第1話「茹だるような夏の日に」

 どうして蝉という生物はこうもうるさいのか。毎日毎日飽きることもなく、ミンミンジリジリと。夏休み初日の目覚めは、煩わしい蝉の鳴き声から始まった。彼らの耳障りな騒音によって、昼過ぎまで寝過ごすことなく目覚められたのだから、むしろ感謝すべきだろうか。もっとも、少し早く起きたところで特段やることなどもなく、結局時間を無駄にしてることに何ら変わりはないのだが。

 そうやってまた無駄なことを考えながら、寝起きで重たい身体をやっとの思いで持ち上げた。ブリキの人形のように固まった節々が、ギシギシと音を立てるように伸び広がっていく。汗で肌にべったりとくっついた寝巻きがとても不快だ。今日は母も姉もいないから、このまま風呂に入ってしまおうか。ブランケットを畳みながらそのようなことを考えるが、テーブルの上に置かれた千円札を見て計画を立て直す。母が昼食用に置いていったお金だ。蝉が騒々しく鳴く三十度の炎天下の中コンビニに昼食を買いに行ったとして、汗を掻かずに帰って来られる確率は限りなくゼロに近いだろう。だったら昼食を買いに行った後で風呂に入る方が得策だ。

 そうと決まればさっさと歯でも磨いて家を出ようと、急ぎ足で洗面所へ向かった。そうして歯磨き粉をチューブから垂らして、歯ブラシを咥えようとした時のことだ。玄関口から扉を叩く音がした。不揃いなノック音が三回。セールスマンか何かだろうか。インターホンを使わないということは壊れてしまっているのかもしれない。セールスマンや宗教の勧誘であればこのまま居留守を決め込んでもいいのだが、母や姉に届いた宅配便である可能性を考慮するとそういうわけにもいかないので、仕方なく歯ブラシを右手に持ったまま玄関へと向かう。ブラシの表面に乗せられた歯磨き粉が垂れないよう気を払いながらゆっくりと進むのはなかなか難儀なことだ。口に咥えたまま歩いていくという手もあるが、以前テレビか何かで見た、歯ブラシを咥えたまま転び、細長いそれが喉に刺さって亡くなったという事故の話を思い出すと身がすくむ。擬死状態のオポッサムのように居留守をするつもりが、本当に応答できなくなってしまったとなれば全くもって笑えないだろう。

 そうこうしている内に正体不明の来訪者は待ちきれなくなったのか、今度は二回、どん、どん、と扉を叩いた。心なしか先程よりノック音は強くなっているような気がする。なんともせっかちな人だ。不機嫌な相手の応対をするのは気が滅入る。それでも万が一、これが母たちに届いた荷物だったとしたら、それを不在票へ変えてしまっては一大事だ。やはり無視するわけにはいかないと、少し嫌な気分になる覚悟を決めた。

 しかし、こぼれそうな歯磨き粉と格闘しながらようやく玄関に辿りついた僕を待ち受けていたのは宅配便でもセールスマンでも、ましてや宗教の勧誘でもなかった。そうして僕は嫌な気分になる覚悟だなんて軽い気持ちで扉を開けたことを後悔する。しかしこれを想像しろなんて土台無理な話だ。むしろこの光景を想像するような人がいたとするならば、その人は精神科にでも掛かったほうがいいだろう。ただ、想像はできなくとも、どれだけ受け入れがたくとも、それでも今、目の前で起きていることは確かな事実として僕の目に飛び込んでくる。

 ——扉を開けると目の前には血塗れの逢野昭おおのあきらが立っていた。

 先程まで歯磨き粉が垂れないよう注意を払っていた歯ブラシがいとも容易く地面に落ちる。乾いた音の先で地面に接地していたのは、当然のようにブラシの部分だった。


 *


 教室の隅でよく折り紙を折っていた。五歳の頃の話だ。父の仕事の都合というよくある理由でこの町に越して来た僕は、またよくある話のように上手く周りに馴染むことができなかった。だから僕は他の園児が自由時間に庭へ遊びに行く中、一人黙々と折り紙を折っていたのだ。折り紙は一日一枚、ホワイトボードの横の棚から取り出してよい決まりだっただろうか。だから、クワガタ、サカナ、ヤッコ、カエル……と毎日一つずつ。そうして完成した折り紙を見せにいくと、先生はこれまた折り紙で作った金メダルを渡してくれた。僕はそれでなんとなくの達成感を得て、また次の日も新しい折り紙を折る。あの頃の僕の毎日はそうして回っていたのだ。

