大晦日 Ⅷ

 何かを言わなければ、と思うのだが、思考が空回りしてしまっている。


 思い沈黙を破ったのは、リュディガーのため息だった。


「……卒業を控えている、生活が変わるというのに、婚姻に関する話はまるでない。むしろ君は、時間を共有することを避けていた。そして今日ここに来て、この部屋を借りたと聞いても、君は他人事であったし……なら、そういうことだろう」


「他人事……?」


「ビルネンベルク家の屋敷にも近いから、私の負担は少ないだろう、と君は言った。確かにそうだ。だが、私がとりあえずでもここを借りようと思ったのは、ここなら、君がビルネンベルク家を頼りやすいと思ったからだ」


「私、が……?」


 乾いた口は、思いの外動かしにくかった。


「ここ、私独りで暮らすには広すぎるだろう? 私だけならもっと安普請でいいし、なんだったら双翼院しょくばで十分だ。大学いまの寮と大差ない一人部屋で、侍女もいるから寧ろ楽できる」


 中隊長以上には侍女がつく。侍女というが、秘書の側面もあり、中隊において影の柱である。


「だがそうはせず、とりあえずでここを借りたんだ。君と婚姻を結んで、とりあえずで暮らし、君が気にいらないのであれば、別の場所へ越せばいい、と考えていた」


 キルシェは小さく息を詰め、部屋を見渡した。


「この部屋、家具が少ないだろう? 君といろいろ見繕うつもりだった」


「私、と……」


「ああ。私は、任務についたから、身の回りのものは全部片付けてしまっていたし……。君だって、ほとんどないだろう? 家具なんて特に」


 キルシェはぎこちなく頷いた。


 故郷での政変の終わり、キルシェは最後に住んでいた屋敷の私物はすべて処分してしまった。


 処分してお金に変え、急に解雇されてしまう使用人らに分配するためだ。


 持てるものは、形見である耳飾りと衣服で、それは最低限のもの。細々とした日用品で、少し大きな鞄2つに余裕を持って入れられる。


「まぁ、揃えようと言ったが……私は屋敷を下賜されたから、この部屋はもう引き払うつもりなんだ」


「あぁ……それは、そうですね……お屋敷があるのですよね……」


「その屋敷__領地についてだって、君は特に触れもしなかっただろう? 今思えば、あの話が浮上したあたりから、君は部屋に籠りがちになったように思う」


 それは、否定できない。


 屋敷や領地を下賜された、と聞いてから、やらねば、と使命感に駆られたのは事実だからだ。


 __部屋に籠もって、黙々とやらないと……。


「それに、挙式だって改めてするのかどうなのか、とそこさえも話し合えていないだろう。挙げるのであればいつにする、だとか、どこで挙げるのかとか」


 あ、とキルシェは小さく声を上げ、口元を抑えた。


 リュディガーは、やれやれ、と首を振る。


「__これから婚姻することについて、まるで他人事で……。__だから、考え直すか、と聞いたんだ」


 至極、真摯な顔を向けられ、キルシェは視線を思わず落としてしまった。


「……リュディガーは、愛想が尽きた、の……?」


 問う声はいくらか震えてしまった。


「__……」


 彼が口を開いた気配がしたが、一向に言葉が紡がれない。


 不自然に思って顔を上げると、口を開いてはいたものの、視線があった彼は口を引き結んだ。そうして、改めて口を開く。


「……愛しいからこそ、君の考えは尊重したい」


 まっすぐ、強く言い放たれ、キルシェが今度は口を引き結ぶ番だった。


 見限られたのか、と思ったキルシェにとって、その一言はとても重く、安堵を抱かせる。だが、体の緊張は取れないまま。


 考え直すか、という問い掛けが、衝撃的すぎたのだ。


 緊張を強いられる体の奥から、迫り上がってくる感情の波に押され、思わず、うっ、と声が漏れ出て口元を__顔を手袋に押し付けた。


 そうやって大きな波をやり過ごしてから、自身を落ち着けて、キルシェは口を開く。


「……正直に言います」


「ああ」


 リュディガーが居住まいを正した気配がした。


「まずは、ごめんなさい。でも、意図して避けていたのではないの。……そうなってしまうことを、よく考えもせず__」


 キルシェは、そこで、いえ、と首を振った。


