大晦日 Ⅶ

 一気に全身に鳥肌が立って、寒気が走るので、思わず握りしめる手に力を込める。


 何故。


 どうして。


 言葉を紡ごうとするが、はくはくと動くばかり。心臓の音は駆け足のよう。ただただ、焦燥感が増す。


 リュディガーはため息を零して、窓際へと向かい、窓枠の上辺に手をかけて、外を見下ろした。


「……私は卒業をする。もちろん、君も。それは確定していることは、ビルネンベルク先生から、それとなく言われただろう?」


「え、えぇ……」


「卒業まで、半月ほどだ。私は、その後、龍帝従騎士団に復帰する。現元帥閣下が勇退なさるらしい」


「そうなの?」


「内々のことだが、確定している。__数ヶ月前の、前イェソド州侯の謀反を予見し、これを対処することを最後の仕事とご自身で決めていたらしい」


 元帥が勇退するとなれば、その座へ団長、団長の座へ左大隊長__という具合に移っていくものだ。


 __そうやって……リュディガーの戻れる場所を作ったのかもしれない。


 現元帥のイャーヴィスと面識のあるキルシェでさえそう思うのだ。伝えられたリュディガーもそう考えたはず。


 何故なら、リュディガーを前イェソド州侯の間諜として派遣した中心人物の一人であり、直接打診し、指示を出していた人物だからだ。


「私に白羽の矢を立てたとき、すでに決めていらっしゃったそうだ」


「そんなに、以前から……」


「ああ。__君は知っても問題ないからこうして明かしたが、心に留めておいてくれ」


「ええ、それはもちろん」


 彼が任務についたのは、2年前になる。


 それ以前から数年をかけて諜報を続け、いよいよ、というところでリュディガーを差し向けたと聞いている。


 用意周到に準備をし、信用できる人材を見繕い、送り出したのだ。


 キルシェはそれに巻き込まれていて、間近でそれを見ているから、どんなに彼が苦しい辛い思いをして、心をすり減らすように居たか__当時は知るよしもなかったが、事が終わってからすぐに理解した。


 それほどの任務。


 __孤独に耐えて……。


 ときには、キルシェ自身からも揶揄されながら__。


「君の警護は任務として与えられてこそ居るが、それも卒業するまでのこと、とされている。卒業して、晴れて復帰すれば、今のような過ごし方はできない」


 それはそうだろう。


 武官として、それも帝国が誇る龍帝従騎士団のひとりとして、常に有事に備えて居なければならない。


 休日などはあるだろうが、学生ではない、正式に在籍している状態。いつ何時、召集があってもいいように過ごすことになる。


 キルシェは、握りしめていた贖ったばかりの手袋へ視線を落とす。


 __今日みたいに、出かけることはできるでしょうけれど……。


 どのような生活に、彼は変わっていくのだろうか__。


 __考えもしなかった……。変わることは、少し考えればわかるのに。


「君は、あまりもう、私との婚姻は感心がないのだろう?」


 え、とキルシェは弾かれるように顔を上げた。


 彼を見れば、窓の外を見ていたリュディガーは、こちらに顔を向けてまっすぐ見つめている。


「__どう、して……」


 声が掠れてしまう__震えてしまう。


 何故、そのように言うのか。


「卒業することは明白だ。卒業したら、これまでとは変わる。色々と。私が復帰することも君は承知だったはず。だが、間近に迫っても、君は今後のことを話そうともしない。それどころか、私と距離をとろうとしていただろう?」


