蝉がうるさかったから

湯浅八等星

序章「徒花に捧ぐ」

 八月だと言うのに魔女はダッフルコートに身を包んでいた。首元ではミディアムに切り揃えられた薄茶色の髪の毛が、血のように燻んだ赤いマフラーに巻き込まれている。八月の室内にはあまりに似つかわしくない格好だ。もしかすると、今が八月だというのは僕の思い違いなのかもしれない。魔女のちぐはぐな格好に思わずそのような考えが頭をよぎるが、店の外で自身の存在を喧しく主張する蝉の鳴き声を聞いて思い直す。

「七年前、一四歳の八月」

 不意に発せられたその声が、魔女のものであると気がつくのに数秒を要した。そうして魔女の方へ目をやるが、その視線は真っ白い手に置かれた本に向けられている。

「戻りたいんでしょ? その日に」

 高いとも低いともつかない魔女の声は、その音量とは裏腹に確かに鋭く店内に響いた。魔女の表情は先刻から少しも動いていない。相変わらずどこか冷えた視線で、手元の本に目を落としている。しかし、魔女の言葉が僕に向けられたものであることは間違いないようだ。

 確かに僕は魔女に会うことを願ってここに来た。その目的は魔女の言う通り七年前のにある。やはり彼女は魔女なのだ。しかし、そう易々と受け入れるには、目の前に座す魔女と道すがら想像していた魔女の姿はかけ離れていた。

 禍々しい色の液体をグツグツと煮込む、しわくちゃで鼻の尖った老婆。折れた腰を包むのは黒いローブで、傍にはほうき。それと黒猫。魔女と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、このような姿ではないだろうか。それがどうだ。目の前にいるのは、僕より少し下、それこそ女子高生くらいの少女で、この——おそらくは古書店であると推察される——一面本に覆われた店の中で、カウンターテーブルに座って本を読む姿は、学校帰りの文学少女といったようにしか思えない。これが魔女なのか? 店内を見渡して目につく全てが、僕の疑念を支持していた。

「つまり、私のことを信じていないわけだ」

 沸々と湧き上がる疑念から返答にきゅうしていると、僕の心を見透かすかのように魔女がそう言った。そして僕の返事を待つことなく魔女は「じゃあどうしてここに来たの?」と付け加える。

 そうだ。僕は魔女なんて馬鹿げた話を信じてここに来た。

愛依あいはいると思ってますよ、魔女」

 僕に魔女の噂を教えた後輩の言葉を思い起こす。これでもかというほど甘ったるい声を出す彼女はそう言っていたが、普通は本気で魔女の話なんかをしていたら、鼻で笑われるか、関わらない方がいい人とカテゴライズされて距離を置かれるかのどちらかになるだろう。ここはそういう場所だ。僕はそうわかっていながらここに来ている。そして魔女は僕の目的を言い当てた。僕は魔女の存在を信じる他ないのだ。しかしそれでも、やはり目の前の少女と魔女をイコールで結ぶことは、そう簡単なことではなかった。僕は魔女を信じるしかなくて、しかし目の前の少女が魔女とはとても思えなくて、だけど——

「蝉がうるさかったから」

 ぐちゃぐちゃに溶けた思考に、気づけばそう呟いていた。なんとも頓珍漢な答えだ。これでは魔女の頭にも疑問符が浮かんでいることだろう。さて、どう釈明すればいいのだろうかと、そんなことを考える。

 ところが魔女の反応は、僕の予想に反したものであった。

「面白いね、君」

 そう魔女は笑った。先ほどまで手元の本に向けられていた視線は、確かに僕の目に向けられている。ここで初めて僕は、魔女の表情を見た。そう、何度見てもやはり魔女は笑っていた。

「……今ので何がわかったんだ?」

 予想外の魔女の反応に思わずそう訊ねる。

「いろいろ」

「そんな馬鹿なことが——」

「あるよ魔女だから」

 そんなふざけた話があってたまるかと、そう言いたくなるが、魔女が放った「魔女」という言葉には不思議な説得力があった。そして魔女の次の言葉で、僕はもういよいよこの目の前の魔女を信じるしかないのだと理解させられた。魔女は魔女でしかなく、それを疑う余地など最初からなかったのだと。

「じゃあ聞かせてよ。の話」

「どうして……」

「どうしてその名前をって? また馬鹿なこと訊くなあ、匂坂こうさかくんは。魔女だから。ただそれだけだよ」

 全てが当然のことであるかのように、魔女はケタケタと笑っていた。七年前のこと。僕の名前。そして……。そこまで言い当てられて、それでもなお魔女を疑う気力は僕にはない。

「そこまで知ってるなら僕の話なんか聞く必要ないだろう?」と当然の疑問が口を出る。

「退屈なの。聞かせてよ。できるだけ面白く

 どう頑張っても僕の話が面白くなるわけがない。どこまでも陰鬱で、忌々しく、惨憺さんたんたる、そんな話なのだから。しかし、そう伝えても魔女は「面白いよ。人間の話はいつだって面白いんだ」と笑うばかりだった。

「まあ、座りなよ」

 いつの間にかカウンターテーブルのこちら側に、一脚の椅子が置かれていた。これも魔女の力なのだろうか。そのような問いにおそらく意味はないだろう。気づけば魔女が手に持っていた本は机の隅に押しやられ、その視線も興味も僕に移っているようだった。ここから僕が取ることのできる選択は、きっと一つしかない。そう観念して、どこか古びた木製の席につく。店の外では騒々しい蝉の声が未だ鳴り響いていた。

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