一章 龍久国継承戦 一 ③

 夕刻、自室に戻った紅運に年老いたきん微笑ほほえみかけた。

「お疲れでしょう。お茶の準備をいたしました」

 紅運は平静を装ってうなずいた。青磁の茶器にはすの葉茶が注がれる。温かい茶器を受け取ったとき、頭の中で声が反響した。

 ――皇帝になりたくないのか。

 考えないようにしていた。それは文官の道を選んだ黒勝も同じではなかったか。自分と違い、政治の才に恵まれた兄のくすぶる野心に眩暈めまいがした。

 琴児は何も聞かなかった。彼女のいたころの後宮では、貴妃の機嫌を損ねて血管に針を入れられた女官のうわさも聞く。頭髪に白が交じるまで琴児が生き抜けたのは深慮と無口の恩恵故だろう。

「本日はもうお休みの準備をいたしましょうか」

「疲れてないさ。何もしてないんだ」

「絵をお描きになっていたのでは?」

「無駄だったな。死人に絵を贈っても仕方ない」

 紅運はちよう気味に笑って絵筆と巻紙を机に置いた。琴児は墨で汚れた紙を広げて目を細めた。

「馬ですか、お上手ですね」

「わかってくれるのは琴児だけだ」

 苦笑を返して再び表情を曇らせた紅運の背に、琴児が手を置いた。

「胸中はお察しします」

「辛くなんてない。一度も俺に見向きもしなかった父親だ。逆に、俺が死んでも父上は悲しまなかっただろう」

「そんなことはありませんよ。陛下は紅運様の御母堂をどの妃よりも深く愛されていました。あの方にうりふたつの貴方も」

「ただの下女からぼうだけで皇妃になった母を、か」

「陛下は美姫など見慣れています。紅運様を産まれてすぐはかなくなるまでちようあいを受けた由縁はそれだけではありませんよ」

「それで、俺は陛下から最愛の妻を奪ったかたきになった訳だ」

 紅運は描き途中の馬を見下ろした。紅運が以前ただ一度絵を贈ったとき、皇帝が目元を緩ませたような気がした。かすかに嘆息した記憶の中の父の背の先には、紅運の母を描いた水墨画が飾られていた。

 記憶を振り払うように紅運は窓外に視線を移した。池が王宮を映している。水中の都に手を伸ばしても触れられないように、目には見えても決して届かない玉座に届くと信じている者もいる。

「いっそ皇子じゃなければ」

 呟きかけて紅運は首を振った。

「いや、市井で生まれていたらとっくに橋の下にでも捨てられていたな。俺には何もないんだ。俺は白雄や橙志のような武の才も、黒勝のような文の才もない。黄禁のような妖術どころか、青燕のような善心すら持ってないんだ」

「違います」

 紅運は顔を上げた。琴児が衣のそでしわの寄った手で握りしめていた。

「紅運様はお忘れかもしれませんが、幼い頃私の足をご覧になったことがおありでしょう」

 老いた乳母の爪先は長いすそに覆われて見えない。

「私の生まれた頃にはまだ子女にてんそくをしていました。とうに廃れた習わしですが、私の足指は今も折れ曲がって五寸もありません」

「……それがどうした」

「それをご覧になった紅運様は、いつか自分が――」

 琴児の声を遮っての音が響いた。典雅さはまるでなく、けたたましく打ち鳴らされる鋼は有事の報せだった。紅運は椅子をたおして窓枠にすがりついた。

「玉麟殿、炎上! 繰り返す! 玉麟殿、炎上! 既にあまの衛兵が殺された! 禁軍は疾く後宮に残る者を救い、下手人を――」

 言葉は不穏に途切れた。


 ***


「まだ見つからないのか!」

 兵士と同じよろいかぶとは被らず、抜き身の剣を携えた橙志が叫ぶ。水の中の王宮が燃えていた。庭園の池に浮かぶ蓮はしおれて沈み、けんそうが水面に波紋を広げる。駆けつけた兵士たちのくさり帷子かたびらも炎を映して輝いていた。

「恐れながら、犯人は……」

 すすまみれた兵士がせ返りながら答えた。

「死人です」

「何?」

「棺の警備の最中、兵士が急に胸をき毟って事切れました。そして、死んだ兵士が起き上がり、駆け寄った者ののどもとかじりつき、しよくだいの火を放ったのです。同じことがそこら中で……」

「宮中にようが出るものか! 結界はどうなっている!」

「何者かに破られていました」

 とうけんの皺を深くする。

「二百年も破られなかった結界だぞ。死霊を使う道士ごときに……」

「道士ではない、黒の大魔・がいさいだ」

 割って入ったのは黄禁だった。黒子の多い顔から虚ろな笑みは消えていた。

「黒勝が従える大魔の名が出る。あれに死者をよみがえらせる力などない。睚眦の権能は悪心を見透かすことだ。刑部が廷内に出入りする者の可否を問うため……」

「常は力を抑えていたのだろう。本来の権能は悪心を見透かすだけでなく、それをあおり殺人に走らせることだ。生者に権能を使えばただ死ぬのみ。しかし、死人に使えば身が砕けるまであらぶる餓鬼となるらしい。『睚眦の恨み』と言うだろう」

