一章 龍久国継承戦 一 ④

 ***


 破壊の残響は紅運の耳にも届いた。

「紅運様、疾くお逃げを」

 琴児が衣の裾をたくし上げる。布靴に包まれた五寸もない爪先がのぞいた。歩くのも難しいだろう、小さな足だった。紅運はの手を取って駆け出した。

 周囲は煙と、木と肉の焦げる臭いが充満していた。遠くで皇帝を安置する宮を炎が包み、黒煙が夜空の暗雲に合流した。

「黒勝、本気だったのか」

 紅運の見逃した兄が殺した者たちが廊下や庭に倒れている。あの後、他の兄に伝えていたら違っていただろうか。

「紅運様!」

 思考を琴児の声が引き裂き、真横から二本の腕が突き出す。間一髪で躱した紅運の前をえきを滴らせた上下の歯がんだ。

「何だ、こいつは!」

 襲いかかってきた男は鎧をまとっていたが黒いのは帷子ではない。裂けた腕や背から骨が見えるほど体が焼けて焦げている。常人なら立つこともかなわない火傷やけどだ。再び躍りかかった男の腹を紅運のかかとが打つ。男は勢いのまま頭から白壁に突っ込んだ。骨が砕ける音がしたが、二本の脚がまだばたついている。

「また死霊か……!」

 紅運は自分の腰を見下ろす。とうにけいをやめた剣など帯びているはずがない。紅運は舌打ちし、隅に転げていた黒いさやを拾った。

「道が塞がれている。北へ逃げよう」

 紅運は琴児の手を引いた。道の向こうで亡者が次々と倒れる。黄禁がびようからじゆじゆつで生ける屍を死者に還しているのだろう。紅運は頼りない黒鞘をにらんだ。

 朱塗りの楼門が見えた。それと同時に煙より一段暗い黒の塊が目に映る。死者の軍勢が門の下にうごめいている。琴児が手をそっと解いた。

「貴方様だけでお逃げください。老体は足手まといです」

「何を言うんだ!」

 き込む紅運の声に、亡者たちが白濁した目を向けた。うめきがこだまし、無数の腕が押し寄せた。

「死に損ないが……!」

 死者のけんげきが紅運の構えた鞘を弾き飛ばす。押し寄せるあぎに紅運は目をつぶった。痛みは襲ってこない。目を開くと、亡者たちが焼けた梁にし潰されてもがいていた。瓦礫が広がる中にしらの老婆が倒れている。

「琴児!」

 いまだ燃えくすぶる天鵰殿から老体とは思えぬ力で梁を抱え、亡者の群れに投げ落としたのだ。衣から覗く腕は赤くただれていた。

「どうして……」

 煤と火傷で覆われた彼女を抱き起こすと、力無い笑みが返った。紅運は琴児の衣に点いた火を手で消して背に負った。火膨れした指がひりつく。鉛のような重みに耐えながら紅運は一歩ずつ進んだ。

「何で俺なんかをかばうんだ」

 熱く細い息が耳にかかり、琴児が笑ったのだとわかった。

「今も覚えております……私の足を見た紅運様が……『皇帝になったら女官も馬を使えるようにしてやる。馬が走れないところは俺が背負う』と……。何もないなどと仰いますな……私にはずっと何より大事で特別な……」

 琴児が肩からずり落ちた。慌てて抱き起こすと、まだわずかに息があった。風と炎の共鳴に怒号が混じる。今は白雄も、桃華もここにいない。

 紅運が唇を嚙んだとき、獣のうなりが響いた。先日の堂の奥で聞いたものと同じ響きだった。振り返ったが、変わらず赤い楼門があるだけだ。その奥から低い唸りが聞こえてくる。皇帝たちの墓の先にあるのは――。

「伏魔殿……」

 紅運は琴児を楼門の下に寝かせた。

「すぐ戻る」

 赤い支柱を潜り、紅運は気が遠くなるような長さの石段を駆け上がった。肺が鋭く痛む。ごうしやな廟の前を擦り抜けた先に、石を積み上げた、崩れそうな塔があった。白い縄で幾重にも封じられた入り口には天子すらも立入を禁じる札が揺れている。紅運が躊躇ためらってから縄に手をかけると結び目はあつなく解けた。

 いびつな石の扉を肩で押し開けると、湿気と熱が押し寄せた。魔物の胎内にまれたようだった。紅運はやみの中を手探りで進んだ。

 闇の先に光が覗いた。足を速めるほど、熱は濃くなり息が詰まる。薄暗がりの中、赤光がこうこうと照らすものが見え、紅運は息を呑んだ。

 獣でも妖魔でもない。炎のような赤い髪をした男だった。うねる髪の奥に擦り切れた行者の服と、うなれた顔がある。胸には深々と銅剣が突き刺さり、地に縫い止めていた。

「これが赤の大魔か……?」

 つぶやきに呼応するように男が顔を上げた。

「お前、皇子か……?」

 かすれた声だった。赤毛から険しい面差しが覗き、ぶたが開く。

「それとも、皇帝か?」

 炎のしんのような金のひとみらんらんと光った。紅運は口をつぐみ、静かに息を整えた。額から滴る汗をぬぐい、男を貫く銅剣の柄に手をかける。

「いずれそうなる」

 紅運は銅剣を引き抜いた。れんの炎が噴き出し、獣の咆哮が北の空を揺らした。

 全身をほとばしる血が炎に置き換わったように熱い。赤一色に染まる紅運の目に、伏魔殿の中からは見えないはずの夜空が映った。伏魔殿を貫いて噴出した業火に乗り移ったように、宮殿を高みから見下ろせる。目下の廷内はくさびがたに燃えていた。その切っ先に追い詰められたように石段を上る黒の軍勢と、同じ色の名を持った男の姿がある。

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