「そんなこと……」


 いや、とリュディガーは首を振って体を向けてきた。


「__何かしら理由をつけていた。今日もそうだっただろう?」


 それは否定できない。


 思い返せば、確かにここのところそう。


 __そうなってしまっていた……。


 意識してそうしていたわけではないから、彼の言葉を受けて振り返ってみれば、という程度の認識。


 __それはだって、やらなければならないことが……。


「心変わりなら、そう言ってくれて良い」


 キルシェは首を振った。


 だが、リュディガーは微かに笑ってみせる。


「三年間の空白だ。君の思っていた私と乖離していて当然だ」


 乖離などしていない。


 良くも悪くも人は変わるものだ。三年もあれば起こり得る事なのも承知。


 彼の場合、三年前の彼から様々なことを経ても、根底の部分、信念、為人など変わっていない。改めて、尊敬の念を抱くほどだ。


 __変化があった、なんて思えないもの。


 困難に果敢に立ち向かい、克服した彼は、貫禄は確かに増した。信念は表情と立ち居振る舞いにも出、精悍な顔立ちに拍車がかかったように見受けられる。


 彼が関わった事件、置かれた境遇を鑑みるに、よく染まらなかった。潰れなかった、という思いだ。


 __そうなっていたら、見限ってしまったか……あるいは……。


 何かの機会に彼を止めていたかも__とキルシェは手袋を握りしめる。


 染まっていく彼を見てなどいられなかったはずなのだ。


 __そうはならなくてよかった……。


 悪いことほど目につくという。それは人の変化にも言えることなのではないだろうか。つまり、変化がない、という認識であれば、変化があっても良い方向への変化だと、キルシェは思う。


 その彼が、任務が終わったときに改めて求婚してくれたことに、どれほど胸が踊ったか。


 自分には、過分なことだと、恐れ多いことだと思えた出来事だった。


 政略結婚が多いこの時代において、自分もまた家長の父によって、政略結婚をさせられるはずだった。


 だが、奇縁で、自分には無縁であったはずの恋愛結婚を、彼とすることになった。


「__婚姻するのだ、と……貴方が見た先の出来事がある、と……」


 彼が見た未来の出来事。


 彼は見た情景を支えに先の任務にあたり、成し得た。__これを成し得ねば、見た景色にはならない、と。見た景色になるから、これは成し得られるのだ、とどんな苦境でも自身を叱咤し、その未来は手が届くのだ、と鼓舞して。


「……明かさなくてもよかった、と今は少し思っている」


「何故……?」


 リュディガーは窓枠に軽く腰を据えて腕を組んだ。


「君を縛っている。__言っただろう。あれは、可能性のひとつだ、と」


 確かに彼はそう言っていた。


「……変容するのよね」


「そうだ。それぞれの思惑があるから、いくらでも変わる。誤差の場合もあるし、大きく変わる場合もある」


 生憎とキルシェには、視えない領域__不可知の領分と呼ばれる領域の知識は、文献としてしか知らない。


 この世の根幹に根ざし、身近なもので言えば魔法といった類のものに深く関わるのだが、この不可知の領分は、一件影響が少なそうに見えて、実は影響が強いという矛盾を抱えている。


 キルシェはその身をもって体験はいくつかしたが、リュディガーほど理解を深めてはいない。それでも、ぼんやりと、彼の言うところは理解もでき、納得もしている。


「君は、ずっと選択肢を奪われて生きてきた。そんな君に、私が見た光景の話をするのは、悪手だった」


 二人で世帯を持っていた、というものが彼が視た光景だ。その話は、確かに気恥ずかしさを覚えた。


 __でも、嬉しかった……。


 ゆくゆくは誰かと結婚する。


 ビルネンベルクが後見で、誰かしら見繕って紹介もしてくれるだろう。帝国という国家において重鎮、名門のビルネンベルクが紹介する相手は間違いなく不足な人物ではないだろう。


 だが、自分にはすでに、彼がいた。


 彼の求婚を受けられた。相手がリュディガーである未来は、嬉しかった。


「正直に言ってくれて良い。君は、私を吟味する立場にあるんだから」


「……正直に……」


「そう。遠慮なく。考え直すのであれば、後見のビルネンベルク先生にも伝えなければならないだろう? 愛想が尽きたなら、言うのもまた優しさだ」


 いくらか自嘲じみた彼に、キルシェは唾を飲み込んだ。


 __考え直さなければ、ならないの……?


 部屋は暖かだったはずだ。だが、寒気がする。震えがしてきて、キルシェは彼に気づかれまい、と両手を握りしめて全身に力を込めた。

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