一章 龍久国継承戦 一 ⑤

 我に返った紅運は銅剣を手に、無意識に駆け出した。肺の痛みが消え、弾かれるように足が前へと動く。地上へ飛び出した紅運を夜風が包む。石段の下から熱を帯びた空気と死臭がい上がった。

「紅運か……?」

 石段を上り切った黒勝が呟いた。背後には四肢のじれた死者の大軍と、山犬に似た魔物が侍っていた。

「黒勝……」

 がいさいは紅運をいちべつし、獲物を狩る許しを請うように主を見上げた。黒勝が目を伏せると、獣は満足げに吼える。睚眦がきばき出した瞬間、一陣の風の如く炎が駆け抜けた。突如現れた赤壁に黒勝と獣がたじろぐ。紅運はとつに振り返った。背後に、光輝さんぜんたる赤髪を風に躍らせる、金眼の男がいた。

「えらいことが起きてるみてえだな……紅運とは、お前の名か?」

 紅運の耳元で男が犬歯を覗かせて笑う。男の呼気から熱が漂った。

「紅ってことは九男だな。継承権は最下位。死んでも玉座が回って来ねえ。違うか?」

「俺の名はいい。俺がお前の主だ。お前の名を言え」

 赤毛の男が金のそうぼうを細めた。

さんげい

 熱が膨れ上がり、赤光がひらめいた。黒勝を囲む兵のくさり帷子かたびらが黒さを増す。一瞬で、亡者の群れが炭化し、風に散った。紅運は目を疑う。炎を放った瞬間すら見えなかった。

「何だ、そいつは……」

 黒勝が震える声で呟く。黒い山犬が石段を駆け上がって吼えた。

「睚眦じゃねえか」

 狻猊は紅運の肩に顎を載せるようにしてささやく。

「お前の兄弟か? 睚眦に睨まれたな。ありゃあもう駄目だ。やつに悪心を見抜かれたら、みんな唆されてイカれちまうんだ」

 黒勝とようが同時に唸った。紅運はちんうつに目を伏せた。

「そういうことか……黒勝なら上手い手はいくらでも思いつくだろうに、何でこんな短慮に走ったのか不思議だった。兄弟を殺そうかと思ったときから、あんたは睚眦のれいだったんだな」

 黒勝の瞳があらしの中の湖面のように震える。

「奴の本当の権能すらわかってなかったんじゃないか。知ってたらもっと周到にやったはずだろ」

 紅運は火膨れの潰れた手で銅剣の柄を握った。

あきらめろ。じきに追手が来る。妖魔のせいだとわかれば死罪には……」

 ほうこうが紅運の声をした。全身の毛を逆立てる睚眦の前に狻猊が立ちはだかる。二柱の妖魔を前に、黒勝は乾いた笑みを浮かべた。

せいえんか? 慈悲深い振りはやめろ。お前は俺を殺すのが怖いだけだ。無能が露呈するのを恐れて、何をするにもおびえていたからな」

 紅運は何も言わず視線を下げた。

「紅運、俺を見下すな!」

 地面がぜた。土煙を巻き上げ、睚眦が突進する。赤い軌道が閃き、黒いきよが弾かれた。狻猊の蹴撃が黒の大魔を正面から跳ね飛ばしていた。はるか先にたたきつけられた睚眦のつめあとが地に深い線を刻む。紅運は鈍痛の走った胸を押さえた。疲労が目をかすませ、汗が滴る。妖魔を使役するには己の体力を分け与えるのだと聞いたことがあった。

 黒勝が歯をきしませ、がいさいが起き上がる。紅運は深く息を吸った。

「見下せるわけないだろ!」

 黒勝の肩が小さく震えた。

「無能な俺が優秀なあんたをどう見下せっていうんだ!」

 痛む肺に空気を取り込み、のどを押さえて紅運は声を振り絞る。

「ずっとうらやましかった……いや、違うな。自分が惨めだから言わなかったが……俺には目もくれない父上が政のさいはいを尋ね、兄弟皆が信頼する、あんたを尊敬していた」

 黒勝が何か言いかけ、睚眦の呻きがそれを掻き消した。

「黒勝、それじゃ足りないのか」

「足りない」

 紅運の視線の先の兄は皮肉な笑みを浮かべた。

「お前は自分を無能と言い、兄弟に敬意を向ける。恐ろしい実力主義者だな。お前自身も才なき者は宮廷にいる価値がないと思っているあかしじゃないか? お前も結局腐った宮廷の一部分だ」

 虚を衝かれた紅運に、黒勝はしようすいした目を向ける。

「俺には白雄よりも政の才がある。だが、皇帝になれない。奴が長子で俺が七男だからだ。実力主義の宮廷でそんなことが? わからないだろう。紅運。兄弟のだれにも、皇帝にもわからない」