 ひと睨みされた程度のえんこんを指す言葉の元は、古代の龍久国で睚眦を従える皇子が国内に目を光らせ、はんを抱く者をその権能でもんさせたことに拠る。橙志は脳裏をよぎった故事を振り払う。

「……黒勝が殺され、睚眦を奪われたということは?」

「皇子にしか使えぬのはご存知のはず」

 黄禁の言葉に橙志はちんうつに目を閉じた。風に火花が散り、熱に耐えかねた宮殿の悲鳴が響く。橙志は開けた目を兵士に向けた。

「一衛は白雄殿下を呼べ。二衛は避難誘導とすいしゆんと紅運の安否の確認を。三衛はせいえんが来るまで消火に当たれ」

「既に火の手が激しく倒壊の恐れ有り。優先順位は如何しますか」

「今から俺が聞く。来い、ろう

 橙志の影が光を帯び、釣り鐘のように膨らむ。洗朱のうろこの龍が地に降り立った。

「橙の大魔は音響を好む。啼け!」

 雷鳴がとどろいた。空気そのものがえたようなほうこうは城郭にたたきつけられ、無数に反響する。鳴動がくまなくとらえた城内の凹凸すべてを橙志の肌に伝える。彼は深く息を吸った。

「東の被害が甚大だ! 玉麟殿と天鵰殿は間も無く倒壊する! 女官は皇妃殿下を連れ、火の手の弱い南へ逃げろ。男は消火に当たれ。 兵は妖魔の討伐を続け、首謀者を捜査せよ!」

 銅鑼よりも鮮明に響いた声に兵士が素早く展開する。

「殿下、あちらが!」

 兵のひとりが火を噴き上げる宮殿を指さす。

 官吏が肩を貸し合って逃げる頭上で、屋根が火の粉を散らし、骨組みが崩れ落ちた。逃げる間もなく傾いだはりは落下する。炎が官吏を捕える寸前、水晶に似た球体が空中で弾けた。大量の水が滴り、梁が水蒸気を上げて砕け散った。

「遅くなってごめん、はない?」

「青燕殿下……」

 煙の充満する通りを駆け抜け、青い衣を煤で汚した皇子が合流した。背後には四肢を持った巨大な魚が侍っていた。橙志は亡者たちと切り結んだ血れの刃を素手で払った。

「弟たちは?」

「翠春は御母堂と逃げたよ。紅運には会えていない。早く助けに行かないと」

 青燕は目を伏せた。

「黒勝がこんなことするはずがない……そう思い込んでたのが駄目だったんだ。ちゃんと話す機会はいくらでもあったのに」

 橙志が青燕の背を強く叩いた。

「過ぎたことを考えるな。今救える命があるだろう」

 血豆がつぶれた手の硬さと重みに青燕は顔を上げた。

「鎮火できない建物は崩して止める。下手人の誘導も兼ねたいが……」

「私が導線を引きましょう」

 純白の喪服に黒鉄の蛇矛を携えた白雄が現れた。

「いつからそこに?」

「たった今です。ですが、橙志の考えなら兵法の最適解を選べば自ずとわかる。天鵰殿を崩して延焼を食い止め、れきで東への経路をふさぐ。南は兵士の守りがある故、無人で被害を最小限に抑えられる北の龍墓楼へ誘導できる。違いますか?」

 橙志は頷く。

流石さすがです」

 ゆらぐかげろうから亡者の影がにじした。白雄は蛇矛を振るい、頭上に茂る木を払う。枝葉がこうの如く地に刺さり、鋼の硬度のさくとなった。

「また生けるしかばねとは。その上、先のものより数も強度も厄介ですね」

 いぶかし気にまゆを寄せた橙志に、白雄は微笑ほほえんで首を振った。

「黄禁、頼めますか」

「ああ。れいびようこもり、呪殺を打つ」

「青燕は引き続き消火を」

「わかった」

「橙志、足止めを頼みます」

「お任せください」

「宮廷は外敵の侵入を許さぬ精強さ故に、内敵との戦の経験は乏しい。皆、留意してください」

 弟たちを見送った白雄は天鵰殿に向かった。催事の度花で彩られた宮殿を今飾るのは赤一色だ。

「白の大魔は重責を好む」

 蛇矛が白銀の輝きを帯びる。重力をつかさどる妖魔の権能を宿した刃が直線を描く。ひと突きで天鵰殿は砂のように崩れ落ちた。


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