いつかの面影 Ⅲ

 一階から見て気づかなかったが、二階から見ると全景がよく見える。


 主寝室になるだろう部屋等をみてから、いくつか部屋を見、最後の部屋__北東の部屋。


 その部屋の一つから露台へと出ることができ、キルシェは外へ出た。


 屋敷からさほど離れていない場所に広がる湖は、貯水池の役割を担っている__リュディガーがそう示した湖は、湧水もあるからなのか結氷しきっていない場所もある。それでいて境界が曖昧だった。岸辺近くの凍った湖面に雪が積もって地続きに見えるのだ。


 その湖の先には、小高い丘のような山。そのいくらか後方にも山が連なり、その連なりのあたりが州境となる。


 冬の澄んだ空気のおかげか、霞もなく、州境まで見えることに驚かされる。


 __この所領は、州境近くなのね。


 昨日は雪で見通しは悪く気づけなかった。


「__一応、あの湖も所領らしい。小さな山というか……丘があるだろう。あのあたりまで。馬でまぁ……一刻かそのぐらい」


「そう」


「ゲブラーとじゃ気候が違いすぎるから、私の培った領地管理人の小倅としての知識はそこまで通用しないだろうな」


「領地管理人を雇うのでしょう?」


「まぁ、そうなんだが」


 苦笑するリュディガーにキルシェは笑って、寒さから逃げるように部屋の中へと戻った。


「__一通り見たが、どうする?」


 どうする、とは私室にする部屋のことだ。


「ここにします」


「やはりか」


「やはり?」


 小さく笑ったリュディガーに、キルシェは首をかしげる。


 ガラス戸を閉めるリュディガーは、肩をすくめて部屋を見渡した。


「__ここに初めて来たとき。あぁ……まさしくだな、と思った」


「?」


 何の話だろう。いかんせん的を得ない話に、キルシェは怪訝になる。


「いつか見た景色」


「……それは……リュディガーが見た景色のこと?」


 ああ、と自嘲を浮かべるリュディガーはどこか照れくさそうに見える。


 いつか見た景色__特殊な経緯を経て、特殊な言葉を会得して見えた景色のこと。


 表意文字、表音文字__別の言語を学ぶと、その言語形態のせいでか、ものの捉え方が変わるのだそう。


 とある部族では時間の概念がない。だから時間を示す言語がない。だがその部族の者が、時間の概念がある言語を学ぶと時間というものを認識する。彼もその延長の事が起きたらしい。


 特殊な任務にあたるに際し、身につけておいて損は無い、ということで身につけた言語。


 帝国では時間が過去から未来へ進むことをもとにした言語だ。これを線形と言い、これはどこの国でも大抵そうだが、彼は、非線形という異質な言語を学んだのだそう。それは、無理やりな会得と言えばそうであった。


 全て同じときにあって、ないことになる言語。


 現在の一般的なヒトが知覚できない境地を覗き見ることになる言語。


 この弊害で、彼は断片的に色々な刻を見たという。


「__君は、ここを使っていた」


「そうなの」


「もっと明るい部屋があっただろう」


「あぁ……それは、そうなのですけど……」


「最初にここを見せたら、ここにすぐ決めそうに思えてな。本当にいいのか、と思って……だから、他の部屋を先に見せた。__で結局、やはりここか、と。以前の屋敷は、もっと日当たりが良かったし」


