一章 龍久国継承戦 一 ①

 朝の宮殿にの音が響いた。

 こううんは耳をふさぐ。鼓膜を揺らす大音響は庭先から聞こえた。皇帝を守護する禁軍の稽古だ。筆頭で指揮を執るのは、第三皇子・とうだった。軍で剣術師範も務める、最も武闘派の皇子が使役するのは音をつかさどる大魔だ。その権能を使った音響による指揮は宮廷に響き渡り、紅運をさいなんだ。

 音がみ、紅運は廊下に出た。冬の空気で冷えた木板がきしむ。庭先に軍人たちの影がないのを確かめたとき、背後で低い声がした。

「紅運」

 振り返ると、くさり帷子かたびらまとった橙志が立っていた。兄弟の中でも抜きん出た体躯に反して、全く足音が響かず、紅運は肝を冷やす。賊徒討伐の南方遠征から戻ったばかりの彼の肌は、薄い日焼けが残っている。太いまゆと鋭いせいかんさ以上に威圧感を覚えさせた。

「件の夜盗狩りにはお前も参加したと聞いたが、本当か」

 紅運は曖昧にうなずく。

「国のために戦う覚悟があるなら見合う力をつけろ。ないなら半端に手を出すな」

 橙志は冷たい視線を向けた。

「今度こそ途中で投げ出さないなら、また稽古をつけてもいいが」

「今回は白雄に言われてついていっただけだ。もうやらない。末端らしく出しゃばらずに大人しくしていればいいんだろう」

 橙志は失望すら見せず、踵を返して立ち去った。紅運は俯き、廊下に伸びる影を見る。幼いころは剣の稽古を受けた師でもある兄の影が遠ざかっていった。

 紅運は逃げるように庭へと踏み出した。手には絵筆を入れた筒と巻紙を携えていた。父の見舞いに絵を贈ってはどうかと、先日帰りの牛車で白雄が提案したためだった。討伐の結果を真っ先に伝えたかったが、皇帝の病状が芳しくなくかなわなかった。褒め言葉など期待もしていないが、自分を見る冷え切った目を見開かせる程度はできただろうに。

 紅運は溜息をつき、巻紙をひもいた。紙面に筆を走らせていると足元に一輪の椿がぽとりと落ちた。首を落とされたように転がる花から視線を上げると、近づいてくる影が見えた。

「ごめん、紅運! そっちに枝が飛んだ?」

 色素の薄い髪と少女のような細面の青年が、廊下の先から朗らかな声を上げる。

「やっぱり飛ばしちゃってたか。ぶつからなかった?」

せいえん

 彼は紅運にがないのを確かめて屈託なく笑った。

「何してたんだ」

「ああ、庭師を手伝ってたんだ。花が枯れたからって呼ばれてさ」

「庭師が皇子を使い走りに?」

「僕から言ったんだよ。何かあったときは呼んでって」

 青燕は向こうへ大きく手を振る。庭師たちが戸惑いがちに礼を返した。本来ならば皇子に軽々しく声をかければ首をねられる地位の者たちだ。青燕の大胆さと大らかさに、紅運はあきれつつ嘆息する。第六皇子である彼には特別優れた才はない。しかし、己と違って彼は常にひとに囲まれていた。近いようである意味最も遠い存在だと紅運は思う。

「紅運は何をしていたの?」

「絵を描いていたんだ。父上の見舞いにと、白雄に言われて……」

「父上は最近寝たきりで今年献上された美術品もまだ見られていないものね……僕も見てもいい?」

 青燕は紅運の肩越しにのぞき込む。

「きっと喜ぶよ。虎の絵なんて強そうで縁起がいいしね」

「これは……馬なんだ」

 気まずそうに口をつぐんだ青燕に苦笑し、紅運は紙を閉じた。

「いいんだ。絵は嫌いじゃないが、得意でもない」

 それに俺が何をしようと父が喜ぶはずがない。紅運は胸中で呟いて立ち上がった。件の道士との戦闘も伝えたところで反応はなかっただろうと、本当は予想がついていた。初めて妖魔討伐に赴いたとき、自分をかばった兄が傷を負い、大敗を喫したことを報告した夜、皇帝は叱責すらしなかった。ただ紅運をいちべつし、すぐ手元の書類に視線を戻した。以来、会話らしい会話もしたことがない。

