滂沱の涙

@8163

第1話

 この頃、昼間、家に居るのでテレビドラマの再放送を観るようになり、だんだん、徐々に、それが楽しみになり、とうとう知らぬ間にテーマ曲を鼻唄するようになって我ながら呆れて居るのだが、「銀の竜の背に乗って………」と、中島みゆきの歌を口ずさめば、ノスタルジックな気分に浸り、古い自転車に乗る姿が竜の背に跨がる格好にみえなくもない。

 昔、番組が放送された時、宣伝もされ主題歌も頻繁に流れ、ドラマを連続視聴してもおかしくなかった筈なのに、離島の医療ドラマらしいので二の足を踏んだ。人権医師の、お涙ちょうだいの話に決まっている。うんざりだと思い、一度も観なかった。それなのに暇でする事もなく、つけっぱなしのテレビを眺めている内に丁寧な作りと俳優たちの真剣な演技に引き込まれ、暇潰しどころか毎日の楽しみになり、とうとう鼻唄をする迄になってしまった。それも頻繁に出る。夜、布団に入り目を瞑り、ツラツラと昔の出来事などを思い出していて、その風景がどんどんカメラの引きのように広角になり、それが離島の海岸に伸びる道路を映す空撮に変わり、それに付随して歌が流れ夢の中で鼻唄を歌っている。

 そんな風だから昼を過ぎて番組の時間が近づくとソワソワして落ち着かない気分になるが、いざ始まるとCMの間にチャンネルを変えたりして気を紛らすような振る舞いをする。未だに予定調和な、お涙ちょうだいのストーリーに反感があるのか、いや、それよりもベタな表現が恥ずかしくて照れるのが本音で、寅さん映画のムズムズする、あのマドンナに恋をする姿が恥ずかしくて仕方ない感情に似ている。

 あの演技、悲しみや怒りの顔のアップ、監督はそれを何度もやり直しをして、呆れる程に演技を繰り返させるらしい。どんどん深入りさせ納得するシーンにする。そこに妥協がないからベタなストーリーが飽きない物語になるのかも知れない。その情報は今度の映画の番宣のトークで知ったのだが、出演した俳優の全員が長時間の撮影が嫌だと言っていたのに、又もや出演したのは監督の拘りがこのドラマの肝だからに違いない。

 正直、苦悩とか不条理に抗う姿とかより、あのピーピー泣く主人公が嫌いだ。でも、あの演技も何度もやり直しをしているかと考えると、頭が下がる。作られ、監督によって引き出された人格で、刀匠が鍛錬し焼を入れ反りを付けた作品なのかも知れない。だが、それと知れても尚、婦女子達はナヨナヨとした男優としてしか見ていない。それが芸能、芸術の力。演技とは言うが、サルトルの実存主義の解釈によれば普段生きてる我々も演技をして生きているらしいのだ。また、それなしでは生きては行けない。ドキュメンタリーですら演出があり、モンタージュの手法が幅を利かせている。映画もテレビドラマも、それゆえ騙されはしないぞと思って観るようになってしまった。疑り深くなっている。新聞や週刊誌、テレビニュース。それらに感化され騙された。こうやって戦争も革命もカルト宗教に洗脳されるのと同じく盲信が常識の仮面を被りまかり通って来た。それらを纏めて再放送のテレビドラマがひっくり返す。ノスタルジーが時間を遡り戻すのだ。

 今では、これが日本のドラマの本質ではないかとまで思うようになった。マジとマジがぶつかって変にいなしたり笑いに変えたりせず、食い違えば食い違ったまま、何なら数秒の間、睨み合いを続けさせる。その居心地の悪さ。それも計算していやがる。

 富士山は四千メートル弱で、世界的には、さほど高い山だとは言えない。だが、裾野は駿河湾に流れ込んでいて、海抜ゼロメートルからの四千メートルだ。エベレストは八千メートル超だが、標高五千メートルから登れば残りは三千。何を言いたいのかと問われれば、演出についてのテクニック。もしもエベレストが駿河湾から聳えていたのなら垂直八千メートル。とんでもなく高くなる。それがこの居心地の悪さだ