 ある日、教室に置かれていた折り紙図鑑にツルの折り方が書かれているのを見つけた。これまで折っていたものたちに比べて、ツルの折り方は複雑で、どうにも上手く折ることができない。そうして何度も手順を間違え折り目でくしゃくしゃになった折り紙は、自由時間が終わる頃にはもう折り紙としての役割を果たすことは不可能なほどれてしまっていた。それで結局その日はツルを完成させることができず、次の日に貰える折り紙でまたツルに挑戦することにしたわけだ。今にして思えば、毎日折り紙に勤しんでいたのは僕だけだったのだから、一日一枚のルールなど守る必要もなかっただろう。しかし、子供というのは妙なところで律儀な生き物で、一日一枚の決まりは何があっても守らなければいけない強固なものであると、あの頃の僕はそう確信していたのだ。

 そうして僕は毎日ツルに挑み続けた。みんなが庭で鬼ごっこやかくれんぼをしている中、毎日毎日……。しかし、幾度挑戦してもツルが完成する気配は一向に見えなかった。折り紙図鑑を何度も見返したり、先生や父に折り方をいたりしても、それでも上手く折ることができない。そうして気づけば初めてツルを折ろうとした日から随分と時間が経ち、もう諦めてしまおうかと思っていたある日のことだ。いつものように折り紙を折っていた僕の背中に、何か鋭い感触が走った。たちまち振り返ると、床に落ちた折り紙の手裏剣が視界に入る。顔を上げると、そこには得意げな顔で笑う逢野昭が仁王立ちで構えていた。

 これが僕と逢野の出会いの話だ。なんてことないよくある話。

 結局僕は今でもツルを折ることができない。


 *


 それから僕は多くの時間を逢野と共に過ごして来たように思う。自由時間は彼女に手を引かれるまま庭へ飛び出したし、彼女の家が近所にあるとわかってからはよく互いの家へ遊びに行くようになった。あの日以降の僕の人生は、逢野昭の存在無くしては語れないだろう。幼稚園を卒園して小学校に上がってからも逢野との関係は続いた。自転車を買ってもらったときは二人で練習をしたし、その自転車に乗れるようになってからは二人で少し遠くの町まで冒険なんてこともあった。中学生に上がりクラスが別々になってからは少し疎遠になっていたけれど、それでも僕はこれまで本当にたくさんの時間を逢野と過ごしてきたのだ。つまり僕はずっと隣で逢野昭を見てきたということになる。その濡烏ぬれがらすのようにつややかな黒い髪も。何か面白いものを見つけたときの燦々さんさんと輝いた目も。なだらかななで肩と、その細い体躯たいくからは想像もつかない溌剌はつらつさも。そして何よりどこか得意げな様子で口角を上げて笑うあの顔を。僕はずっと隣で見てきた。そのよく見知った、飽きるほど見てきた逢野昭が、今、虚ろな目をして目の前に立っている。その白い腕と何か英字がプリントされた白いシャツは、燻んだ血で斑模様のようになっていた。これは血だ。トマトジュースやペンキなどではない。間違いなく血だ。今、目の前では何かとんでもないことが起きているのだと、直感がそう告げている。

 想像の範疇を優に超える状況に、気づけば目を伏せていた。先程痛ましく力尽きた歯ブラシと、ボロボロのスニーカーの踵を潰して履いている逢野の脚が視界に入る。一度大きく深呼吸をしよう。そうして今、目の前で何が起きているのか、状況を整理するのだ。朝起きて、布団を畳んで、歯を磨こうとしたら玄関口から扉を叩く音がして、扉を開けたら血塗れの——。駄目だ。整理などできるわけがない。もはや息の吐き方すらわからなくなってしまいそうだ。しかし、目の前で事実としてことが起こっている以上知らぬ顔をするわけにもいかない。僕はもう一度覚悟を決めて一瞬伏せた顔を上げた。それは嫌な気分になる覚悟ではない。目の前の事象を解決しようとなどというものでもない。ただ事実を受け入れる覚悟だ。