 青燕の後について廊下を進むと、しなびた椿が垂れているのが見えた。

「ここもだ」

 彼は花を手に取る。硝子がらすのような水のしずくが弾け、枝を濡らした。当然のように大魔を使いこなす兄を紅運が横目に見ると、青燕が首をかしげた。

「おかしいな、庭中の花が熱に近づけたように枯れてるんだ。火気なんてないのに」

 紅運は小さく声を上げた。先日廃寺で見た、あるはずのない炎が燃え盛る光景が浮かぶ。

「赤の大魔は本当に封印されているんだよな」

「どうして?」

「この前、夜盗狩りに出たとき、消えていたしよくだいから炎が……」

 青燕は首を傾げた。

「封印が解かれていたら大騒ぎだからそれはないと思うけれど」

「そうだよな。忘れてくれ」

「紅運自身に何かすごい力が眠ってたんじゃないかな?」

 紅運は目を見張る。

「何を言い出すんだ。ある訳ないだろ」

「そんなことないよ。紅運は時々信じられないことをするじゃないか。狩りで皆と競争したとき、弓が折れたのに『まだ一匹も狩れてない』って暴れる鹿を素手で捕まえようとしたり……」

「大昔の話だろ。あの頃は何もわからない馬鹿だったんだ」

 そのとき、穏やかな冬の庭の空気を一変させる銅鑼の音が響いた。巨大な龍のぶきのような、厳かで重苦しい音階が宮中に鳴り渡る。聞いたことのない響きに紅運は息をんだ。

「まさか……」

「皇帝陛下、崩御! 皇帝陛下、崩御! はくこう帝がただいま身罷られた!」

 銅鑼の残響に重なった声に青燕は手で顔を覆った。

「父上……この前少し良くなったって言ってたのに……まだ何もしてあげられてないのに……」

 涙声を漏らす彼の横で、紅運は息を吐いた。涙は出なかった。父の死に一抹の悲しみも感じない自分に、頭のしんが冷えるようなかすかなおびえだけがあった。紅運は絵筆と紙を見下ろした。

「結局無駄になったな」

 青燕が手を下ろし、赤くなった目を向けた。紅運は繕うように首を振った。

「これ以上苦しまずに済んだと思えばいい。それより、俺たちに召集がかかるはずだ。行こう」

「君のが年上みたいだ。そうだね、こんなときこそしっかりしなきゃ」

 青燕は目を擦って笑みを作る。紅運は下を向いて一歩踏み出した。

 長患いとはいえ急な崩御に騒めく宮殿を、緩慢な歩みで進む者がいた。

おうきん兄さん!」

 青燕が駆け寄ると、彼は振り向いて虚ろな笑みを返す。黒子ほくろの散った青白い肌と、目の下のくまはどこか病的だ。呪術師を母に持つ異色の第五皇子は痩身を道服に包んでいた。

「早いね」

「ああ、銅鑼が鳴る前からわかっていたからな」

?」

 いぶかしむ紅運に近づき、黄禁は白い包みを握らせた。氷のような冷たさを手に感じながら紅運は布を解き、悲鳴を上げて投げ捨てた。

「何だこれは!」

 布の中で一羽の鳥が死んでいた。

「凶兆だぞ。鳥は生命の象徴でもあるからな」

 黄禁は事もなげに答える。唖然とする紅運の肩に、青燕が手を置いた。

「悪気はないんだよ。兄さんはちょっとああいうところがあるから」

「余計に質が悪い」

 小さく吐き捨てた紅運に構わず、黄禁は再び歩き出していた。彼の振る舞いは宮中でも流言飛語の対象だった。周囲の評価を気にも留めない姿がうらやましくも思え、紅運はためいきをついた。

「父上は俺たち九人に遺言を残しているらしい。目下の最優先事項は次期皇帝の決定だな」

「白雄に決まってるだろう。言うまでもない」

「まだわからないよ。ほら、らんえい兄さんのことがあるし……」

 青燕が声を潜める。

「何にせよ九男にはうまおけ洗いの仕事も回ってこないさ」

 紅運はそう言って口を噤んだ。

 皇帝の遺体を安置する玉麟殿はすべてが黄金で造られていた。入り口を守る禁軍の兵士の衣にも金糸で龍が縫われている。紅運たちが扉の前に着くと、先に橙志が到着していた。

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