第12話「赤頭巾ちゃん気をつけて」

 また夢を見ている。何度も、何度も見た夢だ。

「どうしたの?」

「……ママがいなくなっちゃった」

 僕が声をかけるとその女の子は泣きじゃくりながらそう言った。どうやら迷子らしい。幼稚園児くらいの女の子だ。

 僕はその時、一刻を争うくらいに急いでいて、どうしたものかとキョロキョロ顔を動かす。しかし、辺りにも母親らしき人物どころか、僕ら以外には通行人すら誰一人いなかった。交番かどこかに連れて行こうにも、僕はこの町に今日初めて来たわけで、下手をすれば一緒に迷子になってしまうかもしれない。交番を探してうろうろしている間に、母親がここに戻って来る可能性だってある。そう考えると身動きが取れず、僕は困り果ててしまった。

「こんなとこにいる場合じゃないぞ」とどこからか聞こえたような気がした。「見ず知らずの子供のことなんて放っておいて、早く会場に向かえよ」と。しかし、目の前で声を上げて泣いているこの女の子の姿が、どうしてかと重なって見え、結局僕はそこを離れることができなかったのだ。

 そうして僕は、どうすればこの女の子は泣き止んでくれるのだろうと考えた末、ありもしない冒険譚を作り出して聞かせるという方法をとることにした。要するに法螺ほら話ってやつだ。南極でペンギンとスケートをしただとか、ロビン・フッドと的当て勝負をしただなんて言って。自分が持ってる知識を隅から隅まで使い尽くして、世界中を駆け巡る冒険家匂坂薫を作り出した。すると、泣きじゃくるばかりだった女の子が、いつの間にか目をキラキラと輝かせて僕の話を夢中で聞いていたのだ。 

 この時僕は初めて、自分の知識が世界に還元される瞬間を見た。誰かと競うための受験勉強で身につけた知識が、一人の女の子を笑顔にするために使われたということを。ずっと、勉強は乗り越えるものだと思っていた。自分の未来ために、乗り越えるべき苦難だと。だから流されるように机に着いた。自分の未来が誰のためにあるのかすら理解できていなかったのに。しかし、この女の子の笑顔が僕の勉強にもっと、とても素敵な意味を与えてくれたのだ。誰かを蹴落とすための武器としてではなく、誰かと笑い合うための道具となる知識の使い方を。

 いつしか僕も夢中になって世界中を駆け巡っていて、女の子の母親が戻って来るまで僕らの冒険は続いた。


 *


 左半身に強い衝撃を感じて目を開く。硬い床の感触が背中に伝わった。どうやら寝ている間にソファから落ちてしまったらしい。カーテンの隙間からは、朝の光が差し込んでいた。時計は午前六時を指し示している。昨日魔女から貰った奇妙な腕時計だ。左手首につけたそれは、かなりの衝撃を伴って床に叩きつけられたはずだが、見る限りでは傷一つなく異様な雰囲気で輝いてる。流石は魔女の時計といったところなのだろうか。

 久方ぶりのソファでの就寝は、やはり気持ちの良いものではなかった。ここに来てから、母や姉とは一言も言葉を交わしていない。この家は、僕が存在しない空間なのだ。まあ僕としても、今さら母たちと何を話せばいいかなんてわかりもしない。今も二人はまだ眠っているようで、できればこのまま顔を合わさずに学校へ向かいたかった。僕がここにいる意味は逢野昭にしかない。それさえ果たせればいいのだ。

 明日、逢野は父親を殺す。今日が勝負だ。今日、逢野に全てを話してもいいと思ってもらえなければ、僕はまた逢野の手を無理やり引いて逃げ出すことになるだろう。それではだめなんだ。きっとまた同じ失敗を繰り返すことになる。僕は今度こそ、逢野昭としっかり向き合わなければならない。

 母たちが目を覚ます前に学校へ向かってしまおうと、手早く身支度を整える。そうして机の上に無造作に置かれている千円札しょくじだいを手に取り、音を立てないようにひっそりとドアを閉めた。


