大晦日 Ⅸ

 帝国において、針仕事の分野でも、出来栄え__特に、刺繍の出来栄えによってそれなりに稼げるものである。


 場合によっては刺繍の腕を買われ、良家の家にお針子として雇われたり、子女や夫人の先生にもなれる。


 上流階級では作ったものを売りに出すことはないが、古くからの伝統として女性の嗜みであり、教養として得ているべき、とされるから、腕のいいお針子は上流階級では引っ張りだこ。


 こと上流階級では、自身の格を外へ示すことができるのが、婚姻の際に持ち込む布たちなのである。政略結婚が多い帝国では、相手からの評価を大いに左右する側面もあった。それ故、庶民であってもお針子の腕次第では上流階級に食い込むことも可能なのだ。


 そうした背景のもと、何年も何年もかけて丹精込めて用意した布であるが、上流階級では使われずにしまわれてしまうこともしばしばである。


「その布支度をしているの、今。できるだけ、しっかりとたくさん」


 叩き上げの男爵位とは言え、先の特殊な任務の功労に対して所領と叙勲をされるような人物との婚姻であれば、不足があってはならない、と思ったのだ。


「布支度か……それならそうだと、何故、言わなかった?」


 それは、とキルシェはそこで口を噤んだ。


「キルシェ?」


 促されるように名を呼ばれ、キルシェはやっと言葉を紡ぐ。


「……驚かせたかったから」


「……は?」


 間の抜けた声を出すリュディガーに、キルシェは気恥ずかしさを覚えて萎縮する。


「こんなに用意できた、というのを見せて驚かせたかったの。__意地でもあったけれど……」


「意地……」


 こくり、と頷くキルシェ。


「意地ねぇ……」


 微かにリュディガーが笑ったのを聞き、キルシェは様子を伺おうと恐る恐る顔を向ける。


 リュディガーは口元に拳を当てるようにして、喉の奥で堪えるようにして笑っていた。


 それを見て、より気恥ずかしくてキルシェはため息を零してうなだれる。


「いや、すまない。つい……」


「いいの……。我ながら子供じみていると思うわ」


「そうだな。確かに、君にしては……。そうか、意地か……」


 二人の婚姻について、具体的な話は無かったが、卒業後本格的に動き出すことは自分の中では明白で、それが一年後だとは思えなかった。


 帝国では、婚約から婚姻を結ぶまで、政略結婚が多いということもあるが、それでもたいてい数ヶ月ないし半年以内だ。


 自分たちもおそらくそのぐらいの猶予をおいて、その間にまるでない布を用意しておきたかった。


「ごめんなさい。住むところだとか、いつ挙式をするのかとか……挙式のことなんて思いもしなかったので……。ただ、このままもう夫婦になるのだと、私の中では決めつけてしまっていたから……ただ、急ぐことだけ……」


 独善すぎたのかもしれないが、驚かせてみせたい、という下心もあったから彼には伏せていた。


 限られている猶予はさほどないから、とただただ急いて__。


 __思えば、リュディガーはそうした話をする機会を設けようとしていたのよね。


 大学内ではそうした話題を避けようとするのは、理解できる。彼ならばそうするだろう。自分であってもそうだ。


「__見合う者でなければ、と……」


 ぎゅっ、と手にした厚手の手袋を握りしめ、視線を落とす。


「見合う……」


「貴方は、どこからどうみても、素晴らしい人だもの」


「……だから、私に恥をかかせないために?」


「ええ。そう……」


 彼が歩く音が近づき、やがて落とした視界に、彼の足が入る。


「キルシェ、確認したい」


 改まった口調で言われ、キルシェ身を引き締めつつ顔を上げる。


 まっすぐ見つめてくるリュディガーは、真摯な面持ちだ。


「愛想が尽きたわけでもなければ、断り難いから惰性で続けていた関係でもないんだな?」


「ええ、違うわ」


 キルシェは細かく首を振る。


「そんな風に思わせてしまって、すみませんでした…。むしろ、私のほうが愛想を尽かされないかと__」


 そこで思わず言葉を途切れさせたのは、彼がより近づいてきて、大きな無骨な手が、手袋を握りしめる手に触れたからだ。彼はその手袋を取って、小脇に挟むとそれぞれの手で持った。


「それは、起こり得ないことだ。言っただろう、私が吟味される側だ、と」


 自分よりも大きく、無骨な手は相変わらず温かい。


「このまま__ということを君が思っていたのなら、婚姻に向けて話をしてもいいんだな?」


「え、ええ」


 間近で問われ、キルシェはいくらか赤面した。


 筋張って、節くれ立っている指が、キルシェの左手の指に嵌められている婚約の証を撫でてきて、キルシェが息を詰め、体をこわばらせている隙きがあらばこそ、彼の腕によって懐に誘われる。


「待っ__」


「よかった……」


 濡れて汚れた外套を持ったままだ__それに気づいて、汚れてしまっては、と彼を押しやろうとするより早く、ぼそり、と彼が零した言葉がキルシェを制した。


 ひとりごちたようなその呟きは、心底安堵したような響きだったのだ。


 キルシェは申し訳無さがより増して、リュディガーの胸元にしがみつく。


 何日ぶりだろう__とキルシェはそこで、はた、と思い出す。


 __そういえば……これまでなら、早朝の弓射の後、道具を片付けたあと、こうしていた……。


 人目を惜しんで、彼はいつもそうしていた。そうしてくれていた。


 それが今朝はなかった。


 振り返れば、ある意味余所余所しかったのは、自分の今日までの振る舞いから、彼が慮ったゆえのこと。


 鍛錬自体に自分が行ったのが数日ぶりで、その変化を見落としてしまったのだ。


「心底、安心した……」


「でも……確証があったのでしょう?」


「いくら、いつか見た情景に向かっていたとはいえ、確信だとした物でさえ揺らぐことはあるとはわかっているから……」


 今後のこと__ふたりで世帯を持っていた情景を見たらしい彼は、それを根拠に任務を果たせると孤軍奮闘したと言っていた。


「私はそこまでしなくていい……とは思うんだが、その布支度というのは、君にとってかなり大事なことなんだ、ということは理解した。__だから、こうしないか?」


 明るい、それでいて大らかな口調の彼に、キルシェは顔を上げた。


「布支度をしつつ、話を詰める」


 きょとん、とキルシェがすると、リュディガーは片側の口角に力を込めるようにして笑った。


「布支度をしているのを、婚約相手に見せるのはご法度ではないだろう?」


「それは……そうね」


「ビルネンベルクの屋敷で今後のことを詰めて話してもいいし、ここを使うでもいい。__どうだ?」


「ここ? 引き払うのではないの?」


「そう考えたが、まぁ……数ヶ月先でいいか、と。大学だと、周囲に漏れては面倒な話もあるし、しかも君は部屋で籠もるだろう? だからってビルネンベルクの屋敷では、話し難いこともあるかもしれない」


 __それは、確かに。


 一理ある、とキルシェは頷く。


 リュディガーもまた軽く頷いて、そうして身を離した。

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