封土の屋敷 Ⅵ
「__はい、存じ上げておりますが……私の中では、奥様という認識のままですので。それにゆくゆくは、そうおなりなのでしょう?」
「それは……はい……」
なんとも照れくさい。
「それも、宜しゅうございました。お二人のこと、恐れながら、気がかりでおりましたから」
特に、とホルトハウスは言って、キルシェを改めて見る。
「__奥さ……マイャリス様のことが」
「私……?」
「はい。その……実を申しますと、あのお屋敷を引き払うにあたり、要望を使用人ごと聞いてくださっていただいたとき、私はマイャリス様に着いていくことを望んでいたのです」
「そうなのですか?」
キルシェはリュディガーを見る。
視線を受けたリュディガーは、肩をすくめて腕を組む。
「ああ」
「まぁ……」
ホルトハウスは、柔らかく笑んでから視線を落とし、湯呑を遠い視線で見つめる。
「お立場が危ういと思ったのです。そこまで見知った馴れ馴れしい間柄ではございませんでしたが、いないよりはよいだろう、と……」
__そんな、風に……。
ホルトハウスは、威厳あふれる執事だった。
いつも慌てず騒がず毅然とし、矜持をもって仕事に当たっていた執事。有能だったことは違いない。
夫婦仲は形骸化していたとはいえ、そんな事情は彼には関係ない。彼に恥をかかせられない、誇れる主にならねば、とキルシェは振る舞いを一層奮起していた。
「ですが、要望を聞いてくださっていたクライン殿は、それはできない、ときっぱりとおっしゃられた」
リュディガーとは別の筋で同様の任務についていたのが、クリストフ・クライン__大晦日で大ビルネンベルク公に遅れて現れた、今はライナルト・アークと名乗っている男である。
「国として、しかと計らうから必要ない、と……。聞けば、ビルネンベルク侯のおひとりが後見人になるということでしたから、それはそれで安堵していたのですが……。__では、その後はどうなるのだろう、と」
これほど気遣われていたとは、思いもしなかった。
自分は、リュディガーの任務において、恨み辛みの向かう先になっても仕方のない立場だったし、それを甘んじて受け入れるしかないことも承知だったのだ。
暴挙を間近に見て、止めることもできずにいた自分だったのだ。歯痒い思いをし続けていたことは、彼らの預かり知らぬこと。足掻いていたことも然り。恨まれこそすれ、仕事でも仕えることに含むことはあって当然、と理解もしていたというのに__。
ホルトハウスは、お茶をひとつ口に含むと、ため息を吐いてその湯呑の中を再び見つめた。それはどこか、遠い視線である。
「マイャリス様が、後見の方の見立てでまずもって間違いのない御仁を__良い方を紹介されるでしょう。それでも、そうなるのは惜しい、と」
「惜しい……?」
「はい。よく……本当によく話し合いをなされば、良いご夫婦になるとお見受けしておりましたから。私は職業に人生を捧げましたので、世帯を持つことはしませんでしたから、夫婦のなんたるかを語る資格などないとは思いますが……それでもそう思いました」
「ホルトハウスさんは、人生経験で言えば、十分に語る資格はあるでしょう」
リュディガーの言葉に、ホルトハウスは苦笑を浮かべる。
「政略結婚など珍しくはないこのご時世に、政略結婚のような形でも、想いやっているのがわかりましたので。対等に、そして誠実に。それ故すれ違ってしまっている。誤解を抱いてしまっている……それが気がかりでおりました。__お仕えして、ナハトリンデン卿は噂通り、血も涙も凍った『氷の騎士』などとは違うのではないか、と思いましたし」
『氷の騎士』とは、リュディガーが任務中に周囲から受けた評価を表した異名だ。
州侯のご下知こそ法__それは州においては間違いではないが、どんな命令にも背くことなく従っていたことに起因する。
「マイャリス様のお立場をよく理解なさっていて、心中も察していたナハトリンデン卿。ご夫婦の間、冷たく突き放して居られるようでしたが、それはお守りするため、巻き込まないためだったのだと……後に、色々とお話をしていただき、合点がいきました。ですから、婚姻が解消されると聞いて、なおのこと、惜しい、と」
リュディガーは、自身が首の皮一枚で繋がっていた命だったと言っていた任務。彼自身余裕がないだろうに、それでも守ろうとしてくれていたのは、キルシェ自身も彼の任務が終わってから知ったことだった。
静かに言葉を紡ぐホルトハウスは、視線をキルシェへと向ける。
「__お二人が、また一緒におなりになると知って、とても安堵いたしました」
「ホルトハウスさん……」
柔和に笑むホルトハウスは、残っていたお茶を一気に煽ると席を立った。
「では、私は今日はこの辺で戻ります。暗くなる前には、村に着きたいので」
キルシェは窓の外を見る。
雪の降りも弱まっていて、空はまだ明るい。戻るのであれば今だろう。
「お二人は、今夜はこちらにお泊りということでしょうか?」
「ええ。屋敷はざっと見たところ、色々と整えないと一泊するのも難儀すると思ったので」
「だからと言って、このような庭師の家などに……同じ村で宿をとられるほうがよかったのでは?」
「今回も龍で来ているので、こちらに泊まる方が騒がれないと」
「なるほど。__ですが、村では龍騎士の龍が近くを飛んでいたという話がありました。この屋敷の近くに降り立ったらしいことも。そうした話もあり、もしや、と思い来たのです」