「そう……でしたっけ……。言われてみれば、そうであった気がするけれど……」


 キルシェは言って、窓を見る。


 かつての屋敷は、確かに日中、穏やかな陽光が差し込んでいる部屋ではあった気がする。


 部屋の中で最も東に向いた窓。


「__ここ、眺めがとてもいいですから」


「まあ、それはそうだが……。もう少ししたら、この時期は、こちら側は直接温かな陽光が入らないだろう?」


 その先には、白銀の世界でもわかる、緩やかな丘陵地が広がる。さらにその先には__。


「__帝都からリュディガーの帰りを一番気がつけると思ったので、それで……」


 視界の端で、リュディガーが顔を向けたのが見えたが、気恥ずかしくて、キルシェは東向きのその窓へと歩み寄って、視線に気づいていない風を装う。


 前の屋敷でも、この部屋同様露台がある部屋を私室にしてもらった。この屋敷よりも広さがある露台で、角部屋であったこともあり、三方を見渡せはした。


「……たしか、あの屋敷でも……眺めのいい部屋を選ばせてもらったのは、同じ理由でした……」


「キルシェ……」


 あの頃__と今思い出しても、形容詞しがたい複雑な感情だったといえる。


 お互い慕って、思いを通じあわせたものの事情があって道を分かち、三年を経て奇縁で再開した。再開した彼はまるで人が変わっていて、切なかった。そんな彼に政略結婚として嫁がされ、いたく失望も味わった。だが__。


 __変わってはいたけれど、変わってはいなかった……。


「不本意な結婚で……血も凍った『氷の騎士』など畏れられていましたけど……それでも、身を案じてはいましたから……__っ!」


 くすり、と小さく自嘲を浮かべた直後、背後から腕が回され抱きすくめられた。


 キルシェは心臓が止まるほどの驚きで声を逸し、身をこわばらせる。


 抱きすくめたのはリュディガーで、その彼はそこそこの距離があったはずだ。それが近づくことも感じられず、抱きすくめてきたものだから、驚かないわけがない。


 絞め殺されるほどの強さではないが、彼の腕はがっちりと捉えて放さず、さらに背後から肩口へ埋められるリュディガーの顔に、キルシェはさらに体を緊張させる。


 心臓の音が跳ねるように早くなるのは、驚きだけではなさそうだ。


「初耳だ」


「そ、それは……言ってなかったですから……言うほどのことでもないですし……。それに、リュディガーが戻ってくるときは、あなたの雇ったまじない師さんが、あらかじめ教えてくれていましたから」


「なるほどな……」


 いくらかそのままで動かないリュディガーに、キルシェは静かに脱出を試みるが、太い腕は許さなかった。


「……あの頃、君が私にぴしゃり、と言ったことがあっただろう。覚えているか?」


 静かに、リュディガーが言う言葉にキルシェは動きを止める。


 __何か、あった……わ。ええ、あった。


 婚姻から齟齬があったような関係だ。無いはずがない。そして、その婚姻関係は長くはなかったから、それなりに出来事を覚えてもいる。


「……なにか言った気はします」


「私は一応、貴方の妻ではないのですか__と」


「あぁ……えぇ……申しました……」


 啖呵を切るような言い方だったのは、リュディガーが予め長期の任務を知っていたにも関わらず、当日出るときまで何も言わずに出立しようとしていたからだ。


 しかもその場には、今の執事であるホルトハウスも見送りで居た。


「あのとき、君の口から、貴方の妻ではないのか、と言われて……とんでもなく、


「嘘……」


 リュディガーの腕がいくらか強く彼の体へ引き寄せる。


 厚手の布越しでも、彼の温かな体温が伝わってキルシェは顔が赤くなった。


「今更、嘘を言ってどうする」


 耳元近くで囁かれ、思わず息を詰める。


 彼の声は、酷く心臓にわるい響き__艶を含む事がある。まさしく今がそれ。


 大柄な体に見合った声は低く、それでいて粗暴ではなく、穏やかで、脳髄に響くような__。


 すると、いくらか腕を緩められた。


 恐る恐る肩越しに振り返るキルシェ。


 間近にあるリュディガーは穏やかに笑んでいて、まるで当時の面影はなかった。


「よかったよ……いつか見た景色がちらほら見えて……」


 その顔は当然のことであるのに、キルシェはその顔をみて安堵する。


「そう」


 リュディガーの顔が近づいてきて、口づけをされた。


 あの当時であれば、信じられないこと__。

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