 山を高くするには上に伸ばせばいいのだが、反対に谷を深くしても良い。映像ならば谷底に降りて行って見上げれば山の高さは表現出来る。美しい物を美しくするには、その前に醜く汚い物を見せる事によって美しさは際立つだろうし、解放感に浸りたいのなら、その前の束縛を描けば、より解放を表現出来るだろう。それが演出の一部だろうし、泣き笑いの強弱のテクニックにも繋がっていると思う。気づいたのは「幸せの黄色いハンカチ」で、青空をバックに風に旗めくいっぱいの黄色いハンカチのシーンの前、落盤事故で九死に一生を得て好きな女と一緒になったのに、女の過去に嫉妬して自棄になって人を殺してしまい、務所からは出てきたが、女が待っている筈はなく、男の絶望の深さをこれでもかと描いている事だ。そう、谷が深ければ深いほど山は高くなり、男が絶望に苦しめば苦しむほど青空に旗めく黄色いハンカチは輝きを増す。その苦しみをより切実に表現できれば名優だし、それを引き出すのが監督だ。だから、これは監督の作品であり俳優の名演技も畢竟、監督のものだと言える。あっ、否、脚本家の物じゃないのかと思った映画が一つあった。オープニングの「クルリ」の音楽から胸騒ぎを覚え、終わっても、その胸のざわめきは収まらず、夜はなかなか寝付かれず、しばらく興奮が続いた。そんな映画は後にも先にも、これしかない。「ジョゼ虎」だ。

 粗筋を聞いてくれ。観てない人には説明が必要だろうし、話している内に思い出す事もあるかも知れない。

 乳母車、藤編みの昔の奴だ。中に若い女が乗っている。頭から布を被って身を隠し、持ち上げた隙間から覗くようにして周りを眺めている。朝の散歩をしているのだ。押しているのは祖母らしいが、どうも我が儘を言って祖母に命令しているみたいだが、その祖母の面相が凄い。まるで怪獣だ。男なのか女なのかも顔では判らず、かろうじてセミロングの白髪まじりの頭髪で老婆だろうと当たりをつけるのだが、芥川の「羅生門」の老婆、あれを連想した。

 ところが坂道で、乳母車から手を離してしまい、慌てて追いかけるが老婆の足では追い付かない。暴走し、すんでの所で崖下に落ちるのを助けたのが徹夜麻雀帰りの大学生の男。ところが布を捲って見つけた女は、出刃包丁をギラつかせて身構え、狂犬のような目をしている。足萎えの歩けない片輪者。世を恨んでいるのは間違いない女。かかわり合うのは御免被りたいが、老婆はお礼に朝御飯を食べて行けと家に連れてゆく。

 味噌汁と焼き鮭と漬物。下半身不随の女が座ったまま作った飯。不味いだろうと恐る恐る汁に口を付けたら、意外にも旨い。思わず刮目して女の方を向くと、「私が料理したんだもの」旨いのは当たり前だと言う。ここで初めて映画の主人公が、この風変わりな女の子だと知れる。

 男は食い物で胃袋を掴まれ、度々訪問して食事するだけでなく、押し入れに照明スタンドを持ち込んで『サガン』を読むような夢見る乙女の一面もあるような女に翻弄されて行く。だが、そこには下半身不随な異常が存在していて、それが最後には結ばれない予感を秘めていて、婆さんは深入りさせないよう男を遠ざけようとするのだが二人の恋は止まらない。身体的障害は男にとって刺激になっているのか実家に連れて行って親に紹介しようと女の都合してきた車で出かける。

 題名は「ジョゼと虎と魚たち」とあるのだが、この゙魚たぢが何を指すのか解らなかったが、旅行で泊まった派手なモーテルの名前が水族館。ベッドルームの壁にも天井にもカラフルな魚が泳いでいる。そこには軽くて浮わついた雰囲気があるが、実際は身体障害者の闇を隠す薄いベール。手で剥がせば飛んで行ってしまうような軽薄さがあり、そこにジョゼのプライドと悲しみもある。心の底には男に対する疑念があり、プライドがハッキリさせるのを邪魔をして男の本心を炙り出す。本当は障害なんぞは関係ない。男の愛もジョゼの愛も、確かなものは何処にもない。むき出しの男女の駆け引きと性が絡んでいる。

