第13話「Not with a bang but a whimper」

 僕たちはこれからの話をした。どこに向かおうか。帰ってきたら何をしようか。全てが終わったら何をしようか。そんな、これからの話。あの時はできなかった、未来の話だ。それは虚勢でも空元気でもなくて、僕たちは本当にその未来を信じていた。逢野はやっぱり「海を見たい」と言い出して、だから僕は「最高の海を知ってるんだ」と返す。そうだ、光に塗りつぶされた最高の海を僕は知っている。だから海を目指そう。あの夏は北に逃げ出した。今度は違う。北を目指すのだ。あの海を目指すのだ。

 そうやって僕たちは陽が落ち切っても夢中で未来に思いを巡らせて、気づけば波板のトタンに空いた隙間からは、朝の訪れを告げる光が顔を覗かせていた。


 *


 それから僕は、逢野を秘密基地に残して一度家に戻ることにした。ここからあの海の町に行くとして、僕たちの手持ちでは歩いていく羽目になる。あの夏と同じように母のへそくりを拝借しなければならないわけだ。こんなことなら、昨日家を出る時に用意しておけばよかった。多少の後悔を感じながら、音を立てないよう静かにドアを開ける。僕が一晩帰って来なかったことなど母と姉は気にしていないだろうが、下手に物音を立てて起きて来られるのも面倒だ。そうして忍び足で廊下を進んでいるとふと異変に気がつく。リビングの電気が点けっぱなしになっているのだ。いつもは僕が居てもお構いなしで母が消していくのにどうしてだろうかと首を傾げる。そんな疑問を抱きながらも扉に手をかけて部屋に入ろうとしたその時、予想だにしていなかった光景に思考も挙動も氷のように停止してしまった。

 僕がいつも眠っているソファに姉が腰掛けていたのだ。不機嫌そうな顔で髪をくるくるといじりながら、足を組んで前のめりになっている。部屋に入って来た僕に気づくと、姉は「おかえり」と刺々しい声を出した。わけがわからない。おかえりなんて言われたのはいつ以来だろうか。この家にはそんな当たり前の挨拶なんて存在しないはずだった。どう頑張っても呑み込めない状況に、言葉にもならないような声で口籠もってしまう。すると姉は、突如立ち上がり僕の方へ勢いよく近づいてきた。

「あんたさ、楽しい?」

 不意を突くような問いかけに、「え?」と口からところてんのように押し出される。普通の会話すらもうずっとしていなかったというのに、いきなりどうしたというんだ。姉の意図が全く読めなかった。

「毎日生きてて、楽しいかって訊いてんの」

 黙り込む僕に、姉は不機嫌を体現したような声で追撃する。僕は少し考え込んだ末、「……まあまあ」と言うことしかできなかった。

「そう。あたしはね、あんたを見てるとイライラする。なんでもがかないんだって」

 姉は僕の目を真っ直ぐ見つめてそう言った。不機嫌さを隠そうという素振りは全くない。言いたいことを全てを吐き出すように言い放つ。そうして終了の合図とでもいうように息を吐くと、胸がすいたというような様子で「じゃあ。おやすみ」と言いリビングを出て行った。僕の返事を待つこともなく。嵐のような一連の出来事に、僕はしばらく茫然と佇むほかなかった。

 踠く。姉が何を言いたいのかはわからない。だけど、その言葉は確かに僕とかけ離れた言葉だなと思う。僕は踠きたいとは思わない。例えば水面で溺れ苦しんでいるとして、僕は踠くよりも流れに身を任せて浮いていたいと考える。あるいは、見苦しく足搔くくらいならそのまま沈んだ方が楽だとさえ思っているかもしれない。姉はそんな僕を見透かしているということなのだろうか。いずれにせよ、姉の真意がどこにあるのは不明瞭なままだった。そもそも姉は何故この時間に起きてあそこにいたのか。僕を待っていたのか? まさか。しかし、他にどんな理由がある? 

 今、僕の身に降りかかったあれこれを曖昧なままにしておくのは何となく良くないことのような気がしたが、今はそんなことを言ってる場合ではないということを思い出す。このまま母まで起きて来たらまた面倒なことになるかもしれない。今僕が優先すべきは逢野昭において他ならないのだ。そうして僕は、放心しながらも件の箪笥からへそくりを数枚抜き取ると、息を吐く間もなく家を後にした。


 *


 正直に言ってしまえば、僕はもう焦りというものをほとんど抱いてはいなかった。時計はもうすぐ七時を回る頃だろうか。現時点で逢野が父親を殺すとは、とてもじゃないが思えない。そもそもあの夏でも何がきっかけでそうなったのかはわからないが、このままいけば逢野と父親が対面することもないだろう。そうしてあの町に行って、それで事態が大きくなれば逢野の父親の問題にも誰かが気づいてくれる。そこまでうまくいくかはともかくとして、とりあえず今日逢野が父親を殺すなんて事態は怒らないだろうと確信していたのだ。

 それは安心ではなく油断だったのかもしれない。僕はすぐにそう思い知らされる。秘密基地に戻ると、そこに逢野の姿がなかったのだ。

 嫌な予感がした。あの神社で感じたような、不安がピタリと当てはまってしまう感覚。次の瞬間にはもう、あの時と同じように裏山を駆け降りていた。不穏な空気が身体に纏わりつく。それを振り払おうと僕は必死に走った。


 久しぶりに訪れた逢野の家は、なんだかひどく不気味なように感じられた。蝉の轟音が降り注ぐ裏で、何か怒号のようなものが聞こえる。僕は肩で息をしながら、慌ててドアに手をかける。鍵は空いていた。無我夢中で家の中へ入ると、その光景がすぐに目を塗り潰した。玄関を出てすぐ右手の部屋。視線が吸い込まれる。


