二章 龍久国継承戦 二 ①

 目を開くと、こううんは寝台に寝かされていた。

 部屋に射す光が等間隔に遮られ、窓の鉄格子に気づく。手首に重みを感じて見下ろすと、かせめられていた。さんげいの姿は見当たらない。ふたりの兵士が入室する。彼らは慎重だが素早い手つきで紅運にくつわませ、かせに鎖をつないだ。

 紅運は両脇を抱えられ、部屋を後にした。庭にはまだ煙が上がり、焼けた宮が無残な姿をさらしていた。南側へ進むにつれ、火の手を免れた廷内は普段の様相を成す。きんはどうなったと聞きたかったが轡に阻まれた。

 兵は宮殿の門を潜った。漆の紋様ときんぱくが彩る柱が天井を押し上げる広大な宮だ。奥には黒ずんだ長箱が置かれ、焦げたにおいを漂わせていた。黒石の床に座らされた紅運を四人の兄が見下ろした。

「紅運!」

 駆け寄ったせいえんが兵士の制止を振り切って縛を緩める。

「罪人みたいに拘束することないじゃないか!」

 目の下の青みを一層濃くしたおうきんうなずいた。

「その通り。妖魔を使うにはただ念じればよい。いくら縛めようと、さんげいは瞬く間に俺たちを焼き殺せるぞ。昨夜は宮殿の三割が燃えたらしい。二百年前と比べて半分の被害だ。赤の大魔は本調子ではないらしいな」

 とうが軍の長らしい威圧でふたりを鋭くにらむ。

「お前は言葉を慎め。青燕も勝手な行動はするな」

 はくゆうは冷たく輝く床を踏みしめ、紅運の前に進み出た。

「ここはきん殿でん。玉麟殿が使えぬ際、催事を行い詔を発する場です」

 彼は昨夜の疲労などじんも感じさせず、りんぜんと告げる。

「まず貴方の奮励に感謝と敬意を。琴児は峠を越え、今眠っています。件の動乱はとし、黒勝は己が身を顧みず消火に当たった君子として龍墓楼で弔うことが決まりました」

 死体が晒され、国賊と石を投げられることはない。事を穏当に収めるためだけではなく、兄たちの温情でもあるのだろう。しかし、黒勝の苦渋に満ちた述懐は誰にも知られることはない。紅運は轡の奥でうなった。