 *


 終業式はあれよあれよと流れるように進んでいき、あっという間の内に終わった。当時は所在なげに遊ばせた手が爪をボロボロにしていたものだが、今になってみると瞬く間という感じだ。そのまま教室に戻って、担任が手短に長期休みの注意事項なんかを話してそれで解散。本当にあっという間すらないのではというくらいだった。一分一秒を無限のように感じながら時計と睨めっこをしていたあの頃とは、時間の感覚が違うのだろう。

 終わりの号令がかかると、僕は昨日と同じようにすぐさま逢野のクラスへと向かう。逢野のクラスはこれまた昨日と同じように、ホームルームの最中だった。磯崎の話が短いのか、このクラスの担任の話が長いのか。きっとどちらでもあるのだろう。

「人生の一冊を見つけましょう」

 教室の外からぼんやりと話を聞いていると、担任の英語教師がそういった話を始めた。この夏休みの間にたくさんの本に触れて、人生の一冊と言えるような本を見つけましょうなんて感じで。

 それを聞いて僕は、あの本のことを思い浮かべる。『ペンギンの飛び方』。小学生の頃に僕が貸したその本を、逢野は読んだと言っていた。あの夏の公園で。逢野にとってあれは、この英語教師が言うところの人生の一冊になったのだろうか。僕にとってあれは紛れもなく人生の一冊だ。だからこそ逢野にも、「いつか読んでよ」と言って渡したのだろう。ララ・エイビスの生き様が、逢野の目にはどう映るのか知りたかったのだ。それこそあれは、僕と逢野の共にする時間が、段々と減っている最中の出来事だった。僕はあの本に、逢野との関係を託したのかもしれない。それが結果として、首の皮一枚のところで僕と逢野を繋げたのだから馬鹿にはできない。もっとも、首の皮一枚で生きていけるわけもなく、手遅れになってから文字通りをしただけにすぎなかったが。

 そんなことをブツブツと考えていると、突然太腿の辺りに柔らかい衝撃が走った。

 驚いて上げた視線の先には、スクールバッグをブラブラと揺り動かした逢野が、千両の笑みを浮かべていた。どうやら英語教師の長そうな話よりも、僕の思考の方が時間を要していたらしい。手を小さくこちらに向けて上げている逢野に、僕も「お疲れ」と言って返した。

「で、今日はどうしたの? 時間ならありあまってるけど」

「ちょっと行きたいとこがあるんだ」

「何それ、デート?」 

 逢野が揶揄うような笑みを浮かべる、

「違うよ」と僕は冷静に返す。

「なんだ。じゃあ何?」

 逢野が大袈裟に残念そうな仕草をして見せた。

「行ってみたらわかるよ」

「じゃあ楽しみにしとく」

 逢野は右手で小さくピースサインを作る。

 そうしてまず昼食を買いに、僕たちはコンビニへ向かった。ウンザリするほど通い詰めた、僕のライフラインとも言うべきコンビニへ。


「その場所でご飯食べるの?」

 逢野がハムサンドをカゴに入れながらこちらを見る。

「そう」

「ピクニックだ」

「そんな陽気なものじゃないけど……」 

 そうやんわりと訂正した。あまりハードルを上げられても困る。

「まあ、いいじゃん。大袈裟なくらいがちょうどいいんだよ」

 そう笑う逢野を尻目に、僕はこれでもかと並ぶ数々のおにぎりの中から、期間限定のお好み焼き結びといくらのおにぎりをカゴに放り込んだ。普段なら絶対選ばない変わり種と生モノのおにぎり。別に何か特別な意味があるわけじゃない。今日はなんだか挑戦してみたい気分だった。ただそれだけの話だ。


 *


「どこ向かってるのかわかったかも」

 逢野がそう声を上げたのは、家の近くの裏山を登り始めて数分が経った頃だった。ここは裏山と片付けるにはなかなかの大きさで、小さい子供の身体で登るにはそれなりの労力を使う場所だ。それでも僕と逢野は小学生の頃からよくここに訪れていた。

「まあ、そうなるよね」と僕は自嘲するように笑う。

「だって、ここに来たとなったらアレしかないでしょ」

 そういうわけで僕の浅はかな考えはすぐさま見破られたわけだが、それでも僕たちは足を進め続けた。小枝がパキパキと割れる音を聞くと思い出すのは、やはりあの森のことだ。光の海へと繋がるあの森。この山には温かく光る夜光虫も蛍もいない。だけど代わりに、ここには僕たちの思い出があるのだ。

 木に覆われた山の中腹にそれはあった。あの頃と変わらずに、ぽつんと建っている。波板のトタンで継ぎ接ぐような造られた、ボロボロのプレハブ小屋。幼い頃の僕たちはこのオンボロ小屋を秘密基地と呼んでいた。

「懐かしいなあ」と逢野が声を漏らす。

 軋む扉を開けて中に入ると、僕も同じ感慨を抱かずにはいられなかった。投棄されていだドラム缶やタイヤ転がして来て使った椅子や机。家からこっそり持ってきたおもちゃやマグカップ。かつての僕らが必死に集めた秘密基地っぽい何かたちが、ボロボロになりながら何とか形を保つように残されていた。もちろん子供が考えるような簡素なものなのだけれど、それでも「立派なもんだろ」とあの頃の僕たちのが誇る声が聞こえてくる。この小屋そのものが、思い出を詰め込んだタイムカプセルのようだった。


 *


「ここでかくれんぼしたの覚えてる?」

 ハムサンドを口に運びながら逢野がそう切り出した。

「始めてこの場所を見つけた時、でしょ?」

「正解」と逢野が白い歯を見せた。

 確か小学二年生の頃だ。

「僕がこの小屋に隠れたんだよね」

「そうそう。匂坂はさ、かくれんぼすると毎回自分から出て来ちゃうから、二人で練習しようって。どこにいても絶対わたしが見つけるから、我慢して隠れててって言ったの」

「実際すぐに見つけられた」

「探すのは得意なんだよ」

 今になってみると、この山は幼い子供が遊ぶにはあまりにも危険だなと思う。この小屋から少し歩いたところなんて、正に断崖絶壁といったような崖になってるのだから。それでもあの頃はそんなことも気にせず、この山を駆け回っていた。

「逢野はいつも僕を見つけてくれる」

「匂坂は寂しがりだから。わたしが見つけてあげないとだめでしょ?」

「そうかも」

 大変不本意ではあるが、否定はできない。

「これは嘘じゃないね」

 逢野はまたちょきちょきとピースサインを作った。

「僕はさ、逢野のことも見つけたいと思ってるよ」

「何? 今からかくれんぼでもやる?」

 逢野が冗談を言うような口調で話す。僕は首を横に振った。

「逢野が苦しんでいる時に、ちゃんと見つけてあげられるようになりたいって、ずっと思ってるんだ」

 逢野の目を見つめる。結局これしかないと思った。どれだけの策をろうするよりも、嘘偽りのない本心でぶつかるべきなのだと。逢野に届く言葉はそれしかないと、ようやく気づいたのだ。逢野の目から視線を逸らさないで、七年間思い続けたことを伝える。これが僕の答えだ。

「なんでだろう。匂坂はなんでもお見通しって感じがする。なんでもわかってるって」

 逢野は目を伏せ震え声でそう言った。

「何もわからないよ。でも、わかることはわかる」

 借り物の言葉は、いやに舌に馴染んだ。 

 それから逢野は「お父さんが——」と話し始めた。父親のこと。母親のこと。この二年間で何があったのか。全部、全部。あの夏の公園と同じように。だから僕も同じように逢野の手を両手で包むように握る。だけど、あの夏と違うことが一つ。僕はもう逃げない。正面から逢野と向き合うと決めた。だからもうあの言葉も必要ない。

「行こう」

 そう声を上げた。

「……行くって?」

 泣きじゃくる逢野がそう絞り出す。

「わからない。どこでもいい。どこか遠いところ。ここじゃないどこかに」

 逃げるんじゃない。進むために。前に進むために行くんだ。逃げる必要なんかない。僕らには見つけられる権利がある。心臓を響かせ、今この場所で確かに生きているのだと叫ぶ権利が。

 逢野は涙でぐちゃぐちゃになった顔を、一度大きく縦に振った。僕は返事をする代わりにまた手を強く握りしめる。あの夏から七年、僕はようやく逢野と再会できたのだと思う。

 滲んだ目で噛み締めたいくらのおにぎりは、やはり非文明的な味がした。

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