封土の屋敷 Ⅱ

 彼は棒を肩に担いでいた。


 棒には大きな桶をふたつ吊り下げている__天秤棒だ。


 彼は一度背後を振り返る。彼の背後には龍の顔があって、リュディガーの目配せを受けた龍は、鼻先で扉を押して閉めたのだ。


 呆気にとられていれば、外で大きな影__身体が動いて、窓の外から血のような龍の片目が覗き込む。


 知らなければ、悲鳴を上げていたか__否、驚きすぎて声もあげられず、動けなかっただろうその光景。


「今、沸かす」


「沸かす……」


 天秤棒を担いだまま奥の扉へ向かうリュディガーの、桶の重さに耐えるようにして歩く様に、かなりの重さであることがうかがい知れ、キルシェは先回りして扉の近くへと駆け寄った。


 目配せでどちらの扉かを確認し、顎をしゃくって示された方を開くと、居間よりも狭いがらんどうな部屋があるだけだった。


 戸惑っていると、その奥にもうひとつ扉があることに気づいた。


 キルシェは駆け寄ってそれを開ける。


 さらに狭い部屋の床はタイル張りで、暖炉もあった。人が入れるほどの大きさの盥が置かれていて、おそらくはこれが浴槽なのだろう。


 遅れて到着したリュディガーは、キルシェに礼を言って、天秤棒に担いできた桶の中身を浴槽へと入れた。


 え、とキルシェは思わず驚きの声を上げてしまう。


 中身は水だ。


 てっきり暖炉を熾して、お水を温めるのだと思っていた。だが彼は迷うことなく、浴槽にすべて注いでしまったのだ。


「これでいいんだ」


 わからない、とさらに困惑の色を濃くした顔を見たリュディガーが笑った。そして彼は、今度は窓際までいくとカーテンと窓を開けて顔を出す。


 この部屋もいくらか寒いが、外の寒い空気を招き入れた形に、キルシェは身を竦めてしまった。


 外で龍の歩む気配がした直後、その窓を龍の紅い目が覗き込むように寄せられる。そして、すい、とその目が離れていくと、今度は大きな甕が浮いて現れた。よくよく見てみれば、龍が咥えた綱に括られていることがわかる。


 その甕の高さをリュディガーが綱を引っ張って調節して、窓枠に登ると、甕の綱を掴んで部屋の中へと入れ、龍に声を掛けながら、器用に部屋の中へと入れることに成功した。


 しかし下に下ろすことはせず、宙に浮かせたまま。


 窓枠から飛び降りて空になった天秤棒を手に甕へと戻ると、甕を傾けて桶の中へ注いでいく。


といでもあればいいんだが、うまいのがなくてな」


「樋……あの……水路とかにつかう、樋、ですか……」


「そう」


 呆然と立ち尽くしているキルシェに笑って、天秤棒を担いだリュディガーは、桶の水を再び浴槽に注ぐ。


 桶を空にしてから、天秤棒を担いで窓の水甕へ行くリュディガーの様子に、はっ、と我に返ったキルシェは、咄嗟に彼の元へと歩み寄る。


 リュディガーは甕を傾けて桶へと注ぎ、桶を十分に満たせたところで甕を縦に戻した動きに合わせ、キルシェはその桶と空の桶を入れ替えた。


「助かる」


 いえ、と答えてキルシェは満たされた桶をひとつだけなら運ぼうと手をかけるのだが、天秤棒に吊るす紐をリュディガーによって取り上げられてしまった。


「__ご冗談を」


 笑ってこそいるが、譲るつもりはないらしいことは、キルシェには十分に伝わった。


 素直に引き下がって、ではどうしよう、と部屋を見渡し、暖炉が目に留まる。ここを使う__湯に浸かるのであれば、温かいほうがいいに違いない。


 __お湯をどうやって沸かすのかもわからないのだし……。


 お湯を沸かすのであれば、炎はいる。


 それに、ここで湯浴みをするとなると、部屋は温かいほうがいいに決まっている。


 キルシェは暖炉へと歩み寄り、その付近に、火口としての松笠や杉の枝葉、細いものから太いものまで薪が置かれているのを見つけた。


 かじかんでいる手を揉んで叱咤して、乾いた松笠と杉を使って火を熾しにかかった。


 ざぁ、と浴槽に勢いよく水を注ぐ音がして、キルシェはちらり、とそちらを見る。視線があったリュディガーは、ありがとう、と言うのでキルシェは笑って応じた。


 リュディガーがそれからもう3度、甕から水を桶へ注ぐと甕は空になって、浴槽は人が浸かるには十分な量に満たされた。


 __全部入れてしまったけれど……。


 最後の2回分ぐらいは、暖炉の炎で沸騰させるのだと思ったが、全て注いでしまったことにキルシェは戸惑いを隠せない。


 ぱんぱん、と手を打って汚れを払ったリュディガーは、徐ろに外套の下__腰のあたりへ手を差し入れると何かを取り出した。


 そしていくつか取り出したものを、手のひらで転がしながら、時折浴槽とを見比べ、ひとつを残して、あとは取り出したところへとしまうのだが、怪訝にするキルシェに気づいて、彼は手の中の物を見せる。


