二章 龍久国継承戦 二 ③

「行け!」

 炎の推進力で加速した狻猊は火矢のごとく飛んだ。大地に黒いわだちが残り、苔が一瞬で枯れ果てる。敵は既に眼前にいた。

えろ!」

 短いほうこうが熱波として飛んだ。その瞬間、陰摩羅鬼の嘴が紅運を指した。空中で身をよじった狻猊の横合いをごうおんと爆炎がはらった。狻猊は距離をとって着地する。土煙の中で化鳥が笑っていた。事態が飲み込めない紅運の横で藍栄がつぶやく。

「死体のしように引火したのか……」

 紅運は同じ火炎を見たことがあった。幼い頃、都で病がり、白雄に伴われて慰問に訪れたときだ。地にひざをつき病人の手を握る皇太子に涙する民の肩越しに青い火が浮かんでいた。帰りにそれを口にすると、むくろが発する気は風に触れて火を生むことがあるのだと長兄は言った。亡者から生まれた化鳥の嘴から蒼炎が溢れている。最強の炎が通用しない。

 皇子たちの隙をき、陰摩羅鬼の翼がはためいた。藍栄がとつに放った一矢が乱気流に砕かれる。剪刀はさみじみた嘴が紅運の頭上に迫っていた。赤光が過ぎる。妖魔の嘴は紅運の前に出た赤毛の男の心臓を貫いた。

「狻猊!」

 背を貫通した嘴の先端に鮮血ではなく、煙が絡みつく。

「炎に急所があるかよ」

 瞬く間に火が広がった。目を焼かれた化鳥は絶叫しながら、狻猊の胸をえぐり抜いて逃げる。元の黒と焦げ跡が交じる身を震わせ、妖魔が吼えた。蒼炎が空を焼き、林の鳥が一斉に飛び立つ。

「今ので仕留められないのか」

 炎熱のせいか焦りか、藍栄のほおを汗が伝う。鳥たちが逃げ去った墓地に、化鳥だけが全身から噴煙を上げながら立っている。狻猊の胸の風穴を炎が埋め、跡形もなく消した。

「どうする、紅運? 火力を上げれば灰にできるぜ」

「駄目だ。爆発したら街にも被害が及ぶ。それに藍栄を巻き込むだろ」

「競争相手が減っていいじゃねえか」

 狻猊がにじり寄る。

「俺は皇子が嫌いなんだ。国のためとうそぶいて自分も兄弟も平気で殺す。手前らの首にはすべてに替わる価値があると思ってるからな。気に入らねえよ。野良犬みてえに焼き殺して思い知らせてやるのもいいだろ」

 藍栄が小さく笑った。

「優しい妖魔を持ったね」

「どこが……」

 紅運だけでなくあつにとられた狻猊を横目に、藍栄は矢を抜いた。

「誰も死なせないよ。この世には楽しみが沢山あるからね。早くここを切り抜けようじゃないか」

 化鳥の鳴き声に張り詰めた弓が震える。

「先ほどより正確に射れなさそうだ。手伝ってくれるかい?」

 紅運は額の汗をぬぐった。

「俺がおとりになる」

 藍栄がうなずき、螭吻の体表の目が四つ開いた。陰摩羅鬼が羽ばたく。

「正面から頼む」

 赤毛の男が炎を脚に纏う。狻猊が素早く紅運の両脚を抱え、跳躍した。抗議する間も余裕もない。

「火が使えないなら」

 紅運は銅剣を握る。すれ違いの刺突は激音を立て、黒鉄の羽と火花を散らしただけだった。

「くそっ……」

 二本の矢が妖魔の首をれて墓石を粉砕した。蒼炎がけんせいするように周囲を焼き払った。藍栄の射撃の精度は格段に落ちている。足場すら要せず狻猊が回転した。

 ――藍栄は狻猊の速さを知って尚、背後を取れと言わない?

 紅運が顧みた先で、藍栄が最後の一矢を番えた。両のまぶたは閉じている。

 ――まさか。

 紅運は再び化鳥を見やった。

「狻猊、切り離された身体からだは火に変えられるのか」

 大魔は頷く。弓を引き絞る音。命じる前に狻猊が地をった。赤髪の旋毛を見下ろして念じた思考は口にせずとも伝わったようだ。

 陰摩羅鬼に追従して風が渦巻く。狻猊は減速しながら肉薄した。開かれた嘴と腐臭が迫る。

「俺の首に価値などあるか」

 紅運は己を抱える妖魔に銅剣を向けた。狻猊が空中で身を屈める。化鳥の嘴は虚空をついばんだ。攻撃の寸前、狻猊は紅運を上に放り投げている。

「命懸けじゃなきゃ何も……」

 きりみされる紅運の視界に、唯一の標の如く伸びる男の手があった。

「できないだけだ!」

 振るった銅剣は狻猊の手首を狙い通りに切り飛ばした。落下する紅運を狻猊が片腕で抱え、切断された己の肉を蹴り上げる。仰ぎ見た空に銀の一線が走った。矢は空中の手首を貫き、直進する。魔物の開いたこうこうに飲まれる瞬間、手首が燃え上がった。嘴に絡む死人の髪が細く煙を上げ、青い光が薄く漏れる。轟音とともに陰摩羅鬼の半身がさくれつした。