「……殺しちゃった」

 無理して作ったようなぎこちない笑顔で、逢野は確かにそう言った。その笑顔は、僕がこれまで見てきた逢野の笑顔とは明らかに異なるものだった。何か全てを諦めたような、もうどうしようもなくなってしまったのだと告げるような、そんな笑顔。その悲壮な面持ちが、逢野の言葉が間違いのない事実であるということを何より証明していた。

「殺した」。なんとも重たい言葉だ。その言葉が抱える深刻さを思うと、身体中の血が凍るように冷えていくのがありありとわかる。人が人を殺めるには、一体どれだけの理由が必要だろうか。「殺す」というたった四バイトの文字列に、誰かが誰かの命を永遠に断絶したという事実を託すのはあまりに軽薄だ。

 そうしてグルグルと回る思考の中では、「……誰を?」の六バイトを絞り出すのがやっとだった。僕の問いに彼女はまた短く「……お父さん」とだけ答える。そうやって僕はまた、メビウスの輪のように終着点のない思考の海へと投げ出されるのだ。逢野が発した短い言葉は僕の思考を震盪しんとうさせるには十二分な威力で、それでいてボディーブローのように考えれば考えるほどじわじわと精神を削り取っていく。終わりのない思考にまた沈黙が場を支配し、蝉の音だけが鳴り響いた。

「だからさ、もう匂坂と会えなくなるんだなと思って、これ……」

 沈黙を破るように、逢野は僕の方へ腕を突き出した。その小さな手には、一冊の本が握られている。『ペンギンの飛び方』。数年前に逢野に貸した小説だった。「いつか読んで欲しいんだ。今すぐじゃなくていいから」と言ったのを覚えている。

「最後に返さなきゃって思って。だから……」

 逢野はまたぎこちなく口角を持ち上げる。笑い方を知らないロボットのように。殺人という想像もつかないほど重大な事件と、どこか淡々と言うべきことを連ねているといったような逢野の言動を結びつけることはあまりに困難で、そのギャップにまたしても思考がぐるぐると渦を巻く。それでも、燻んだ赤で染められた逢野の姿は、どうしようもなく現実だった。

 そうして僕は差し出された本を恐る恐る受け取ろうと手を伸ばす。しかしその手が叶う前に、隣の家から何か物音がするのが聞こえた。家から出ようと玄関口で何か騒いでいるようだ。

 もしこの状況を見られたら……。思考の海を彷徨さまよっていた脳が、途端にそう危険信号を発信した。咄嗟に逢野の手を引いてドアを閉める。逢野の身体はふわりと宙に浮くかのように造作なく動き、そのまま全体重を僕に預ける格好となった。手に持っていた本は、もう動くことのない歯ブラシの上に覆いかぶさっている。ドアの向こうでは、家から出たと思わしき隣人らの話し声が響いていた。心臓の脈打つ音が今にも聴こえてきそうなほど大きくなっているのがハッキリとわかる。その音で扉の向こうに構える「破滅」に見つかってしまうのではないかとすら思えるほど。強く、強く打ち鳴っている。逢野は今何を考えているのだろうか。先程から微動だにすることなく、抜け殻のようにただ僕の肩に寄りかかっている。肩に感じる逢野の存在から想起されることは一つだった。軽い。身体中の臓腑が抜かれているのではないかとか思えるほど軽い。まるきり全てを盗まれてしまったかのように、あるべき重さがそこにはなかった。

 この軽い身体に彼女はどれほどのものを抱え込んでいるのだろう。そよ風が吹くだけで吹き飛んで行ってしまいそうなこの身体に。一体、どれだけ。

「もう会えなくなると思って」。逢野の言葉が頭の中で反響する。これから夏休みが終わって、逢野のいない学校に行って、そのまま逢野がいない学校を卒業して、逢野がいない高校に行って、大学に行って、就職して、その時僕はどんな顔をしているのだろうか。