 それは、李ほどの大きさの紅い石__魔石だった。


 まさか、と察していると、リュディガーがそれを口元近くに持っていく。


「__フルベ」


 彼は言葉を吹きかけ、迷うことなくそれを浴槽へと投げ入れる。


 直後、浴槽に沈んだ魔石から、紅い穏やかな輝きが放たれた。


 投げ入れて生じた波紋により、紅い輝きは夕日を弾く水面のように美しく見え、思わず声が漏れてしまう。


 覗き込む水面は、やがてほんのりと熱を放ち始めた。手をかざしてみると、まだまだ微温ぬるく感じるが、確かに温かくなっている。


「これが一番早い」


 笑いを含んで言ったリュディガーは、天秤棒を手に窓辺へと歩み寄る。


 窓枠に再び登って甕を外へと出すと、彼は龍に指示をだして移動させ、括り付けていたままの荷を外して部屋へと入れる。


 それはキルシェの鞄。


「その石が力を出し尽くしたら、十分に温かいと思う。一応、入る前に確認してから入ってくれ。鞄を置いていくから、まずは十分に温まって。ゆっくりな」


「え……ですが……」


 リュディガーは手にした鞄を、キルシェの元まで運ぶ。


「急いで出られても、特に君がしなければならないことはないんだ」


「そうなの?」


「ああ。今日はここの準備で、日暮れになるだろうと見越していたから、本当にやることはない。一番大掛かりなことも、今終わったしな」


 顎をしゃくって浴槽を示すリュディガー。


「__私は荷解きもあるし……あいつのことも」


 リュディガーは更に続けて、キルシェの足元に荷を置いて、親指で背後の窓から覗き込む龍を示す。


「湯浴みが終わったら、寝る部屋へ案内する。君の本格的な荷解きは、そのときに」


「わかりました」


 リュディガーは頷くと、窓辺へと再び足を向けた。


 そして窓枠へと上がると、龍へ首を下げるような仕草をし、応じた龍の首に飛び乗った。


 不安定だろうその首に乗ったことにキルシェは驚いて、思わず窓辺へと足早に歩み寄る。


 リュディガーはその首の上で向きを変えて、キルシェへと身体を向けた。


「私はこのまま、荷解きに行く」


「え、ええ」


 戸惑っていることを察したリュディガーは、くつり、と笑うのだが、すぐに真剣な面持ちになった。


「初めて飛んだんだ。それも寒空を。身体の芯までそこそこに冷えてもいるはずだ。ゆっくり浸かってくれ」


「リュディガーは? それだと、お湯が冷めてしまいますが」


 白い息を吐くリュディガーに、キルシェは問う。


 彼とて同様に寒さに当てられていたのだから。


「また沸かし直せばいい。魔石はあるが……暖炉を熾してくれただろう? あれを使うさ。居間でもお湯を沸かせられるしな」


 ちらり、とリュディガーはキルシェが熾した暖炉を視線で示した。


 __あ、暖炉……!


「そうだわ、リュディガー。その居間の暖炉に薬缶をかけてきているの」


 かけっぱなしなことを思い出し、キルシェが告げる。


「いつのまに」


「甕に水があったのを見つけて……白湯でも、用意しておこうと。でも、湯呑を探すところで止まっています」


「ああ、湯呑か。しまったままだな。薬缶のこともやっておく」


「すみません、やりっ放しで」


「いや、いいさ」


「白湯かお湯か……飲んでくださいね。そのために沸かしているので」


 言えば、一瞬きょとん、とするリュディガーだが、すぐに穏やかに笑む。


「ありがとう。__湯の温度とか……君が疲れていて、湯船で寝てしまっていたら、と何かと心配事があるから、たまに扉越しに声をかけさせてもらう。落ち着けないかもしれないが」


「はい」


 キルシェの答えを聞き、リュディガーは器用に首を歩いて鞍の方へと向かうが、跨ることはせず、そこで立ったまま頭の方を見て龍と視線を交えると、軽く2つ舌打ちをし、手で前方を示した。


 すると龍は巨躯を持ち上げて、手で示した方__玄関のある側へと向かい始めるから驚いた。


 馬以上に意思の疎通が図るれるものなのか__。


「キルシェ!」


 離れていくリュディガーが、少しばかり声を張って呼びかけた。


「カーテン、忘れるなよ!」


 ぼっ、と音がする勢いで顔が赤くなる。


 赤くなった様が遠ざかりながらも見えたのだろう。リュディガーは笑って、立ったままキルシェへと手を振ると、移動する背の上で荷を括ってある紐を解きにとりかかる。


 不安定な場所で均衡を保ちつつ、作業するその様子は、まるで危なげなく、キルシェは火照る頬を押さえながら感嘆の声を漏らしていた。

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