封土の屋敷 Ⅴ
リュディガーが固まるのと、キルシェが息を詰めるのは同時だった。
確かに来訪を伝えるノックに聞こえたが、外は雪が降っているし、そもそもこの屋敷は無人として知られているはずだから、来訪者などいないはず。
__風……?
その可能性を考えたとき、再びノックされて、気の所為ではなかったことが確定した。
__では、誰が……?
妙な緊張がキルシェを襲う。
リュディガーを見れば、キルシェに一瞥した彼は、席を立ったときに流れるような動作で腰に佩いた太刀に手をかけて扉へと向かう。
もう一度ノックがされた。
「__申し訳ない、ご在宅でしょうか?」
ノックとともに、やや張り上げた男の声にキルシェは、新たに鼓動が早くなったのを自覚した。
「待ってくれ、いま出る」
応じながら、リュディガーの目がキルシェへと向けられる。
__奥へ……。
万が一に備えて奥の扉へ駆け込めるように、と目配せで訴えている。キルシェは頷いて、席を立って、静かに扉へと歩み寄った。
部屋は温かいはずなのに、妙に身体が強張っている。
キルシェが扉近くに控えたのを確認してから、リュディガーは玄関の扉を開けた。
蝶番の音とともに、吹き込んでくる寒風の音は鋭い。
細く開けた扉から、リュディガーが外を伺った。
「__これは」
「あ」
最初の声は、外から聞こえた男の声。一瞬遅れた声はリュディガーのそれだが、明らかに驚いた声音だった。
「__どうし……あ、と、とりあえず中へ」
「ありがとうございます。少々お待ちを」
「雪なんて、中で払って構いませんから」
さぁ、と腰の太刀から手を放し、扉をさらに開けてリュディガーは外にいた人物を招き入れた。
厚手の旅装束を纏った男が踏み入ると、リュディガーは急いだ様に扉を閉めるから、キルシェは怪訝にしてしまった。
「来るのは、明日になると記憶していましたが」
「ええ、明日訪れる予定でしたが、最寄りの村に早く着いてしまいました。時間もありましたから、ならばちょっとこちらを見ておこうと思いまして立ち寄ったのです」
__知り合い?
リュディガーが警戒していない様子だから、大丈夫なのだろうが、万が一に備えろ、と控えているキルシェは指示を待つ。
「無人のはずなのに煙が上がっておりましたので……不届き者が居着いてしまったのか、と」
「ああ、なるほど」
穏やかな口調で、上品な喋り方。
大柄なリュディガー越しで、キルシェには会話の相手である男は見えない。
雪を払い落とし、外套を脱いだ男から、リュディガーはそれを受け取ろうとするが、固辞されたようだ。
そこでリュディガーがキルシェへと振り返る。
その顔は、どこか悪戯っぽい顔で、思わず眉をひそめると、リュディガーは身を引いて来訪者を見せた。
来訪者は恰幅があって、穏やかな表情の老年の男。
その顔を、キルシェはそう遠くない過去の記憶に鮮明に残っていて、驚きに思わず口元を抑えた。
「ご無沙汰しております」
恭しく、至極丁寧な手本のような礼をする男。
「ホ、ホルトハウスさん?!」
何故彼が__。
キルシェは言葉を失って、リュディガーを見た。
「お忘れではなくて、安堵いたしました__奥様」
彼は、かつてリュディガーが任務中に下賜された、イェソド州の辺境の屋敷で雇った執事である。
そこで、形式上夫婦として生活したキルシェは、もちろんホルトハウスのことを知っている。__奥様、と呼ばれていたぐらいなのだ。忘れるはずがない。
リュディガーの任務が終わり、その屋敷と土地は別の者へ引き継がれ、雇っていた使用人には数年分の生活費を、退職金としてまとめて支払い解雇した。
希望する者はそのままその屋敷へ新たに来た主に雇われ続けることもでき、それぞれが望むように便宜を図り、手配したと聞いている。
ホルトハウスは、リュディガーが引き払うと同時に、事後の処理を新しい執事へ引き継いでから自身は辞めていたはずである。
だから彼がここにいることは、キルシェにとって驚きでしか無い。__もう会うこともないだろう、と。
「ど、どう……?」
はくはく、と動くばかりの口では、うまく言葉が続いてこない。
それをリュディガーだけでなく、ホルトハウスにもくすり、と笑われてしまう。
「新しいお屋敷で、雇っていただくことになったのです」
「……それは……ここ?」
「左様でございます。ですから、こうしてこちらに」
リュディガーはそこで、テーブルへとホルトハウスを誘った。そして、キルシェにもまた、戻ってくるようにと座っていた席を示すので、キルシェは弾かれるようにして従う。
元の席へ着こうとするが、そこでホルトハウスのお茶を淹れねば、と気づいた。しかし、そのときすでにリュディガーがお茶を淹れるために新しい茶器を持ちに、食器棚に並べられた持参した食器へと向かっていて出る幕はないと悟る。
「どうぞ、お構いなく」
「いやいや。こんな寒いのにお茶も出さないなんてことはないでしょう」
リュディガーが笑って言う言葉に、キルシェも思わず笑ってしまった。では、とキルシェはホルトハウスが手にしたままの濡れた外套を渡すように促した。
「いえ、こんなことまで……とんでもないです」
「ホルトハウスさんは、今はお客様でしょう?」
「そうだな、お客に間違いない。まだ正式に、雇ってはいないからな」
リュディガーがキルシェの言葉に添えるので、思わず、くすり、と笑ってしまう。そこで観念したようにホルトハウスは外套を手放した。
それを暖炉の直ぐ側に掛けていれば、背後でお茶を配する気配がして、キルシェは着席する。
「お手数をおかけいたしまして」
恐縮したようにホルトハウスが言って、お茶を口に運んだ。
ほっ、としたため息を吐き出すのを見守ってから、キルシェは口を開いた。
「ホルトハウスさんを、リュディガーが雇うの?」
「そういう打診をしたんだ。ここの屋敷を下賜されて、使用人を雇わないとならなくなったとき、駄目元で手紙を送ったんだ。駄目なら、ビルネンベルク家の伝手で紹介してもらうということも考えていたが……その後が気になりもしていたから。__で、明日ここに来てもらって実際に見てもらって……という流れだった」
「雪が降りましたから、どうだろうと思っていたのですが、思いの外、旅路が順調で早く着いてしまったのですよ」
「そうだったのですか。__お元気そうで、よかったです」
「奥様も、お変わりなく。拝顔でき、嬉しゅうございます」
奥様、と聞いて、キルシェはいくらか照れを覚える。
「__あの、いまは、そうした間柄ではないので……」
説明済みなのだろうか、と視線でリュディガーに向けると、ホルトハウスが小さく笑った。
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