大晦日 Ⅵ
キルシェの手袋を贖ったふたりは、リュディガーの目的の場所へ赴いていた。
雪は朝よりも減っていて歩きやすくはあるが、扇状に広がる帝都ではそれなりに坂があって、今日のような日は足を取られやすい。
慎重に進むのは、大人が3人並んで歩けるぐらいの路地。住宅が立ち並ぶ地区だった。
住宅というのも、借家。三階から四階の高さで並ぶ建物は、露台ひとつひとつに見られ物__洗濯物であったり、椅子であったり、と異なっていることから、ひと部屋ごとの借家だと察せられる。
リュディガーは迷うことなく進んでいく。そのリュディガーの踏みしめた跡をキルシェは進んでいくので、必然的に真後ろを負う形だ。
誰かの家を訪れるのだろうか__そんなことを考えていれば、彼は一件の借家へ歩み寄って、玄関の扉の前の三段の階段のところで一度止まって、ここだ、と軽く示された。
キルシェは頷いて、リュディガーがしているように靴の泥を、玄関脇の専用の金具に擦るようにして払い落とす。
そして、再びリュディガーに先導されて玄関をくぐって、内部へと入った。
入ってすぐは、吹き抜けの階段が最上階まで続いている空間。その吹き抜けを見上げてキルシェは、リュディガーの後を追う。
どこの家からしているのかわからないが、昼食の残り香が混ざり合う吹き抜けの空間、そしてそこに響き渡る生活音。
不意によぎる懐かしい心地。以前、彼が彼と彼の父とで暮らしていた借家へ案内してくれたことがあるが、その借家とかなり類似して見えたからだろう。
温かいような、しかしもうすでに彼の父が居ないということを改めて思うと、苦しくもなるキルシェ。
リュディガーは吹き抜けを見上げるキルシェに、階段を登るよう促した。
それに従い、キルシェは手摺りに手をおいて、上の様子を伺うように粛々と階段を登っていく。
「三階だ」
「三階ね」
リュディガーが先行すべき場面だが、キルシェに先を譲ってそれをしないのは、階段で起こり得る不測の事態に備えてであることは、キルシェはよく知っている。常にいつもそうなのだ。
一階、二階と上がっていごとに少しずつ暖かくなり、三階に至って廊下へと出る。すると、そこからはリュディガーが先んじる。そうして、廊下の突き当りの扉の前で彼は足を止めた。
リュディガーはキルシェへ振り返ることもせず、ひとつ小さく息を吐くと、扉をノックする__とおもいきや、彼の手は扉の解錠をするではないか。
え、と思わず声が漏れるキルシェに、一瞥をくれるだけでリュディガーは、中へ声もかけることはせず扉を開けてしまった。
リュディガーは扉の前で外套を脱ぎ始めるので、キルシェもそれに倣って外套と手袋を外していれば、彼は扉の向こうへ踏み入っていく。
__どういう……。
ここがどういう部屋なのか__興味に駆られ、大きな背の向こうを伺おうと少し体を動かして見通そうと試みていれば、リュディガーが足を止めて振り返った。
「どうした?」
「ど、どうって……」
戸惑っていると、入るよう手招きするので、キルシェは一度廊下と部屋とを見比べてから中へ入り、扉を閉めた。
扉が閉まるのを見届けて、リュディガーは扉から伸びていた廊下から、一番近くの扉をくぐっていってしまった。
その様子は、ここが誰か他人の家、というものではない。キルシェはいよいよ怪訝にしながら彼を追った。
リュディガーが入っていた部屋は、まるで生活感のないがらんどうな部屋で、キルシェは扉のところで思わず踏み入るのを躊躇ってしまう。
あるのは暖炉と、小さなテーブルと椅子一脚。そして、その脇に置かれた木箱のみ。暖炉は煤けてこそいるが、ここしばらく使われているようには見えない。
リュディガーは木箱へ歩み寄っていく。すると、窓から差し込む光で、部屋の中を漂う小さな埃の粒が光って舞っている様が、更にこの部屋の空っぽな状況をより強調しているようにキルシェには見えた。
ごっ、ごっ、とがらんどうの部屋によく響く彼の足音。払ったとは言え、まだ靴に残っている泥が、板の間に足跡をつけているのだが、彼はまるで気にも留めていなかった。
キルシェは扉近くで佇んだまま手にした手袋を両手で握り、外套を無造作にその椅子へと掛け、箱の蓋を開けて中身をどかしつつ何かを探し始める大きな背を見守った。
「あ、あの……」
「ん?」
「ここは……?」
振り返らずに応じるリュディガーに、キルシェは戸惑いながら問いかける。すると、そこで目的のものを見つけられたらしいリュディガーは、取り出したそれを腰の合切袋に仕舞いつつ振り返って立ち上がると、腕を組んで軽く部屋を見渡した。
「私が、借りた部屋だ」
やはり、とキルシェは改めて部屋を見る。
「とりあえず、で」
「とりあえず?」
「卒業してから、ここに居を構えるつもりだった」
「そうだったの」
卒業後も、寮に居られるわけではない。
彼が借りるのは当たり前のことだ。
__それは、そうよね。当然だわ。
自分は後見のビルネンベルクがいる。その屋敷で世話になるから、卒業後の居については考えもしなかった。
「そう……ここに」
キルシェは、部屋を見渡しながらひとりごちた。
がらんどうだが、ほんわりと暖かく明るい部屋は、これからひとつふたつと家具が増えていくのだろう。
「__ビルネンベルク家のお屋敷から、そう遠くないようですし、リュディガーの負担は少なそうですね」
「……」
しかし、キルシェの言葉に、リュディガーは視線をくれるだけだった。その顔の、表情のなさ__否、目をわずかに細めて見た彼は、その顔を窓へと向けて小さく息を吐く。
「__なぁ、キルシェ」
「は、はい」
改まって呼ばれ、キルシェは思わず身構えて返事をする。
「__考え直すか?」
腕を組んだままのリュディガーは、窓の外をみつめたままそう言った。
「……ぇ……」
__考え、直す……?
何をだろう。
妙に、心がざわめく問いかけだった。
__考え直す、部分……。
やや顔を伏せて、がらんどうな部屋を見た。
__この部屋、を?
こうした借家の事情はよくはわからないが、他の部屋との兼ね合いもあったりするのかもしれない。
だとしても、この部屋に決めたことを考え直す__という意味で彼が言ったとは思えない。
ここに決めたのはリュディガーだ。彼がここに住むことをやめるのであれば、考え直すか、などとキルシェに問いかけはしないはず。
__そうだとしたら、決めたがやっぱりここは止めるんだ……とか言うのではないのかしら……。
彼の言った言葉の意味を理解しようと考えていれば、手袋を握りしめる手はもちろん、全身嫌な汗が出てくる。
考え直すか、という問いかけは二人の間に跨ることに違いない。
それも、自分自身にとくに大きく関わること__。
__まさか……。
恐る恐るあらためてリュディガーへ顔を向ければ、彼は窓から視線を絶って、顔をキルシェへと向けてきた。
「__婚姻だ」
キルシェは心臓が縮む心地に、ひゅっ、と小さく息を吸った。
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