「俺はただ……あんたも他の誰も死ぬ必要なんてないと……」

 紅運はかぶりを振った。黒勝の目が虚ろに光っている。紅運は汗とうみ火傷やけどに染みる手で銅剣を握り、震える腕で黒い獣に切っ先を向けた。

さんげい、あの化け物を殺せ!」

 赤毛の男がどうもうな笑みを浮かべた。黒の大魔が地を跳躍する瞬間、男がかしずくようにかがみ込んだ。赤毛が火花を散らし、毛の一片まで炎をまとったに姿を変えた。身を躍らせた睚眦の腹が闇のように頭上に広がる。獅子はただ首をもたげ、啼いた。走る光がすべてをあかく染める。

 凝縮された炎が妖魔の胸を穿うがっていた。睚眦は細い煙を一筋上げる己の胸の穴を見下ろす。穴の縁を赤光が丸く走り、妖魔は火に包まれた。

 紅運は炎の照り返しを頰に受けながら、足を前に進めた。燃え盛る大魔を身じろぎもせず見つめていた黒勝が顔を上げる。

「あんたの言う通りだ。あんたがどれだけひとを殺していても、俺はあんたを殺すのが怖い……だから、投降してくれないか」

 紅運は携えた銅剣を下げた。黒勝は唇を震わせた。

「紅運、俺は……」

 黒勝が軽く背中を叩かれたように身を反らし、どさりと倒れ込んだ。

「黒勝!」

 紅運がつかんだ肩は金属のように冷え切っていた。睚眦が焦げて癒着した目蓋を開き、絶命した黒勝を凝視している。

「狻猊!」

 獅子が再びえ、がいさいを炭に変えた。火の粉を纏ったまま風に巻き上げられていくざんがいを見下ろし、紅運は目を閉じた。

 いくつもの足音が響いた。蛇矛を携えた白雄、その後ろからとうと青燕が現れる。皇子たちは倒れた黒勝と、炭の塊と、そして、紅運を見た。

「それは……!」

 炎を纏った獅子に皇子たちは言葉を失う。紅運が石段を下りかけたとき、青燕が声を上げた。

「待って」

 彼はまゆを寄せ、紅運を見つめた。

「大丈夫……じゃないよね」

「青燕、琴児を頼む。助けてほしい」

 それだけ告げ、紅運は足を引きずって歩き出した。石段の遥か下、城郭はいまだ燃えている。炎の獅子は熱の名残りに喉を鳴らした。

さんげい、炎を消すことはできるか」

「できねえよ。俺は燃やすだけだ。俺のことは知ってんだろ。お前も破壊を望んでる。違うか?」

 炎の中心のような金の目が楽しげに見える。試されている。

 ――俺には何もできない。だから、考えろ。兄たちならどうする。水の権能を持つ青燕は考えるまでもない。だが、全ての火を消すには青燕の魔力が足りない。橙志は燃える宮の急所を探し、白雄がそれを崩して火を鎮めた。風生火。黄禁が口にしていた万物が持つ性質の相関だ。風は火を生かす。物を燃やし尽くした炎を新たな場所へ運ぶからだ。火は燃えるものがなければ燃えられない。

「狻猊、全部燃やせ。燃えるものがなくなるほど、風すらも燃やして消し飛ばせ!」

 狻猊は男の声で笑い、咆哮を上げた。しやくねつせんこうが上空を走り、宮殿が爆風にあおられ、池の水が干上がる。一瞬の燃焼で酸素を奪われた火は周囲の官吏や女官を捕える間もなく、最期の輝きを残して消え去った。

 紅運はあんためいきをつき、その場に倒れ伏した。指先にすら力が入らない。妖魔を使役した代償で精も根も尽き果てた。深紅の髪の男が仰向けになった紅運の横に座った。

「お前は俺の封印を解いたんだ。死罪どころじゃ済まないぜ」

 月の代わりに金色の瞳が紅運を見下ろす。

「どうする。国も王宮も兄弟も全部燃やすか? そうしたら、最後に残ったお前が皇帝だ。末端のお前にはちょうどいいか?」

「それじゃ意味がない。せっかく守り抜いたんだ。そうだ、俺にも守れたんだ……」

 紅運は震える手を空にかざす。兄と同じように戦えるところを見せたかった父はもういない。悲しくなかったのは、それ以上に腹立たしかったからだと気づいた。

「もう二度と見せつけられないなら、俺が同じ高みまで行くしかない」

 狻猊が眉をげる。

「それに、約束したんだ。宮殿で女官が馬に乗れるようにすると……」

 赤の大魔は目を見張り、って笑い声を上げた。

「良君でも暴君でもなく、いかれた皇子とはな」

 紅運はこうしようを聞きながら意識を手放した。水の中の宮はもうなく、干上がった池に炎のあとが泡に似た膨らみを残していた。

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