 赤と青の炎が絡み、墓地に煙と腐肉の焦げるにおいが充満する。藍栄が悼むように目を閉じた。亡者の鳥は体の内外の炎に焼かれてほふられた。

 帰路の林道で紅運は息をついた。身体は汗と空気に溶けた油脂でべたついていた。紅運は脂で照る唇をめる狻猊を呆れ交じりに見上げた。

「何とかなったな」

「当たり前だろ。俺が殺せない奴がいるかよ」

「敵じゃなくお前が何をしでかすか心配だったんだ」

「そりゃあこっちの台詞せりふだ」

 狻猊は金のを細めた。

「お前はまともで大人おとなしいつもりでいるかもしれねえが、普通は人間の姿の奴の手首をちゆうちよなく切り落とさねえよ。いかれてるぜ」

 答えに窮した紅運を見て、藍栄が声を上げて笑った。

「何にせよ、よくやってくれた。君たちの手柄だ」

 狻猊が舌打ちする。

きやがって。目がいいなんて大噓じゃねえか。お前、盲目だろ」

 藍栄は少しの間沈黙した。

「わかるかい?」

 紅運は首を垂れて肯定を示す。

ふんの権能は眺望。ただ遠くを見るんじゃねえ。周りの生き物の視界をのぞてんだ。墓場の鳥たちがいなくなったら何も見えねえ。だから、俺たちの目を使うため正面から敵を討たせた。じゃなきゃ、どこに矢を撃てばいいかもわかんねえからな」

「全盲って訳じゃないさ。それに、市井は幾らでもひとの目があるから不自由しない」

「それで、生かされてるって言ったのか……」

えんどくさ。八つのころやられて、髪だけじゃなく目も駄目になった」

 老人のようなしらが日に透けた。

「恨んでないかと聞いたね。私も人並みに恨みはあるさ。高熱に魘される中、視界がやみに食い破られるのがわかった。次に起きたときに見るものが己の目で見る最後のしきだと悟ったよ。そのとき、誰かひとりでも傍にいてくれたら許そう。だれもいなければ国も宮廷も家族も全て恨もう、と誓ったんだ」

「……それで?」

「枕元で突っ伏した白雄がいたよ。目をらして。刺客に備えて短刀を握って、公務も放り出して寝ずの番をしていたと後で聞いた。だから、私は恨んでないのさ」

 藍栄は目を閉じて笑った。

「玉座を争い傷つけ合うなんて本意ではない。他の兄弟も君も、同じじゃないのかな」

「でも、遺言で……それに……」

「始めが心已に之を許せり」

 耳慣れない言葉に紅運は戸惑う。

「古書の一節さ。ある男が名剣を持っていて、客人がそれをうらやんだ。男は後日剣を譲ろうと彼を訪ねたが、客人は病で急死していたんだ。男は『初めから私は君に剣を譲ることを心の中では許していたのに』と悔やんで墓前に剣を供えた」

 藍栄は笑った。

「思いは言葉で伝えなくてはね。間に合わなくなってからでは遅い」

 紅運は答えられずうつむいた。目抜き通りのけんそうが漏れてきた。

 市場を抜けて戻った宮廷は常時より厳粛に思えた。きん殿でんの祭壇で、紅運はひざまずき、兄たちと向き合う。中央の白雄は静かに告げた。

「紅運、貴方の功績を認め、赤の大魔を正式に迎え入れます」

 跪いた紅運は目を見張る。黒曜石の床に反射した白雄と目が合い、微笑が返った。何度も見た、穏やかな慈愛に満ちたまなしだった。

 壇上から駆け下りたせいえんが紅運の首に飛びついた。

「本当によかった。力になれなくてごめん」

 橙志がまゆを顰める。

「お前は慎みを覚えろ」

 傍で黄禁が首をかしげた。

「兄上は行かなくていいのか。互いに斬首から救われたのだろう」

「誰が行くか」

 厳かな殿内の空気が緩む。せいえんは泥とすすに構わず紅運を抱きしめた。

「やっぱり君はすごいやつだよ」

「青燕、苦しい」

「あ、ごめん」

 身を離した彼の衣に汚れが移っているのを見て、紅運は息をついた。

「言わなければ伝わらない、か」

 紅運は立ち上がり、兄たちを正面から見据えた。

「聞いてくれ」

 五人の視線に息が詰まりかけるのを堪え、紅運は声を振り絞る。

「赤の大魔を解いたのは皇位争いのためじゃない。俺も皆と一緒に、まだ遠く及ばないが、何とかしてその、遺言の通りにしなくていい方法を探そうと、具体案は浮かんでいないが……」

 途切れ途切れの言葉に耳を澄ませていた皇子たちから、誰ともなく微笑が漏れた。ちようしようでない穏やかな笑みだった。らんえいが目を細めた。

 夕刻の鐘が鳴る。藍栄が一足早くきびすを返したのを白雄だけが見留めた。

「もう行くのですか」

「やるべきことがあってね。またすぐ戻るさ」

 白雄はかんぺきな横顔で微笑する。

「藍栄、貴方に感謝を。道中気をつけて」

「ああ、君も用心したほうがいい」

「それは、赤の大魔のことですか」

「違う、少し気掛かりではあるけれどね。何せ人型の大魔など例がない。記録に残る狻猊はの姿だ。何より、本来伏魔殿には宮廷そのものと同等の強固な結界が張られているはずだ。皇子ひとりごときに解けるものではないんだよ」

 はっとした白雄に歩み寄り、藍栄は彼だけに聞こえるようささやいた。

「もっと恐ろしい敵が宮中にいるかもしれない」

 あいいろの袍を翻し、ひとりの皇子が去る。ゆうと影が白雄の足元に伸びていた。

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はぐれ皇子と破国の炎魔 ~龍久国継承戦~ 木古おうみ /カドカワBOOKS公式 @kadokawabooks

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