 泊まった後、ジョゼがナレーションで呟く。「いちばんエロい事をした」と……。想像しうる最もエッチな事をした、と……。

 何も最もエッチな事を想像して、この場面に拘る訳じゃない。この後、別れがやって来る。転機がこれで、ここかも知れない。結局、実家には行かず結ばれる事はなく、男の目からするとベールに包まれた下半身に何の神秘もなくなり、飽きたのかも知れない。だが、原作も脚本も女性だ。そんな単純な話では無いだろう。実はジョゼの方が振っていたと解釈する方が納得する。人類が狩猟時代、セックスは獲物を捕ってきた男へのご褒美だとの説がある。いや、今でも給料を稼いできたらセックスさせて貰えると、言えない事もないのだが、愛とか恋とか抜きにしてこうゆう話をすると女性に嫌われるのは知っているが、ジョゼは男の曖昧さに我慢できずに、また、己の純粋な恋心に対しての別離の報酬としで想像しうる最もエッチな事゙を捧げたと考えたい。そう考える訳は男が泣いたからだ。ジョゼと別れた男はスタイルの良い健康で若い女とくっつく訳だが、そのくせ、カメラを長廻しにしてワンカットで泣き崩れる男を映す。つまり、男が振られたのだ。表面的には車椅子の、さして美人でもない女に振られる男は居ない筈で、それがこの映画を捩らせ、さらにジョゼが心から好きだった男と別れた決意に思いを巡らせ、泣いて馬謖を斬った矛盾に、ただの失恋を越えた痛みを与え、さらに心理を揺さぶる。

 ラストシーンはジョゼが電動車椅子で外出し、自立した生活を送る姿を映すのだが、少しも楽しそうではなく、振り返った顔は泣いているようにしか思えない。指ひとつで右も左も自由自在に動く車椅子。モーターの駆動音は軽快なのに、男と知り合った頃に乳母車とスケボーで走り回って遊んだ思い出に比べたら、その機械音は悲しみの音だ。

 もうひとつ気になる音がある。砂利を踏む音だ。ジョゼが訪ねて来た男を拒絶して返事をせず、居留守を使ったら、男が玄関からぐるりと家を回り込んで裏に歩く。その時、家の周りに敷き詰められている砂利が踏まれて音がする。その音を追ってジョゼもぐるりと首を巡らせる。男は裏の窓を叩いてジョゼを呼ぶが、「帰れ」とジョゼ。しかし帰ろうとすると「帰れと言われて帰る奴は帰れ!」と、叫ぶ。

 ひねくれた女だ。劣等感やら生活苦やら、と、色々と考慮するが、だからひねくれたとは言えない。たとえ健常者であっても、矢張ひねくれていたのじゃないかと考えて苦笑するが、この砂利を踏む音がジョゼの一縷の望みだ。自分を探し求める、謂わば゙蜘蛛の糸゙だ。この音、脚本にあるのか監督の演出なのか、非常に気になる。だから、この゙渡辺あや゙と言う脚本家が気になり、ふだん観ることのない朝ドラ「カーネーション」と原田芳男主演のドラマまで追いかけて観てしまった。

 結論として脚本だと判断した。ただ者ではない。今ググったら原田芳男のテレビドラマは「火の魚」原作室生犀星とあった。犀星は読んでるつもりだったが全く知らなかった。田辺聖子と言い犀星と言い、この脚本家の目の付け所は尋常ではない。

 映画館は満席だった。パチンコ屋の二階のシネコンだったので200人程のキャパしかなかったが、それでもエンドロールが終わって場内の照明が点いて明るくなるまで誰一人席を立たなかった。皆、放心状態で暫くは立ち上がれなかったのだ。それでも、そんなことは大したことじゃ無かった。高い天井のスポットライトが座席を照らし、もう少し余韻に浸って居たかったが、一人だけ座ったままで居るわけにも行かず立ち上がって後ろの扉から出ようとしたら直ぐ後ろの席に並んで座っている母娘に気づいた。娘の前には折り畳んだ車椅子があり、まさにジョゼが居たのだ。二人とも細い黒縁の丸メガネのまま目を瞑り、立ち上がれないのか微動だにせず、涙が溢れて流れているのが判った。周りの人達も、そっと、静かに出口に歩いた。

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