一章 龍久国継承戦 一 ②

「第三皇子、橙志様のお成り!」

 鎖帷子を纏ったままの橙志は衛兵に剣を預け、紅運には一瞥もくれず奥へ進んだ。

「第五皇子、黄禁様のお成り!」

 黄禁は先ほど拾い直した鳥のがいを衛兵に渡し、青ざめる兵に構わず門を潜った。

「第六皇子、青燕様、第九皇子、紅運様のお成り!」

 ふたりは同時に殿に踏み入った。長い歳月で黒く変色した調度は室内によどむ空気を更に重くしていた。中央にはびように描かれた神獣たちに見下ろされる金色の棺がある。棺の傍に侍っていたのは第七皇子のこくしようだ。法をつかさどる刑部の官吏として父を支えていた彼は髪をまとめ、いかにも文官然とした佇まいだった。

「まだ到着していないのは誰だ」

 橙志の問いに、黒勝は哀別の視線を棺に投げてから答えた。

すいしゆんほうを聞いてまた寝込んだらしい。ゆう兄上は国外だ。戻りは早くても後半月はかかる。らんえい殿はいつもの外遊さ」

「第二皇子の自覚があるのか」

 橙志がけんしわを寄せたとき、衛兵の声が再び響いた。

「第一皇子、はくゆう様のお成り!」

 雑然とした空気をひとつの靴音が一瞬で鎮めた。皇子たちが視線を向ける。黄金の床が白い喪服の影を映した。

「お待たせしました」

「白雄兄上、もう喪服を用意していたとは」

「第一子の名につけられる白の字は、前帝亡き後の国を背負う服喪の意味が込められています。常に備えていますよ」

 白雄は微笑ほほえんだ。つい先日、自分が肩を並べて都を訪れたのが信じ難い超然とした振る舞いに紅運は視線を泳がせる。それに気づいたのか、彼はもう一度微笑を浮かべた。白雄は棺の前に立ち、兄弟を見渡した。

「永きに渡り龍久国を治めた我らが父は、本日その政をめいに知らしめ、天上からより良く民草を導くための旅路に向かわれました。哀惜の念は言うべきにあらず。しかし、民は我らより惑い憂いています。父上に代わって彼らを慰めなければなりません」

 じんの揺れもない、詩をそらんじるような声だった。既に皇帝を仰ぐように白雄を見上げる兄弟たちを目にし、紅運は暗い息を吐いた。

「龍久国の元は龍九、即ち九に分かたれた龍の遺体から生まれた国とされます。我らが祖先・金王に討たれた原初の妖魔・始龍の身を大地とし、血潮は地下に奔る龍脈となった。王の血を引く皇族のみが龍脈の恩恵を受け、ようじゆつを使える所以ゆえんです」

 白雄の背後に屏風の中の創世の神話が広がる。

「龍の腹からは九柱の大魔が落とされ、金王の九人の息子は其々を使役し、国を守ったのです。大魔の一柱が封印された今でも、必ず九人の男児を儲ける習わしはここから来ています。この場にいない者も含め、今日も九人の皇子が居る。てんかいびやくの起こりから受け継がれたごとく、私たちもまた九つの力を合わせて龍久国を守っていかなければなりません」

 鋼を打ったような澄んだ声が響き渡った。紅運は胸中でひそかにつぶやく。

 ――合わせるべき力は、八しかないだろう。

 しやきんで顔を覆った神官が現れ、盆に積まれた巻物を運んでくる。

「父上の遺言か……」

 独り言のように呟いた紅運の耳元で、小さな声が聞こえた。

「読まなくてもわかるだろうさ。白雄兄上が玉座を継ぐ、だろう?」

 驚いて振り向くと、いつの間にか隣に並んでいた黒勝が目を細めた。紅運は答えず顔を背けた。他の兄弟も声を抑えて口々にささやき出す。

「父上のことだ。万事つつがなく整えてあるだろう」

「うん、倒れてからも何度も文机に向かっていたのを見たよ」

「私語を慎め。聞けばわかることだ」

 白雄はわずかに緩んだ空気にせきばらいし、神官から受け取った巻物のひもを解いた。紙面が広げられ、墨の香りが漂った。

「城は墓楼に立って在り。鮮血を用いて旗を染め、剣を用いて九頭を束ねる。龍は死に水甚だ透き通る……伏魔伏国」

 詩才にもけた前帝の作とは思えない、音韻が守られているだけのいびつな詩だった。青燕が戸惑いながら口を開く。

「これは、どういう意味なの」

 兄弟がげんな視線を交わす中で、白雄、橙志、黄禁だけが微かに青ざめた。父と同じく詩学に通じた皇子たちだった。橙志の低い声が響く。

「都は墓上に立っている。血をもって旗を染め、剣をもって九つの頭を束ねる。龍が死ぬとき最も水は澄む。魔を統べる者が国を統べる……」

 兄弟の視線は白雄に注がれた。

「伏魔の字は不吉故に忌避され、遺言に使うものでは到底ありません。何故なら、伏魔殿は赤の大魔が封じられているだけでなく、大昔在位した暴君が囚人たちを殺し合わせる残酷な遊戯の場だったからです」

「遺言をこのまま解釈するならば……九人の皇子で殺し合い、それぞれが従える大魔を調伏した者が次の皇帝になるべしと……」

 黄禁は青白い顔色を更に白くし、呟いた。水を打ったような沈黙が黄金の宮に満ちた。

「……呆れた遺言だ。父上は乱心か?」

 橙志がうなる。神官は頭巾の中でうつむいた。

「それは、本当に父上の遺言なの?」

 せいえんの震える声に黒勝が首を振った。

「天子が即位の際賜る金印が押されている。間違いない」

 紅運は目を伏せる。

 ――馬鹿らしい。死に怯えて錯乱したか。その妄言ですら俺は勘定に入っていなかった。

 九の大魔のひとつは既に地中深く封じられている。代々の皇帝が眠る楼の背にひっそりと建てられた伏魔殿。天子すらも近づくことが禁止された石のびように。二百年前、即位したはくおうていの末弟は赤の大魔を使い、国を火の海に変えた。女子どもも境なく殺した炎は、宮殿の六割を全壊させた。内廷のほとんどがまだ新しいしつくいの輝きを見せるのは、その頃建て直されたためだ。紅運は透かし彫りの窓から、己に与えられなかった大魔が封じられる北側の空をにらんだ。

「しかし、どうする? 皇帝の遺言は絶対。背いた者は首をね、城郭にさらすのがおきてだ」

 黄禁が虚ろな目で問う。再びの沈黙の中、白雄は顔を上げた。

「その通りです。しかし、この遺言には刻限が記されていない」

 皇太子は民に向ける慈悲の微笑みを兄弟に向ける。

「血で旗を染め、九つの頭を束ねるのであれば、兄弟と共に他国との戦に勝ち国をひとつにしろともとれます。信用に足る賢者に助言を求め、穏当な解釈が見つかるまで、服喪の間中は遺言を秘匿しましょう」

 わずかながら玉麟殿に張り詰めた緊張がたるむ。

「私は兄弟を信じています。恐怖にかられ、軽慮浅謀に走る者などいない。明日会談の場を設けるまではただ父を悼む、よろしいですね?」

 黄金の宮に穏やかな声が反響した。

 皇子たちが去り、最後に宮を出た紅運を呼び止める声があった。振り返ると黒勝が立っていた。

「散歩でもしないか。哀別の念はひとりで抱えるに耐えないだろう」

 紅運は霧で烟る池のふちを進んでいく黒勝の少し後ろを歩いた。

「俺はいいが、そっちは忙しいんじゃないか」

「忙しいさ。父上が倒れてから、国民の戸籍のへんさんと、諸侯の土地にかける税の計算は殆ど俺だけでやっていたからな。広大な国土と民を治めるのは楽じゃない。権力の大きさの裏返しでもあるが」

「そんな大仕事を任せられるなんて、信用されてたんだな」

 何気なく見上げた黒勝の張りつめた横顔に紅運は戸惑った。あてもなく進んでいるように見えた黒勝は、無人の楼閣の前で足を止めた。紅運は彼の肩越しに視線を向ける。深紅の門がそびえる皇帝の墓所だった。

「父上の遺言、どう思った?」

 黒勝は勢いよく振り返った。

「どうもこうも、まともじゃないと思った」

「本当に?」

 黒勝のひとみらんらんと輝いていた。

「俺たち継承権下位の皇子が皇帝になれる機会だぞ。これは天啓だ」

 紅運は詰め寄る兄の目に映る自分の顔がるのを見た。

「あんたまでいかれたか」

 後退った紅運の手を黒勝がつかんだ。文官として筆だけを握っていた手とは思えない力だった。

「俺と組まないか」

「大魔もいない俺に何ができると……」

「いるじゃないか、ここに!」

 黒勝は上ずった笑い声をあげた。

だれも解けない封印なら態々立入を禁ずる必要はない。今でも赤の大魔は出せるということだ。考えたことはないか?」

 紅運は身をすくめる。大魔を欲したことはあっても、赤の大魔を解こうと思ったことは一度もなかった。幼少期から刷り込まれた恐れは変わらず、伏魔殿に近づくことも無意識に避けていた。

「ない。第一、俺に使いこなせる訳ないだろ」

「大魔は皇子に従うものだ。あれがいれば、兄弟と同格どころか国すらも思うがままだぞ」

「本当に殺し合う気か!」

 黒勝は熱に浮かされたように頷いた。

「……大魔を使えるようになったら、俺も敵だろう。最後は殺す気か」

 不意を打たれた黒勝が口をつぐむ。その隙に紅運は手を振り払った。

「お前は同志だ。父の死を悲しまないどころか喜んだだろう!」

「今の話は誰にもしない。その代わり、俺は何もしない」

 胸のざわつきから逃げるように、紅運は背を向けて歩き出した。

「皇帝になりたくないのか!」

 上ずった声が降りかかる。紅運は楼の影から逃げるように駆け出した。

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