「考えてはいたの。私なりに。私が部屋に籠もりがちでいたのは、真剣に考えていたから……」


「それは、独りになって今後を考えるため?」


「いえ、考えるためではないの……」


「では何のために?」


 キルシェはそこでひとつ、呼吸を整える。まだ強張りがある身体での深呼吸は、少しばかりぎこちなく感じられる。


「その……貴方とは、このまま結婚するものだ、と……私の中では、そうなるのだと……」


 リュディガーが微かに息を詰めた気配がしたが、キルシェは彼の目を見ることができない。


 一度目の彼の求婚を拒絶して、奇跡的なめぐり合わせで彼からは二度目の求婚をされ、今に至る。その二度目の求婚のとき、空白の時間があるから、自分をよく見極めてくれ、と彼にはそう添えられていた。


 だから、キルシェが今後の関係についての決定権があるに等しい。


 __でも、どうしてもそれを失念してしまう……。


 それこそ、微塵の疑いもなかったといってもいいぐらい。


 奇跡的なめぐり合わせでの再開から、二度目の求婚をされるまでの彼は国家安寧にかかわる密命を帯びた任務についていて、その最中の彼はまるで人が変わってしまったと思っていたような行動と言動を取っていた。


 それが、任務にあったからという真実を知り、それを含めてその間の彼を振り返ってみれば根底の部分は揺るがず昔の彼のまま。ただただ滅私を貫いただけだったと理解できた__その出来事はまた別の話である。


 しかしながら、三年前の彼が、帝国が誇る少数精鋭の龍帝従騎士団の龍騎士として磨きがかかったら、今の彼になっていただろう__そう思えるからこそ、彼との今後はこのまま婚姻に向かっていくと、キルシェの中では結論が出ていた。


 __きっと、リュディガーもそうなのだろう、と……。


 キルシェ自身の浅はかさに、下唇を噛み締めてから口を開く。


「……貴方は先の任務で叙勲され、男爵位も賜った。所領も下賜されて……そんな貴方に恥をかかせてはいけない、と思ったの」


「恥?」


 こくり、とキルシェはうなずく。


「布支度」


「布、支度……」


 リュディガーが、怪訝そうにその言葉を繰り返した。


「任務についていた貴方が、父に押し付けられて私と結婚したとき、それまでに用意していた布を持参したの、覚えているかしら……」


「あぁ……それは見た」


 帝国では家の階級にかかわらず、幼少期から生活の様々に使う布物に刺繍を施して、婚姻を結んだ場合、それを女性が持っていくのが習わしとしてある。


 キルシェもまた例に漏れず、布支度はしていて、それを持ってリュディガーと婚姻を交わした。


 リュディガーとのその婚姻は、傍からみても形骸化したもの__仮初めのもの。


 体裁だけ整えた形になったのは、任務の性質上断るに断れなかった彼の苦肉の策であった。


 しかしこの婚姻は、後のキルシェにとっては、彼を側近くで見ることができたため、彼の根底を吟味し、判断できる材料になったのは言うまでもない。


「__貴方が父を誅し、糺してくれた後、父が発布した法令はすべて無効に……。もちろん婚姻も無効になって、屋敷を引き払うことになって……解雇することになる使用人の皆さんに、心付けを配っている貴方に、私が処分してできたお金も加えてもらったでしょう? あの処分してもらったものの中には、私が用意した布も全部お願いしていたの」


 あ、とリュディガーは思い出したような声を上げ、口元を抑えた。


「__そうか、あれはそれも……。てっきり、宝飾品とかそうしたものばかりだと……そうだったのか」


 当時、彼をはじめ、彼の協力者、そしてキルシェに親しい世話をしてくれた者らは、宝飾品や服を手放す必要はない、と止めてくれたが、自身の良心が咎めて、押し通す形で処分してもらった。そこで発生したお金を足しにしてもらったのだ。


 婚姻は無効になった。まさか自分がまたリュディガーから求婚され、婚約するとは思いもしなかったし、わかっていてもそうしただろう。


 当時、振り回された彼ら使用人の行く末が気掛かりで、少しでも多く心付けを__と用意した布等全て出したのだから。


 リュディガーだけでなく、キルシェの私物もほとんどないのは、そのためである。

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