「目下の課題は貴方です」

 白雄は弟をぐに見下ろした。普段は慈愛に満ちたまなしが、今は感情が読み取れなかった。

「赤の大魔を解いたのは死罪も免れぬ重罪です。しかし、今は裁きを下す皇帝も刑部の長もいない」

 赤と白の紙箋が鼻先に垂れた。

「よって、我々の投票で処遇を決めます。極刑を是とするならば白、否ならば赤を」

 つぼを携えた官吏が皇子たちから紙箋を受け取る。そのしきが熱で揺らぎ、火花のぜる音がした。

「風前の灯火だな、紅運」

 を舐るような囁きに、昨夜の火の海が浮かぶ。

 ――狻猊。

「奴らを脅すのも殺すのも簡単だ。だが、それじゃ意味がない。奴らの意思でお前を救うならば生かす。殺すなら俺も奴らを焼き殺す」

 大魔は権能を使うとき以外持ち主にしか見えないことは、従僕を持たなかった紅運も知っていた。魔物の爪がのどもとにかけられたことに兄たちが気づく由はない。

 やめろと声もなく叫ぶ紅運の前で、青磁の壺が返された。舞い落ちた紙箋は赤二枚、白二枚。

「同数、ですか」

「何でふたりも……」

 青燕は白の紙箋を握る手に力を込めた。

「紅運は皆を助けてくれたじゃないか! 彼がいなきゃ被害はもっと増えてた。僕たちも死んでたかもしれないのに!」

 橙志は腕を組み、ぜんとして答える。

「事は必ず収まった。被害が出ようと俺たちの誰かが死のうと残った者が後を継ぐ。大魔を解く必要はない。事によって件の遺言の後に……」

「俺は反対だぞ。弟殺しは嫌だしな。それに、皇帝を失い地脈が乱れる今、最悪の大魔は最大の抑止力になる」

 黄禁は紙片をもてあそびながら肩をすくめた。

「いっそ紅運に赤の大魔を呼ばせて、まだ悪意があるか聞けばいいのではないか。二百年の謹慎で大人しくなっているかもしれないぞ」

「ふざけるな!」

 橙志と黄禁を視線で窘め、白雄は沈痛な面持ちで口を開いた。

「私は、賛成です」

 皇子たちが言葉を交わす間に、紅運がひざをつく床がほのかに熱を帯びた。

「紅運が宮廷を救ったのは確か。ですが、私は更により多くを、即ちこの国の民を救うべきだと考えます。赤の大魔の主を生かしておくことはそれに反する」

 紅運のあごえきが伝い、瞬く間に蒸発した。それに気づく者はない。金の柱を抜けて駆けつけた官吏が白雄に傅いた。

「第八皇子・すいしゆん様の母君の命で参りました。こちらを」

 舞い落ちた一片の紙箋は白だった。

「三対二……」

 白雄は目を伏せる。かげろうが床面をって揺れた。

「待ってよ、本当にこんな決め方でいいのか!」

 せいえんの叫びをよそに室温が上がり出す。もがく紅運の耳に狻猊のくぐもったちようしようが響いた。

「無駄だ。いのちいにしか見えねえよ」

 橙志が紅運を見下ろした。

「お前だけ逝かせる気はない。俺が早く軍を動かせば防げた事態だ。責は俺にもある。すべて片付けた暁には己が首もねる。地獄で待て」

「おかしいよ、ふたりとも死ぬ必要なんてない!」

 紅運の全身に汗が噴き出す。部屋の奥のが熱できしみ、黄禁が周囲を見回した。

「部屋が暑くはないか?」

「今そんな話はいいだろ!」

「違う。これは……」

 轡が落ち、紅運は張り付いたのど奥を震わせた。

「皆、死ぬぞ……!」

 かすれて声にならない叫びの代わりに涼やかな声が聞こえた。

「私が赤を入れれば同数かな?」

 全員の視線が声の方を向く。切れ長のひとみ、高いりようと唇までの陶器のような曲線。皇太子によく似た穏やかな面差しだが、老人じみた総しらだけが異なっていた。白雄とうりふたつの双子だが、潔白な兄と正反対に、市井で浮名をとどろかすほうとうにんの第二皇子の帰還だった。

らんえい……」

 白雄がかすかに安堵したようにつぶやき、すぐ表情を打ち消した。

「私がいない間に大変だったようだね」

 紅運は汗と唾液にまみれた顔を上げた。立ち込めた熱気が徐々に鎮まる。

「これは皇子の会合だ。お前は自ら臣籍降下を申し出たはずだろう」

 橙志の低い声に藍栄は軽薄な笑みを返した。

「すっかり兄上と呼んでくれなくなったね、橙志。その通りだが、父上が最期まで受け入れなかったのさ。私は結局第二皇子のままだよ」

 彼は白雄の手を取り、自分のこぶしを重ねる。開かれた手には汗でふやけた赤の紙箋があった。

「事態は急を要します。同数では決着がつかない。ゆうが戻るまで待つ気ですか」

「決着は四対三で処刑は否だ。って、彼も皇子だからね。まさか自殺を望んではいないだろう?」

 藍栄は紅運を指す。紅運は荒い息で首肯を返した。白雄は長い溜息をついた。

「赤の大魔を知らぬ訳ではないでしょう」

もちろん。ひとを脅かすようと異なり、ひとと共にあることを選んだ九の魔物の一柱だ。人間も魔物もばんかいの機会は与えられるべきじゃないかな」

 藍栄は指を鳴らした。

「父上が崩御し、抑えられていた各地の妖魔が再び動き出した。昨夜の小火と時を同じくして、皇妃の幾人も縁ある、城下の墓地で墓守の一家が惨殺されたよ。皇子として見過ごす訳にはいかない」

「それを討伐すれば民を守った神獣として認めろ、ということですか」

「ご明察」

 白雄は沈黙の後、改めて背筋を正した。

「紅運の縛を解いてください」

 青燕の安堵の息の音が響いた。兵士が紅運の枷を外す。雑然とした空気の中、白雄は宮の奥に身を寄せ、刀身に似た細い影の中で藍栄にささやいた。

「全て計算済みですか」

「まさか。私も大概焦ったよ。何とか間に合ったけれどね」

 藍栄は白髪の下の目を細める。

「助かりました。……迷っていたのです。皇子として処刑すべきでした。しかし、兄としてはそうすべきではなかった」

「まずは〝べき〟というのをやめるところからかな」

 白雄は暗がりの中でうつむいた。

 紅運はまだ縛の感触がある手首を摩り、宙を睨んだ。

「狻猊、殺そうとしたな!」

「当たり前だろ」

 赤毛の行者が犬歯をのぞかせる。

「王宮を救った勇士の墓上に立つ国なんぞ俺が守ると思うか? 俺が従うのは国じゃなくお前だ。俺の気が変わるまでな」

「ふざけるな。また封印されたいのか」

「悲壮だな。お前を殺そうとした奴らをかばうのかよ」

 狻猊が嘲笑を漏らしたとき、紅運の肩をたたく手があった。

「待たせたね」

 藍栄が微笑ほほえみかける。陽炎を残して狻猊が消えた。

「積もる話は道中にしよう。何分急がないとまずそうだ」

 答える間もなく城門の方へ引きずられ、紅運は声を張り上げる。

「急ぐってどこに」

「もちろん街だよ。都を脅かす妖魔退治さ。向かうは羅城の北の墓地。敵は死体から出るしようを集めたおんりようおんだ」

 都の大門を抜け、広大無辺に続く大路を進めばすぐ市場に辿たどく。

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