中篇(下)

「今日の髪型は夜会巻きなんですね、貴子さん」

 バー『葡萄舎』のカウンターに高級クラブのママ貴子がいつものように座った。若い頃はミス・ユニバース代表の最終選考までいったという噂を裏打ちするように美脚を網タイツで包んだ貴子は四十路とは想えない。

「あ、ごめん波太くん、煙草じゃないの」

 貴子は艶っぽく片手を挙げて、灰皿を手にした波太を止めた。いつもなら酒の注文とほぼ同時に、貴子はメンソールを吸い始める。

 シャネルの白いスーツの膝に乗せたバッグから貴子は煙草の代わりに封筒を取り出した。

「この前のお礼。そんなこと云わないで受け取って」

「制服のクリーニングは店持ちなんです。受け取れません」

「恥をかかせないで」

 万札が数枚入っている封筒だ。初老のオーナーとバーテンダーの旺介が眼で頷いている。夜の街には夜の掟がある。

「では受け取らせてもらいます。ありがとうございます」

「それとは別に、就職活動のためのスーツはわたしに買わせてね波太くん」

「いえ。自分で買うためにこうしてバイトをしています」

「先行投資」

「冗談じゃなかったんだ、貴子さん」

「わたしの見る眼には間違いはないの。あなたが欲しいわ」

 波太はグラスを磨く手を止めなかった。

「貴子さん。学生が買う就活用のスーツは量販店で済ませるものなんです。二着で一着の値段だと広告が出ているような安価なものを」

「駄目です。オーダーじゃないと」

 貴子は眼をほそめて波太を見つめ、薔薇色の唇から煙草の煙を細く吐き出した。

「最初のスーツをあなたに買い与えるのはこのわたし」

「何人もの学生を黒服に引き抜いたと聴いています」

「就活は応援するわ。昼間の会社で働いてみるのもいいことよ。でも辞めたら戻ってきて。波太くんをスカウトしたがっている人は他にも大勢いるのよ」

 早い時間の客は少ない。英国の会員制クラブを手本にした店内の女客は貴子だけだ。電球色の照明が貴子を年齢不詳の美魔女にみせていた。

「夜には夜の世界に似合う人間が集まる。この前のことで確信したわ。凄味と品位のある子が欲しいの。あなたはわたしの店を飾るのにぴったりよ」

 『波太』が聴いたら昇格ぶりにびっくりだろう。波太は貴子に顔を少し近づけた。年上の女は年下のように、年下の女は年上のように扱うのがコツだそうだが、貴子のような渡世に長けた女には何の作為も要らない。上質な香水の匂いがした。美容整形のお蔭なのかかなり近づいても女の顔にはしわがほとんどない。

「貴子さんには云っていませんでしたね」

「なに」

「ぼくの綽名は波平というんです。『サザエさん』」

「あら」

 美しい声で弾けるように貴子は笑った。

「竹の子剥ぎでぼったくられたサラリーマンのお兄さん、起きて。ああいう店では店のいい値を払うしかないんだよ。こんな処で倒れていると身ぐるみはがされて薬漬けにされてホモ向けのAVで外国人に掘られまくることになりますよ」

 早朝の歓楽街には煙草と酒と反吐の匂いを薄めた風が漂っていた。ゴミ袋をあさっている鴉が黒々とした艶のある翼を広げて空に舞い上がる。

 したたかに殴られて電柱に凭れていた若いサラリーマンを抱え起こすと、波太は肩を貸して歩き始めた。背広の上から探ってみたがやはり財布はすられている。

「電車に乗るかタクシーか。それとも身体を洗いにホテルに行きますか」

 サラリーマンは敗北感に打ちひしがれた声で地下鉄を希望した。

「店がはねたら来て」

 深夜零時にバーのバイトを上がると、貴子が寄こした紙片に書かれていたホテルに波太は向かった。室で待っていたのは貴子ではなく貴子が用意した若い女だった。

「貴子さんじゃないんだ」

「がっかり?」

 盗撮や盗聴の可能性をまず考えた。時間がおしても焦ることもない女の様子から、それはなかったのだろう。貴子の後ろにはその筋がついていて一度絡めとられると逃げられないとの噂だった。

 学生相手にあれは駄目だよ貴子さん。ぼくは昼の会社に就職します。

 今度逢ったら貴子に釘をさしておこう。

 運賃に少し足した金を握らせて、始発が出る地下鉄の駅まで不運なサラリーマンを送ってやった。波太は薄明の中にけむる歓楽街を眺めた。首までこの汚濁に埋もれたとしても巧くやれるだろう。這いつくばって貴子の脚を舐めているだけでも金は手に出来そうだ。