 逢野がいない世界で生きている自分の姿は、どうしたって想像できなかった。

「逃げよう」

 反射的にそう口にしていた。何か明確な展望があったわけではない。何か正解を見つけたわけでもない。この先どうすればいいかなんて一つだってわからない。今、何が起きているのかすらまともに理解していないのだから当然だ。それでも今の僕に分かっているものがたった一つだけ。「もう会えなくなる」と、そう言った逢野の顔。ただそれだけが脳裏にこびりついて離れなかった。

 嫌だな。そう思った。沸騰した鍋から吹きこぼれるお湯のように、パンクした脳味噌から出た言葉。それは希望に満ち溢れた言葉なんて、とても言えたものではない。どうしようもないほど場当たり的な、絶望へと繋がっている道に置かれているような、そんな言葉だ。

 自分自身でもコントロールできていないような出し抜けの言葉に、当の逢野はというと、少し驚いたように一瞬目を見開き、しかし即座にただ重々しく首を横に振った。

「ここに来る途中誰かに見られた?」

 逢野の拒絶を無視するように僕はそう訊ねる。一度取るべき行動を一つに決めると、ぐちゃぐちゃになっていた思考は驚くほどクリアになっていた。

「誰にも会ってない……けど……」

「だったら早く逃げよう。人通りが少ないうちに」

「でも……」

「とりあえず風呂で血を——」

「だから……そうじゃなくて!」

 張り上げられた逢野の声に一瞬、得も言われぬ静寂が場を支配した。世界中の全てのものがこの一瞬静止しているかのように。逢野の次の一言をこの場の全てが待っているように思えた。いや、わかっているんだ。僕はわかっている。逢野が何を言いたいかくらい、言われなくたってわかる。だけど、それは僕にとって……。

「そうじゃなくて……駄目だよ。匂坂に迷惑かけられないよ……。これはわたしがしたことで、だから——」

「違うよ」

「違うって、何が……」

「僕が嫌なんだ」

 そうだ。僕が嫌なんだ。本当に、ただそれだけ。だから僕は逢野のことなんて、本当はこれっぽっちも考えていないのかもしれない。これは単なる僕のエゴで、身勝手極まりない利己的な願いなんだ。だけど、それでも僕は——。

「逢野と一緒にいたいんだ。もう会えないなんて嫌なんだよ。ただの我儘なんだ。僕が嫌なんだ。だから、頼むよ……」

 この日初めて、僕は逢野の目をはっきりと見つめてそう言った。今にも泣き出しそうに潤んだ目を、確かにこの目に認めて。

「狡いよ、そんな言い方……」

 そう残して崩れるようにへたり込んだ逢野の姿を、僕は絶対に忘れてはならないのだと、そう思った。


 *


「着替えとタオル、ここに置いておくから」

 シャワーの音にかき消されないように少し声を張って、今や物置と化している二階の部屋から引っ張り出してきたワンピースとタオルを脱衣所のラックに置いた。姉が昔着ていたその真っ白いワンピースはほとんど汚れもなく、物置で埃をかぶっていたとは思えない程だ。恐らく数回だけ着てすぐにお役御免となったのだろう。気まぐれな姉が買ったばかりの服をタンスの肥やしへと変えてしまう姿はありありと想像できるし、そんなものまで丁寧に保管しているのも母らしいなと思う。

 姉は本当に「気まぐれ」を体現したような人だ。何にでも興味を持って、全てを人並み以上にこなし、そしてすぐに放り投げてしまう。興を惹かれた瞬間は、他のことが目につかないくらいの熱量を注ぎ、その圧倒的な才能で先駆者を転がるように追い抜きながら、突然ぷつりと糸が切れたかのように意欲を失い、また別の世界へと駆け出すのだ。そうした姉の姿を見ていると、自分のテリトリーを気まぐれに荒らされる先駆者はたまったものではないだろうなと思う。しかし、神様はそんな姉を愛してしまったのだから仕方がない。「特別」とは姉のような人のことを言うのだ。

 姉の「特別」さに絶望を植え付けられてきたであろう人たちに弔いの言葉をかけながら、僕はこれからのことを考える。「逃げよう」。先程咄嗟に口をついたその言葉には、やはり何の見通しもない無責任な言葉だった。どこへ? どうやって? 問題点ならいくらでも考えつくのだからどうしようもない。差し当たってこれらの問題を解決してくれるのは、やはりアレだろう。先立つものがなければ、何をするにも動きようがないということだ。

 そうして僕は仏壇横にあるいつつ引きの小さな箪笥たんすに目を向ける。下から数えて三番目。これまた埃を被った裁縫道具の下に手をやると、目当てのものが十数枚。所謂いわゆる、母のへそくりというやつだ。もっとも、本人にもすっかり忘れさられて随分前から放置されているようだが。「もうやる必要もないんだけど、つい癖でやっちゃうんだよね」と、以前母が姉に笑いながら話していたのを思い出す。多忙な母や姉はうの昔に忘れているのだろうが、日頃から脳のメモリーに保存するような出来事の少ない僕は覚えていたというわけだ。平坦な人生が功を奏したのは良いことなのだろうか。まあ、これが姉ならこう簡単にはいかなかったのは事実だろう。姉に言わせれば、何か特別なことがなかった平凡な日の方がむしろ特別。珍しい〝非日常〟なのだそうなのだから。姉の脳内は〝日常〟的なハプニングでキャパオーバーだ。とは言え、姉ならば他にいくらでも方法を見つけられるのだろうし、さしたる問題ではないわけだが。

 そうして手に入れた軍資金や日用品をリュックサックに詰めていると、姉のことを考えることで思考の隅に追いやっていたこれからの問題がまた思い起こされる。姉に言わせれば日常的で、僕にとっては非日常。僕らを待ち受けるそれの行き着く先は、やはりどうやったって希望には繋がらない。先程までのどこか奇妙な高揚感が失われて、冷静になった頭では尚のことだ。落ちつけば落ち着くほど、様々な問題が僕の思考を支配する。この選択が正しいわけがない。逢野にとっても、僕にとってもむしろ最悪の選択なのではないかと。ただ状況を悪化させるだけなのではと、嫌な事ばかりが想像される。しかし、思い起こせば、僕は最初からそうわかっていたはずだ。そうだ、僕は別に逢野のことを案じたわけではない。これはただの僕の我儘だと、そうわかってそれでも逢野と行くことを選んだのではないか。だから余計なことを考えるのはやめよう。これが一時の気の迷いだとするならば、僕はずっと迷ったままでいい。夏に酔っているのだとしたら、僕はずっと酔っていたい。それでいいじゃないか。そうしてボヤけさせた思考に浮かんだのはたった一つだった。

 ——北へ行こう。だるようなこの夏の暑さには、そろそろうんざりしていたところなのだ。


 *


 濡烏のようと形容した逢野の艶やかな髪は、実際に水を滴らせていると本当に漆のような光を放っているように見えた。

「……今日、ひかるさんは?」

「ピアノの発表会。母さんも一緒に」

 とてもドライヤーから出ているとは思えない控えめな音で髪を乾かしながら、姉のことを訊ねる逢野に僕はそう返した。

「そっか……。すごいね」

「なんでもできるんだ。自慢の姉だよ」

 一四年間の人生で何度も口にした、歯の浮くような台詞が滑るように口から出る。数少ない僕の特技だ。そうしてまた場を支配した沈黙を破ったのは、今度も逢野だった。

「あのさ、やっぱり——」

「北に行きたいんだけど、どう?」

 そんな逢野の声を遮って僕は訊く。僕はもう迷い続けると決めたのだ。

 そうして逢野は行き場のなくなった言葉を飲み込むように口を閉じて目を伏せた。そんな逢野に僕は付け加える。

「ほら、最近暑くてうんざりしてたんだ」

「……夏は北だって暑いよ」

 消え入る泡のように小さいその声は、僕にはどこか心地良く聞こえた。

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