二章 龍久国継承戦 二 ②
まるで音と色の洪水だった。果実から
「喪に服してないのか……」
「白雄が
商店の軒先には売物の魚や
「いい絹が入ったぞ。垂領でも仕立てるかい?」
「今度にするよ、取っといてくれ」
「何だ弓矢なんか持って。今日の獲物は御婦人じゃないのか」
「人聞きが悪いな」
皇子と下民のやり取りとは思えなかった。笑いながら手を振り返す様は商家の放蕩息子のようだ。言葉を失う紅運を藍栄が振り返る。
「城郭とは王宮と防壁だけでなく、市から田畑、墓地までも有する巨大な都全てを指す語なんだ。自国を学ぶのは皇子の義務さ」
「だからって……」
「まあいいじゃないか。市井を訪れたことは?」
「昼間は初めてだ」
「では、存分に見て回ろう。楽しいよ、私はこれに生かされてる」
藍栄の背が雑踏に消える。追おうとした紅運の視界を赤髪が掠めた。
「狻猊!」
紅運は惨劇の予感に青ざめたが、男は金の瞳で市場を見回しただけだった。視線は食堂の軒に垂れる子どもの背丈ほどの魚に注がれていた。
「気になるのか……?」
「あの店は何だ。窓も屋根も様式が妙だし、店主の肌も蝋みてえだ」
「俺も詳しくないが、たぶん西から来た商人の店だろう」
「天子の都に異邦人が住みついてんのかよ。考えられねえな」
狻猊は
「あっちで売ってるのは何だ?」
「銀細工だろうな。数年前銀山が見つかって……」
「大門の近くの酒楼は? 都の顔だった
「詳しくないって言ってるだろ」
初めての市に戸惑う子どものような様子に紅運は思わず苦笑した。
「何だよ」
「いや、さっきの店は魚が気になったのかと……」
「
狻猊は怒るでもなく憮然として呟いた。
「何処も変わってやがる。二百年前と大違いだ」
「封印される前か。昔の主と市場に来たことがあるのか?」
何の気なしに尋ねた紅運の
「一度しか忠告しねえぞ。俺に前の主のことを聞いたら殺す」
狻猊は
「昨夜から何も食べてないだろ?」
押し付けられた筒からは茶の香りが漂い、笹の包みを解くと蒸した饅頭が現れた。紅運は
「敵地へ急がなくていいのか。それに、毒見役もいないのに市井の物を食べるのは……」
「腹ごしらえは重要だろう。心配しなくても毒など入ってないさ」
藍栄は饅頭をひと口
「小さい
「だから、臣籍降下を?」
「そう。白雄には重責を押しつけて申し訳なく思ってるよ」
「恨んでないのか?」
「恨む余地などないさ。君は白雄を恨んでいるかい。危うく処刑されるところではあったが」
「正直、恨むほど気持ちが追いついていない……
藍栄が
「気にしてない。俺が白雄の立場でも俺なんか見捨ててたさ」
「白雄は君を軽んじていた訳でも見放した訳でもないよ。ただ、愛する者でも規律の
「助けられても、俺は借りなんて返せないぞ」
「充分さ。これ以上兄弟が減るのはごめんだ。黒勝は目利きでね。私が質屋で珍品を買うたびに
紅運は俯いた。
「思い出話は仕事を片づけてからにしよう。行こうか」
目抜き通りから郊外の林道に入るにつれ、
「この先に例の妖魔がいるのか」
「ああ、墓地にね。魔物は大魔たちがいる宮殿には近づかない。都から離れた、こういう暗い場所によく現れる」
路肩に
「陰摩羅鬼、弔われなかった死者の気が
「民は葬送をなおざりにしていると?」
「いるじゃないか。未だ安息を得ていない死者が」
紅運は息を
「龍久国は
「まだ何もいないが……」
「いや、いるさ。私はとても目が良くてね」
疾風が走り、藍栄の足元にごとりと硬いものが落ちる。矢を放つ瞬間すら見えなかった。紅運は感嘆しながら足元に視線をやって思わず
「陰摩羅鬼とはこれか?」
「これは
藍栄は矢筒から新たな一矢を取る。
「敵が多いほど私に有利だ。藍の大魔は眺望を好む。来い、
藍栄が目を閉じると、
三条の雷光が奔った。矢は見えない妖魔を正確に撃ち落とした。断末魔の呻きと風切り音、肉が
「失礼」
後ろから奇襲を
「向こうが本命のようだね」
墓地の方へ駆け出した藍栄の後を追い、林を抜けた紅運に咆声が降りかかった。開けた墓地の中央を
「私が
「大丈夫。
紅運は先ほどの狻猊の形相を浮かべつつ、意を決して呼んだ。
「来い」
墓地の風景が歪み、狻猊が降り立った。紅運は獅子の横面を盗み見たが表情は読めなかった。螭吻の体表の
「手柄だけは俺たちに譲ろうってか。いけ好かねえ」
陰摩羅鬼は最奥の土壙墓へ誘導されている。紅運は狻猊の背に飛び乗った。燃える毛皮は主だけを焼かない。
――
記憶の中の火が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます