一章 龍久国継承戦 一 ③
夕刻、自室に戻った紅運に年老いた
「お疲れでしょう。お茶の準備をいたしました」
紅運は平静を装って
――皇帝になりたくないのか。
考えないようにしていた。それは文官の道を選んだ黒勝も同じではなかったか。自分と違い、政治の才に恵まれた兄の
琴児は何も聞かなかった。彼女のいた
「本日はもうお休みの準備をいたしましょうか」
「疲れてないさ。何もしてないんだ」
「絵をお描きになっていたのでは?」
「無駄だったな。死人に絵を贈っても仕方ない」
紅運は
「馬ですか、お上手ですね」
「わかってくれるのは琴児だけだ」
苦笑を返して再び表情を曇らせた紅運の背に、琴児が手を置いた。
「胸中はお察しします」
「辛くなんてない。一度も俺に見向きもしなかった父親だ。逆に、俺が死んでも父上は悲しまなかっただろう」
「そんなことはありませんよ。陛下は紅運様の御母堂をどの妃よりも深く愛されていました。あの方に
「ただの下女から
「陛下は美姫など見慣れています。紅運様を産まれてすぐ
「それで、俺は陛下から最愛の妻を奪った
紅運は描き途中の馬を見下ろした。紅運が以前ただ一度絵を贈ったとき、皇帝が目元を緩ませたような気がした。
記憶を振り払うように紅運は窓外に視線を移した。池が王宮を映している。水中の都に手を伸ばしても触れられないように、目には見えても決して届かない玉座に届くと信じている者もいる。
「いっそ皇子じゃなければ」
呟きかけて紅運は首を振った。
「いや、市井で生まれていたらとっくに橋の下にでも捨てられていたな。俺には何もないんだ。俺は白雄や橙志のような武の才も、黒勝のような文の才もない。黄禁のような妖術どころか、青燕のような善心すら持ってないんだ」
「違います」
紅運は顔を上げた。琴児が衣の
「紅運様はお忘れかもしれませんが、幼い頃私の足をご覧になったことがおありでしょう」
老いた乳母の爪先は長い
「私の生まれた頃にはまだ子女に
「……それがどうした」
「それをご覧になった紅運様は、いつか自分が――」
琴児の声を遮って
「玉麟殿、炎上! 繰り返す! 玉麟殿、炎上! 既に
言葉は不穏に途切れた。
***
「まだ見つからないのか!」
兵士と同じ
「恐れながら、犯人は……」
「死人です」
「何?」
「棺の警備の最中、兵士が急に胸を
「宮中に
「何者かに破られていました」
「二百年も破られなかった結界だぞ。死霊を使う道士
「道士ではない、黒の大魔・
割って入ったのは黄禁だった。黒子の多い顔から虚ろな笑みは消えていた。
「黒勝が従える大魔の名が
「常は力を抑えていたのだろう。本来の権能は悪心を見透かすだけでなく、それを
ひと睨みされた程度の
「……黒勝が殺され、睚眦を奪われたということは?」
「皇子にしか使えぬのはご存知のはず」
黄禁の言葉に橙志は
「一衛は白雄殿下を呼べ。二衛は避難誘導と
「既に火の手が激しく倒壊の恐れ有り。優先順位は如何しますか」
「今から俺が聞く。来い、
橙志の影が光を帯び、釣り鐘のように膨らむ。洗朱の
「橙の大魔は音響を好む。啼け!」
雷鳴が
「東の被害が甚大だ! 玉麟殿と天鵰殿は間も無く倒壊する! 女官は皇妃殿下を連れ、火の手の弱い南へ逃げろ。男は消火に当たれ。 兵は妖魔の討伐を続け、首謀者を捜査せよ!」
銅鑼よりも鮮明に響いた声に兵士が素早く展開する。
「殿下、あちらが!」
兵のひとりが火を噴き上げる宮殿を指さす。
官吏が肩を貸し合って逃げる頭上で、屋根が火の粉を散らし、骨組みが崩れ落ちた。逃げる間もなく傾いだ
「遅くなってごめん、
「青燕殿下……」
煙の充満する通りを駆け抜け、青い衣を煤で汚した皇子が合流した。背後には四肢を持った巨大な魚が侍っていた。橙志は亡者たちと切り結んだ血
「弟たちは?」
「翠春は御母堂と逃げたよ。紅運には会えていない。早く助けに行かないと」
青燕は目を伏せた。
「黒勝がこんなことするはずがない……そう思い込んでたのが駄目だったんだ。ちゃんと話す機会はいくらでもあったのに」
橙志が青燕の背を強く叩いた。
「過ぎたことを考えるな。今救える命があるだろう」
血豆が
「鎮火できない建物は崩して止める。下手人の誘導も兼ねたいが……」
「私が導線を引きましょう」
純白の喪服に黒鉄の蛇矛を携えた白雄が現れた。
「いつからそこに?」
「たった今です。ですが、橙志の考えなら兵法の最適解を選べば自ずとわかる。天鵰殿を崩して延焼を食い止め、
橙志は頷く。
「
ゆらぐ
「また生ける
「黄禁、頼めますか」
「ああ。
「青燕は引き続き消火を」
「わかった」
「橙志、足止めを頼みます」
「お任せください」
「宮廷は外敵の侵入を許さぬ精強さ故に、内敵との戦の経験は乏しい。皆、留意してください」
弟たちを見送った白雄は天鵰殿に向かった。催事の度花で彩られた宮殿を今飾るのは赤一色だ。
「白の大魔は重責を好む」
蛇矛が白銀の輝きを帯びる。重力を
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