「でもお前はこっちだよな、『波太』」

 高架下をくぐると街の匂いが変わる。店員が品出しをしているコンビニで波太は朝食のパンを買った。高速道路からも見えるビルの屋上の看板広告には笑顔の家族と新築の家が印刷されていた。



 三連休初日の祝日に開催された女子高の文化祭は事前に下調べしていた以上でも以下でもなかった。あちこちから「あれが波平」「想ってたよりも波平かっこいいじゃん」など云われ、たいして美味くもない手製の菓子をうまそうに食べてやり、女ばかりで組まれた拙いバンド演奏や演劇を日奈子に引っ張られるままに見学しては「すごいね、頑張ってるね」と云ってやった。

 日奈子は華道部だった。

「こんな感じでどうでしょう」

「いい感じです。素敵です」

 部員にぱちぱち拍手されながら、水切りから始める華道体験もやった。剣山に草をぶっ挿しているよりは家に帰って寝たいのが本音だ。こんなイベントを男が歓んでいると想っているのならその女は頭がおかしい。 

「三年生でも部活は続けているんだね」

「わたしも含めてほとんどは附属の大学に上がるだけだもの」

 そこに日奈子の弟の直海が現れた。直海に後は任せて、腕の火傷が傷むのを口実に波太は女子高から引き上げた。直海は同病相憐れむ的な顔をして波太とタッチすると、「お姉ちゃん、来たよ」とから元気を出して女子のままごとの中に入って行った。男の苦労を全世界の女は知るべき。

「はい、神矢木こうやぎです」

 女子高の敷地に沿った並木道を歩いていると電話が鳴った。通話に出てみると、『俺だ』低い声が応えた。

「倫範おじさん」

 波太は周囲をうかがった。休日の昼下がりだ。風船をもった子どもと両親が傍を通り過ぎた。

「陰気な山伏さんがぼくに何の用。それよりこの番号の入手先は。『葡萄舎』のオーナーからだろうけど、個人情報の無断流用はよくないよ」

「あ、ネオだ。お母さんネオ」

 昼間に出現した空の光点を指した子どもの手から風船が離れた。通話を繋げたまま波太は鋪道を蹴った。見る間に浮き上がっていく風船の紐を波太の手は掴んでいた。

「ありがとうございます。ほら、ちゃんと持って」

「あのお兄さんすごいジャンプ力」

 しかし波太は跳躍を終えた両脚を見ていた。跳んだ時に今までは感じなかった重力がかかっていた。身体の異変に波太は戸惑ったが、考える暇はなかった。

『波太。ユサを見たか』

「ユサ」

 波太は周囲を見廻した。

「ユサが近くにいるのか」

 性懲りもなく、また跡を尾けているのだろうか。

『いないか』

「見かけなかった。いたら見逃すはずがない」

『ならいい』

「おっさん待て。二人一組なんだろうが。お前が組まないからユサは単独で動いてるんだぞ。ユサがどうした」

『昨日から帰宅していない。下校途中で姿を消したそうだ。知らないのならいい』

 通話は切れた。すぐにリダイヤルしても繋がらなかった。

「嘘だろ」

 波太は焦りながらリダイヤルを繰り返した。呼び出しに応えはなかった。出ろよ、おっさん。

 お前が山伏に敵うわけがない。

 あの晩、波太の部屋に現われたユサは波太を嘲り、あからさまに波太を見下した。

 耐えられるわけがない。滝行に入っても三秒も持つまい。山伏たちは下界を捨て去り、自己を滅して焔の中を歩き、氷柱の這う極寒に滝に打たれて神仏に近づくのだ。生身のまま第三の眼を開き、血潮の噴き出すような苦行を積んできた山伏たちの霊力に、お前のような下っ端の鴉天狗が敵うわけがない。

