屋へと去っていった。


 昨夜と同じ二人きりになって賑やかさが引いた家屋の窓から、辛うじて屋根の上に見える使用人部屋の小窓に明かりが灯るのをキルシェは見る。


「寒くはないですよね? ブルメスターさんとホルトハウスさ……は」


 口癖になりつつあった呼び名を、キルシェは辛うじて封じた。


「ああ。煙突は通したし、寒くないよう、魔石も持たせたから」


 __でもきっと、使わないのでしょうね。ホルトハウスは。


 執事としての矜持の権化といっても過言ではない。


 キルシェは苦笑を浮かべて、小窓を見つめた。


「あれだな。なんというか……本当に、このぐらいの家で十分な気がしてくるな」


 リュディガーの言葉に、キルシェは視線を断って振り返る。


 彼は、ホルトハウスにもらった酒__夕食時の残りである__を注いだグラスを、キルシェの定位置になりつつある布支度の道具が置かれたままの、暖炉近くの長椅子へと置いたところだった。


「使用人にはあっちに寝泊まりしてもらって、屋敷の維持管理と来客応対を……とはいかないな」


「ホルトハウスとリーツさんが許さないと思いますよ」


 違いない、とリュディガーは笑って、自身の分として酒を注いだグラスと書類を手に暖炉近くの一人掛けのソファーに腰掛けた。


「私は、それもいいと思いますけどね」


「食事の支度を毎度させることになるな」


「私が手を出しましたから、美味しくはなかったですか?」


「いや、十分美味しかったよ。__嬉しかった」


「嬉しい……?」


 酒を一口含んでいくらか照れたような表情のリュディガーに、キルシェはきょとん、とする。


「いつかの時を思い出した。まだローベルト父さんが生きていて、一緒に借家で食事を準備して食べた頃の……」


 こぢんまりとした帝都の借り部屋で暮らしていた、リュディガーの父と幾度かそうしたことがあった。


 思い出すと、苦しいぐらいに愛しい時間だ。


 もう戻ってこない時間。


 それと今夜の食事を重ねて見て、嬉しいと言ってくれたことに、キルシェは切なさと同時に、嬉しさを覚える。


「__だが、美味しさ、とかそういうことじゃない。たまにやるのと、毎食やるのとでは負担や勝手が違ってくるだろう」


「それは……そう、ですね……そうかも知れません」


 庶民の家では__と、思い起こして、最近見かけたドッシュ村の家での営みを思い出す。


 暖炉が厨房を兼ねている一般的な家。妻、母という立場の者は、食事はもちろん、家の雑務を一挙に担う。それは毎日。


 __あのお家は、工房が隣接していたから、何かあれば頼れるのでしょうけれど……。


 キルシェは思い起こしながら、布支度の道具とグラスが置かれた席へと足を向け、腰掛ける。


 そして、気を引き締めようとひとつ呼吸を整えてから、布支度の道具に手を伸ばした。


「君は、有閑階級のご令嬢でありながら、庶民的なところが備わっていると思う。器量良しだと思っているから、そつなくこなしそうではあるがな」


 運針をしょうとした刹那の言葉に、手を止めキルシェは膝に下ろしてリュディガーを見る。


 リュディガーは、手元の書類に目を落としていたが、どこか遠くそれを見つめているようにキルシェには見えた。


「買いかぶり過ぎでは? 私、確かに、寄宿学校に入れられて身の回りのことはできますけれど……世間知らずには違いないですよ」


 __実際、軟禁生活で……。


 外界と隔絶された生活を強いられていたから、どこかずれている部分はあると思っている。ただ、どこがずれているのか、とは明確にはわからないが。


「__買いかぶってはいないさ」


 リュディガーは、小さく笑って視線を上げ、窓の外を見やる。


「……私は、有閑階級とは世帯は持てないだろうな、と思っていた。龍騎士になって社交界に出入りするようになって、まず思ったことはそれだ。そんな私が、一緒に歩みたいと思ったのが唯一、君だけだった」


「ぇ……」


どきり、と心臓が一つ跳ね、キルシェは言葉を逸した。


「有閑階級で、となると家の存続のため、婿入りもあり得る。同僚の中には、地位や名声を求めている輩は少ないが……必然的にそうなることが多い。紹介されたらお見合いをして、よければ世帯を持つことになるのかも、という程度でいた」


 それは一般的なことだ。特段珍しいものではない。


 キルシェもそうなるものと思っていて、実際、一度目の前の彼と婚姻を結んだ時も、お見合いの最たるもの__政略結婚といっても良かった。


「私は合わせられると自負があるが……その逆は考えにくいものだった。降嫁してもらうのは、現実的ではないから」


「そうなの?」


「あまりにも庶民すぎるからな、私は。龍騎士だが、田舎の領地管理人の……しかも、養子だから」


 酒のグラスを持ったリュディガーは、自嘲気味な笑みを浮かべる口に運ぶ。


「そして、君を知って……一緒に歩んでくれるだろうし、歩めるだろう、と……。こんな人がいるのか、と思うほど、器量良しだ。__偉そうに言っているように聞こえるだろうが」


 リュディガーは視線を向けてくる。その視線は穏やかなものだが、今のキルシェにはひどく心臓に悪く、思わず視線を逸らせた。


 そこで目に留まったグラスを手に取ると、ひとつ、多めに口に含んで飲み込んだ。


「……で、えぇっと……何のお話でしたっけ……?」


 火照った頬は軽く押さえて、声が裏返りそうになるのを堪えながらキルシェは話題を戻そうと努める。


 そもそもはこんな話ではなかったはず__しかしながら、気持ちが浮ついてしまっているのか、思考が滑ったように会話を思い出せずにいた。


 すると、リュディガーが、くつり、と笑った。


「__やはり、このぐらいの家がちょうどいいという話題だった」


「ああ、そうでした、そうでした」


 ぽん、とキルシェは手を軽く打った。


 リュディガーは笑って、書類に視線を落とす。


「使用人に出入りしてもらって家事を手伝ってもらってもいいが、それではあっちと変わらないからな。ただ彼らの負担になるばかりだ。まあ、やめておこう」


「そうですね。現実的ではないですね」


「そう__」


 首肯したリュディガーは、あ、と短く思い出したような声を上げた。

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