 ——逢野昭が父親を刺したその瞬間だった。


 息が止まる。逢野の父親が地面に倒れ込む音で、僕は呼吸を思い出したかのように息を吐いた。腹部に包丁のようなものが刺さっている。逢野は虚な目でへたり込んで、小刻みに震える自分の手を見つめていた。

 ——殺した。逢野が父親を殺した。僕はまた失敗したんだ。何をしてるんだ僕は。後悔の渦が頭の中で巻き上がる。蝉の声が壁に染み込むように鳴り響いた。僕はまた救えなかったのだ。また逢野に父親を殺させてしまった。たった数十分だ。与えられるはずのなかった二度目のチャンスも、七年間積もり続けた後悔も、ようやく再会できた逢野昭も、たった数十分で全てがふいになった。なんの予兆もなく唐突に。

 何故こんなにも無力な僕が、もう大丈夫だなんて思ってしまったのだろうか。一度失敗した僕のどこにそんな余裕があったと言うのだ。ドラマチックな前触れなんてものもなく、こんな数十分で壊れてしまうほど脆くて弱い僕らに。想定外の事故でも、予想外の不運でもなんでもない。ひとえに僕の油断が生み出した、当たり前の終着点がここだった。壊れるはずだったものが壊れる道程に、劇的なことなどあるわけがなかったのだ。

 爆音ではなく、啜り泣くように、ひっそりと全ては終わりを迎える。それはきっと世界が終わる日のように。


 僕を責め立てる蝉の咆哮に、思考が飲み込まれそうになったその時、パチンという音が耳を突き刺した。それは喚き散らす蝉の声を切り裂くかのように場を支配する。

「これだよ」

 顔を見ずともその声の主が誰なのかわかった。

 魔女だ。

 動転を隠せずに辺りを見渡し異変に気づく。窓の外に見える蝉が、空中で静止していた。思えば、いつの間にかあれだけ鳴り響いてた蝉の声が聞こえなくなっている。蝉だけじゃない。部屋中の全てのものが止まっていた。もちろんそれは逢野も例外ではない。僕と魔女以外、世界の全てが動きを失っていた。

「すごいでしょ。魔女の魔法」

 魔女はそう言って、あのケタケタという笑い声を響かせると、左手首をトントンと叩いて見せた。その仕草を見て僕はあれに目をやる。

「七時二八分三六秒。逢野さんが、この人を刺し殺した時間だ」

 魔女は現実を再確認させるように、凍てついた声を発した。時計の針はそこから微動だにしていない。時を止める力なんてないって言ってただろうと、不意に昨日の喫茶店を思い出す。

 言葉を失っている僕を置いて、魔女が床に落ちていた何かを持ち上げた。

「これだよ。この子はこれを取りに来たんだ」

『ペンギンの飛び方』。魔女が掲げたのはあの本だ。

「君のこの本を返さなきゃって思い出したんだろうね。それで父親とバッティング。いつもこの時間に家にいることなんてないから油断してたのかな。その先は……、言わない方がいいか」

 魔女が目を伏せる。なんだよそれ。なんでそんなことのために……。そんな本、置いて行ったってなんの問題もないじゃないか。

「こんな重大なときに、こんな危険な場所に、こんなことのために戻って来るなんてあり得ないと思う? でもこれが現実だ。誰がなんと思おうがもう絶対に動かない。あり得るとかあり得ないとかじゃない。ただそこに在る事実だよ」

「なんで……」

「気づいてたんだよ。これが君にとってとても大切な本だって。だからこの町を出る前に、君に返したかった」

 全てを知っているのだとでもいうように、魔女はそこに居た。

「まあ、でも結果はご覧の通り。ゲームオーバーってわけだ」

 あまりにも呆気なくそう言い放つ。ゲームオーバー。そうだ。僕は……。

「そうだ、失敗した……。僕は失敗したんだ。あるはずのなかった二度目を与えられて、それなのに……」

 どうして僕はこうなんだ。心臓の辺りで、焼けるような叫びがこだまする。どうして僕は、こんなにも逢野のことを知らないんだ。

「もう一回やればいいじゃん」

 耳を疑った。魔女の言葉が理解を追いつかせないようなスピードで通り抜けていく。

「……もう一回、また……戻れるのか?」

「もちろん。何回だって、何日、何ヶ月、何年前にだって戻れるよ」

 魔女は反対に驚いたという様子で目を丸くしている。「そんなの当たり前でしょ」とでも言うように。

「だったら……、なんで……」

「たったの一回で全てを思い通りにするなんて無理だもん。だからまずはお試しで二日間ってこと。良心設計でしょ?」

 親切とでも書いてあるような顔で、魔女は微笑んだ。

 もう何もかもがわからない。この魔女が何を考えているのか。本当に味方なのかも。何一つ僕にわかることなんてなかった。僕はずっと魔女の掌の上で踊らされているのかもしれない。今この瞬間ですら。

 ただそれでも、希望が繋がった。まだ、やり直せる。ただ一つ、それだけがわかった。だったら、僕の取れる選択は一つしかない。心臓が脈打つ。まだ終わらない。次こそ、次こそ僕は……。 

「何回でも、いくらでも戻してあげるよ。匂坂くんはお気に入りだから」

 魔女はまたケタケタと喉を鳴らす。一縷の望みを告げる声だった。

「だからさ、もっと楽しませてよ」

 耳元で囁かれるような感覚。その声に僕は首を縦に落とした。

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