「そしたら、屋敷でなく庭師の家の煙突から煙が出ていた__と」
「はい。不届き者でなくてよかった」
「本当に。かなり豪胆なことですよ」
「まあ、荒事はそれなりに慣れてはおりますので」
__荒事に慣れている……?
これほど物腰柔らかく、上品な立ち居振る舞いの紳士が。
キルシェは驚かずにはいられない。
確かに、不届き者だったら、どうしていたのだろう。
叩き出すことなど、彼にできたのだろうか__否、そもそもどうやって対処するつもりだったのだろうか。
__そういえば私、ホルトハウスさんのこと、それほど知らないでいる……。
世話になっていたというのに。
興味がなかったという訳では無いが、根掘り葉掘り聞くことではないと思えたからだ。
リュディガーはそこまで使用人と交流を持っていない様子だったから、ホルトハウスのことをよく知っていることが、あまりにも意外である。せいぜい、自分と同等の知識しかないと思っていたから。
「頼りにしておりますから、どうか無茶はしないでください、ホルトハウスさん」
この言葉に、ホルトハウスは笑顔を深めるばかりで答えることはしなかった。
そんなホルトハウスに、リュディガーは外套を手にとって歩み寄る。
「そういえば、ナハトリンデン卿、他の使用人の目星はいかがなのでしょう?」
外套を受け取りながら問われ、リュディガーは唸った。
「ビルネンベルク家で、紹介をしてくれるそうですが……どれぐらい雇うべきなのか、皆目わからないので、そのあたりも明日、相談させていただきたいです」
「承知いたしました。明日も、こちらにお泊りで?」
「明日は、屋敷で使える部屋ができそうなら、そちらに移ろうかと。__彼女がこちらで十分というのなら、このままですが」
キルシェは二人の視線を受けて、はっ、と居住まいを正す。
「私は、こちらで十分ですよ」
「まだ泊まってもいないだろうに」
くつり、と笑うリュディガー。
「それは……そうですね。でも、私、寄宿学校にも行っていた身ですし、吊床にも寝られますから」
「吊床……? いったい、何のお話ですか」
なにかの間違いでは、とホルトハウスが驚きに目を見開くので、キルシェは苦笑する。
「えぇっと……ちょっとそうした機会がありましたので……」
「後見の方が、そうした機会を与えてくださったんだそうだ」
「なんということを」
「楽しかったですよ。……熟睡はできませんでしたが」
「それはそうでございましょう」
「ドゥーヌミオン・フォン・ビルネンベルク侯の名誉にかけて補足すると、後見になる遥か以前の出来事ですから。お供でついていった先で宿をいくつか提案してくれて、それで彼女が選んだ」
「おやまあ……」
あんぐり、と口を開けて言葉を逸するホルトハウスは、気を取り直すかのように首を振って、扉へと足を向ける。
そして、扉の前が外套を着込む彼を見守って、リュディガーが徐ろに差し出した。
「これは」
差し出したそれを受け取り、ホルトハウスは吟味する。
小指ほどの太さの、竹でできたものだった。
「笛です。何かあれば、それを思い切り吹いてください。一応、ゾルリンゲリ__私の龍を護衛に空からついていかせますが、つぶさに気づけば対応するでしょうが、それでも何か見落とすかもしれないので」
「いえ、そんな大丈夫です」
「まだ雪は降っています。遭難しないとは思いますが、心配なのでそうさせてください。彼女がいて、ひとり残してここを離れるわけにはいかないので……お独りで行かせてしまうのが申し訳ないのですが」
「それは、承知しております。__ありがとう存じます、ナハトリンデン卿」
いえ、とリュディガーが首を振って、自身もまた外套を手にしようと向かう。
「門までご一緒します」
「よろしいですのに」
「いや、流石にそれぐらいはさせてください。__キルシェ、いいか?」
「ええ、もちろん。お願いします、リュディガー」
手早くリュディガーが外套を着込みながら、扉まで戻ってくる。
「そうだ。__ホルトハウスさんから、いま何か気づいたこととか……何か要望がありますか? 手配しておけるのなら、そうしておきます」
ぐるり、と家を見渡したホルトハウスは、しばらく考えたのち口を開く。
「では、ひとつございます」
「何でしょう」
リュディガーは、居住まいを正した。キルシェもまた、思わずそれに倣う。
「__敬語は、明日からおやめください」
「敬語……」
思いもよらない言葉に、リュディガーは目を見開く。
「はい。主に敬語で話されるというのは……なんとも調子が狂います。ある日突然、戻ってきた主が、腰低く敬語で話すようになったときの戸惑いといったらなかったですから。__雇うからには、そのように」
任務の終わり、リュディガーは屋敷の皆に伝えられる範囲でのことを伝えた。
その時、確かに武人然としていながらも腰を低く言葉を改めていた。それを目の当たりにして、特に戸惑っていたのはホルトハウスだった。
「それは……承知しました」
硬い口調で応じたリュディガーに、ホルトハウスは柔和に笑む。
「雇っていただいてからは、きっと口調は以前のようになるとは信じておりますが、念のため。仕事に張り合いが出ます」
そして、彼は外套のフードを被って扉を開けた。
扉をくぐると、リュディガーもキルシェへ一瞥をくれてあとに続く。
「それでは、キルシェ様。__また明日」
「はい。お気をつけて」
ホルトハウスは、一度振り返ってキルシェへ丁寧な礼をするので、キルシェもまた礼を返して見送るのだった。
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