「我々は見届け役だ。お前を裁く」

 下っ端だの小物だの、ユサは云いたい放題だったが、意味深ななぞかけも波太に残していた。

「天狗が人間を喰っているのなら、もっと世の中は混乱しているはずだ。そこを考えてみることだ」

 着信音がした。すぐに波太は出た。倫範だった。

「おっさん、何度もかけたぞ」波太は怒鳴った。

「ユサは見つかったか」

『波太。お前の力を貸せ』

「なんでぼくを頼るんだよ。いいけどな」

「乗れ」

 倫範の声は車道からした。ジープが停まっていた。


「この車どうしたの」

「借りた。盗んだ」

「どっち」

 それには応えず片手でジープを運転しながら倫範は録音ファイルの再生を押した端末を助手席の波太に投げて寄こした。少女の声がジープの車内に流れた。


 同士 聴こえるか


「ユサだ。ラジオに流れてきたものを捉えた。数時間ごとに一度だけだ。奥日光の山伏が方角までは特定している」

 祝日は覆面パトを含めた取り締まりが都内に増える。反対車線では白バイが切符を切っていた。盗難車だと分かると落ち着いて乗っていられない。倫範の運転は信号を辛うじて守っているのがふしぎなほどの野蛮なものだった。都市部の交通事情に明るい運転ではない。横断しかけている歩行者がいようが、自転車が側道を通ろうが、紙一重の隙間があれば速度を落とさず抜っていく。今もサーキットのように左折していった。急いでいるのは分かるが、これではすぐに警察が追いかけてきそうだった。背筋が寒くなるようなヒヤリを何度か味わううちに、波太は耐えられなくなった。

「車の免許は持っているんだろうな山伏」

「ない。とうの昔に失効した」

「運転をかわれ」

 波太は叫んだ。


 首都から出て、栃木と群馬の県境へと波太の運転するジープは高速道路を走っていた。

 蛇が卵を喰うように、天狗は人間を喰う。喰った人間に天狗はなり代わる。天狗と呼ばれる異種生物は大昔からずっとそうしてきた。

 倫範いわく大都市は既に手遅れということだった。天狗が人間に乗り移り放題だという。

「知りながら放置してたのか」

「宿主ごと殺すこともある」

「人殺し」

「Capgras delusion」

「なに、突然」

「親しい人間がべつの人間、もしくは無生物に中身が入れ替わっていると想いこむ精神疾患だ」

 その症例は患者の妄想や想い違いではなく、天狗が乗り移っていたのかも知れないということだ。

 波平、変わったね。

 戸惑っている日奈子の少し哀しげな顔を波太は想い出した。前方に眼を据えながら波太はハンドルを握り直した。長いトンネルに入った。日奈子を精神病にするわけにはいかない。ごまかし切れないようならプロ彼女の誰かに恋人のふりをしてもらって日奈子とは別れよう。元カレの借金を肩代わりしているプロ彼女の方も今の店から解放してやらなければ。

 駐屯基地に帰るらしき自衛隊の車両とすれ違った。

 親の仕送りを使うわけにはいかないからFXの方でもう少し金を作って、就活が本格化する前には女の子全員との関係を清算しよう。あいつらバカばっかりだからな。そんなことしなくていいよ波太くん。って云うだろうな。プラネタリウムに行きたいと云っていたのはどの子だっけ。最後に全員と行けばいいか。女を風俗に売るような借金男や二重契約の書類にサインさせるような悪徳業者に次は騙されないように固く約束させて別れよう。ぼくが云っても説得力はないだろうが。

「おっさん。横からのその眼つき、気が散るんだけど」

「気にするな」

 天狗の敵は修行を積んだ山伏だ。山伏の吹き鳴らす法螺の音は天狗の耳を裂き、空をとぶ船の航路を狂わせる。山伏の数は多くはないが、天狗とても決して優勢ではない。山伏たちは要となる主要な霊山や霊場を死守することで魑魅魍魎に対抗しているのだという。

「神域だけを護る。後は捨て石だ」

「そこが崩されたら」

「異界の船が連なって空に現れる」

「船。ああ、ネオのことね」

 ぽつりと零した波太の呟きを山伏は聴き逃さなかった。波太自身も内心では「あれ」と首をひねっていた。天狗ならば知っているはずのことだ。波太との記憶がごちゃごちゃだ。

 助手席から山伏はそんな波太を凝視していた。

 連休中だったが半端な時間の移動ということもあり高速道路は空いていた。日が翳ってきた。日没前には現地に着きたい。山に向かうにつれて気温が下がっているのが分かる。アクセルを踏み込み波太は前方の観光バスとトラックを追い抜かした。昨夕から行方不明ならもう丸一日経っている。ユサが無事でいるといいのだが。

「そもそも、おじさんが来た理由」

「血縁にあたる者が天狗に喰われたこと熊野で知ったからだ」

「どうやって」

「白鴉。鏡。遠話も使う」

「あ、説明はいいです」

 倫範は観察するように波太を見ていた。その眼つきに波太は憶えがあった。日奈子は無関係だから巻き込むなよと云った時にユサが波太に向けた眼つきと同じだった。訝るような、真偽をはかるような、そんな沈黙だった。

「次の出口で高速を降りろ」

 ウィンカーを出して波太はレーンを変えた。行ける処までは出来るだけ車で山に近づくのだ。その後はどうやって原生林の広がる山々からユサを見つけ出せばいいのか波太には皆目分からなかった。


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