一章 龍久国継承戦 一 ⑤
我に返った紅運は銅剣を手に、無意識に駆け出した。肺の痛みが消え、弾かれるように足が前へと動く。地上へ飛び出した紅運を夜風が包む。石段の下から熱を帯びた空気と死臭が
「紅運か……?」
石段を上り切った黒勝が呟いた。背後には四肢の
「黒勝……」
「えらいことが起きてるみてえだな……紅運とは、お前の名か?」
紅運の耳元で男が犬歯を覗かせて笑う。男の呼気から熱が漂った。
「紅ってことは九男だな。継承権は最下位。死んでも玉座が回って来ねえ。違うか?」
「俺の名はいい。俺がお前の主だ。お前の名を言え」
赤毛の男が金の
「
熱が膨れ上がり、赤光が
「何だ、そいつは……」
黒勝が震える声で呟く。黒い山犬が石段を駆け上がって吼えた。
「睚眦じゃねえか」
狻猊は紅運の肩に顎を載せるようにして
「お前の兄弟か? 睚眦に睨まれたな。ありゃあもう駄目だ。
黒勝と
「そういうことか……黒勝なら上手い手はいくらでも思いつくだろうに、何でこんな短慮に走ったのか不思議だった。兄弟を殺そうかと思ったときから、あんたは睚眦の
黒勝の瞳が
「奴の本当の権能すらわかってなかったんじゃないか。知ってたらもっと周到にやったはずだろ」
紅運は火膨れの潰れた手で銅剣の柄を握った。
「
「
紅運は何も言わず視線を下げた。
「紅運、俺を見下すな!」
地面が
黒勝が歯を
「見下せるわけないだろ!」
黒勝の肩が小さく震えた。
「無能な俺が優秀なあんたをどう見下せっていうんだ!」
痛む肺に空気を取り込み、
「ずっと
黒勝が何か言いかけ、睚眦の呻きがそれを掻き消した。
「黒勝、それじゃ足りないのか」
「足りない」
紅運の視線の先の兄は皮肉な笑みを浮かべた。
「お前は自分を無能と言い、兄弟に敬意を向ける。恐ろしい実力主義者だな。お前自身も才なき者は宮廷にいる価値がないと思っている
虚を衝かれた紅運に、黒勝は
「俺には白雄よりも政の才がある。だが、皇帝になれない。奴が長子で俺が七男だからだ。実力主義の宮廷で
「俺はただ……あんたも他の誰も死ぬ必要なんてないと……」
紅運はかぶりを振った。黒勝の目が虚ろに光っている。紅運は汗と
「
赤毛の男が
凝縮された炎が妖魔の胸を
紅運は炎の照り返しを頰に受けながら、足を前に進めた。燃え盛る大魔を身じろぎもせず見つめていた黒勝が顔を上げる。
「あんたの言う通りだ。あんたがどれだけひとを殺していても、俺はあんたを殺すのが怖い……だから、投降してくれないか」
紅運は携えた銅剣を下げた。黒勝は唇を震わせた。
「紅運、俺は……」
黒勝が軽く背中を叩かれたように身を反らし、どさりと倒れ込んだ。
「黒勝!」
紅運が
「狻猊!」
獅子が再び
いくつもの足音が響いた。蛇矛を携えた白雄、その後ろから
「それは……!」
炎を纏った獅子に皇子たちは言葉を失う。紅運が石段を下りかけたとき、青燕が声を上げた。
「待って」
彼は
「大丈夫……じゃないよね」
「青燕、琴児を頼む。助けてほしい」
それだけ告げ、紅運は足を引きずって歩き出した。石段の遥か下、城郭は
「
「できねえよ。俺は燃やすだけだ。俺のことは知ってんだろ。お前も破壊を望んでる。違うか?」
炎の中心のような金の目が楽しげに見える。試されている。
――俺には何もできない。だから、考えろ。兄たちならどうする。水の権能を持つ青燕は考えるまでもない。だが、全ての火を消すには青燕の魔力が足りない。橙志は燃える宮の急所を探し、白雄がそれを崩して火を鎮めた。風生火。黄禁が口にしていた万物が持つ性質の相関だ。風は火を生かす。物を燃やし尽くした炎を新たな場所へ運ぶからだ。火は燃えるものがなければ燃えられない。
「狻猊、全部燃やせ。燃えるものがなくなるほど、風すらも燃やして消し飛ばせ!」
狻猊は男の声で笑い、咆哮を上げた。
紅運は
「お前は俺の封印を解いたんだ。死罪どころじゃ済まないぜ」
月の代わりに金色の瞳が紅運を見下ろす。
「どうする。国も王宮も兄弟も全部燃やすか? そうしたら、最後に残ったお前が皇帝だ。末端のお前にはちょうどいいか?」
「それじゃ意味がない。せっかく守り抜いたんだ。そうだ、俺にも守れたんだ……」
紅運は震える手を空に
「もう二度と見せつけられないなら、俺が同じ高みまで行くしかない」
狻猊が眉を
「それに、約束したんだ。宮殿で女官が馬に乗れるようにすると……」
赤の大魔は目を見張り、
「良君でも暴君でもなく、いかれた皇子とはな」
紅運は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます