プロローグ ③

 ***


 気を失った夜盗らが倒れる中、白雄は傷ひとつ負わず立っている。彼は膝をつく道士に蛇矛を突きつけていた。

「終わりです。楊廉殿、投降を」

「終わるものか……廃寺に向かったのは貴方の弟か、殿下?」

 白雄の眉がわずかに跳ね上がったのを見て楊廉はそんに笑う。

「それは重畳。全てに恵まれた貴方も失うことを知るがいい。ことに血を分けた者ならばなおさら……」

 刃を振るうまでもなく、楊廉は倒れ伏した。彼の鼻と口からどす黒い血が流れて地を汚す。

「紅運……」

 白雄は廃寺をにらみ、澄んだ声を張り上げた。

「廃寺へ向かいます。動けるものは皆私について――」

 兵に告げる白雄のすそを何者かがつかんだ。気絶していたはずの夜盗が次々と闇の中でうごめき出した。


 ***


「何があったのですか」

 壁穴をのぞく紅運の肩にのしかかりながら、桃華が焦れたように聞く。

「桃華、近い……声までは聞こえないが、妙なんだ。白雄が賊を討伐したように見えたが、倒れていた奴らがまた動き出して……」

「早く合流すべきですね」

 桃華が身を引いたとき、腐臭が鼻をいた。

 臭いは堂の奥から染み出していた。ろうが溶けたしよくだいの炎が、最奥の巨大な何かを照らしている。仏像ではない。溶けかけた鉄を幾重にも重ねて人型を作ったようないびつな巨像だった。

「あれは何だ?」

「私も奥に行ったことはないのでわかりません。ですが、賊が時折攫ってきた方々を連れて行くのを見ました」

「人質がいるのか?」

「それはないと思います。連れてこられるのは皆病人や怪我人で、いつ死んでもおかしくないものから本物の死者まで……」

 ごうおんが響き、震動が廃寺を揺らした。震える足に力を込め、紅運は音に負けじと声を出す。

「何が起きてるんだ!」

 傍らの桃華が青ざめる。堂の奥から動くはずのない巨像の影が徐々に迫っていた。太い足が腐れた床板を踏み抜く。紅運たちの三倍はあるたいが、闇と同色の頭髪を天井から垂らして見下ろしていた。溶けた鉄に見えた皮膚は、はんの浮いた青黒い皮膚をつなぎ合わせたものだとわかった。無惨に縫い合わされた傷口から血とうみを滴らせた異形がそこにいた。

「禁術、死者をよみがえらせたのか!」

 巨人がこぶしを持ち上げ、振り下ろした。間一髪で避けたふたりの頭上の壁が黒煙を巻き上げて陥没した。

「桃華!」

 彼女は依然そうはくな顔で唇を震わせていた。

「あれは死者、なのですか?」

「ああ、夜盗の正体は道士だ。人間を蘇生する禁忌に手を出したらしい」

「紅運、私は化け物と何度も戦いましたが、ひとを殺したことは……」

 大きな瞳にはおびえが宿っていた。彼女が妹のようについてきたころの幼い面影が過り、紅運は壁から腕を引き抜こうとする魔物を睨んだ。

「大丈夫だ。あいつは俺が何とかする。白雄が来るまで持ちこたえるくらいできるさ」

 紅運は冷や汗をぬぐい、懐から懐剣を取り出す。刃はあまりに小さく心許ない。桃華は紅運を見上げ、不遜な笑みを取り戻した。

「本当に頼りない兄弟子ですね」

 彼女は肩に背負った双剣の片方を押し付けた。

「可愛げのない妹分だな」

 紅運はひったくるように受け取った。魔物は腐敗した下肢を引きずりながら両者に迫っていた。

「紅運、私が右です」

「わかった」

 短いやり取りでふたりは武器を構える。幼い頃のけいを思い浮かべ、紅運は左から斬り込んだ。分厚い腐肉は刃がかすめた箇所が僅かに破れただけで微動だにしない。間髪を容れず放たれた魔物の拳撃を何とか刃の背で受け、反動で紅運はたたらを踏んだ。身を反転させ、体勢を崩した魔物の背に刃をたたむ。鈍い振動と骨を斬った感触が腕に響いた。

「上を失礼」

 桃華が紅運の丸めた背に手をついて跳躍する。魔物の拳を足場に、彼女はすくげるような斬撃を放った。遠心力を乗せた刃は魔物の腹を深くえぐり、鈍色の臓物が弾けた。たじろぐ間を与えず、ひざももひじと素早く関節を切りつける。亡者がとどろくようなほうこうを上げた。

「桃華、気をつけろ!」

 魔物が桃華を振り払い、子どものように両腕を回した。燭台がたおされ、火をこぼした床が燃え盛った。

「このまま戦っても焼け死ぬだけだ。まずは脱出するぞ」

 桃華はあいまいに頷き、紅運に腕を取られて走り出した。

 遠い扉の先から差す月光が強くなる。腐肉の焦げるにおいと煙も近づいていた。

「あともう少しだ!」

 速度を上げたとき、辺りが暗くかげった。膨れた五本の指が広がり、紅運の真上に降った。

「紅運!」

 頭上ではなく真横からの衝撃に紅運の身体からだが吹き飛ばされた。彼の脚を払って逃がした桃華の背後に影が広がる。ただれた巨大な腕が彼女を壁に叩きつけた。

「桃華!」

 紅運が粉砕された壁のれきと白煙の中に倒れる桃華に駆け寄り、肩を揺らすと、額からおびただしい血が流れ出した。炎がふたりの足元にいよる。

「起きてくれ、桃華!」

 薄く開いた桃華の唇から言葉の代わりに血がこぼれた。辺りの音と光景が急速に遠のいていく。熱が腐臭を巻き上げ、紅運がえずいて胃液を吐いた。亡者は振りぬいた拳を壁に食い込ませ、抜き取ろうと身をよじってもがいていた。

「くそ、何が皇子だ……こんなときまで何もできずに……」

 兄の言葉が紅運の頭を過る。

「魔物は皇族を真っ先に襲う……」

 紅運は深く息を吸い、かげろうに揺らぐ魔物を見定めた。

「宮廷道士の座まで捨てて、化け物を作りたかったのか、業突張りが」

 紅運は床に視線をやる。落とした短剣は小さく、双剣にはひびが入っている。紅運は床に転げた長い燭台を拾い上げた。

 紅運は亡者に向かって駆け出した。足に炎が絡みつき、裾が焦げる。

「来い、俺は龍久国の第九皇子だ!」

 魔物が壁ごと抉り取って拳を引き抜く。ようの開いた口がえきと死臭を巻き散らした。紅運は腐臭が目を刺す距離まで接近し、勢いに任せて両手を突き出した。すさまじい重圧が紅運の両腕にかかり、あふれ出たうみが指をらす。燭台は魔物の心の臓を貫いていた。

「これで、もう一度死ぬか!?」

 亡者がもがくほど燭台が突き刺さる。押し寄せる血潮にうめきながら、紅運は手に力を込めた。

 ――まさか、大魔じゃなきゃ魔物は倒せないのか。

 熱と重みに耐える紅運の脚に炎が這い寄る。最後のきで両腕を振り上げた亡者が動きを止めた。赤いせんこうが視界を染めた。

 腐肉を貫通した燭台から、あるはずのない火が起こった。亡者の胸から背までを爆風と赤光が貫き、天井を炎がめる。火の粉がぼうの雨のように降り注ぎ、やみを染め上げた。ぼうぜんとする紅運の前で、巨大な死者が業火に包まれ、瞬く間に焼かれていく。

 紅運は思わず燭台から手を離した。炎の中で魔物が一瞬、穏やかな目をした。黒煙を残して火が消え、後には小さな骨が残されていた。どこかで獣のうなりが聞こえた。

「何だ今のは……」

 あつにとられる紅運の耳に聞き慣れた声が響いた。

「無事ですか!」

 蛇矛で戸を破った白雄と兵士が雪崩れ込む。

「俺は大丈夫だ、それより桃華を」

 紅運が駆け寄ると彼女が目を開き、小さくせきをした。紅運はあんためいきをつく。

「貴方も無事で何よりです。いえ、案ずるのは侮りでしたね」

 白雄は目を細めた。

「善く戦いました。それでこそ龍久国の皇子です」

 紅運は血に汚れた服を見下ろした。火がついたはずの衣は何処も焦げていない。魔物を焼いた炎は影もなかった。

 月は何も変わらず廃寺を照らしていた。

 寒気に身をすくめた紅運を呼ぶ声がした。桃華は兵士たちに支えられながらも自力で立っていた。

「歩いて大丈夫なのか?」

「ええ、傷自体は深くありませんから」

 桃華の額には血のにじんだ包帯が巻かれていた。紅運がうつむくと、彼女は低い声を出した。

「顔に傷があったら嫌なのですか」

「そんなことはない、心配しただけじゃないか……そんなことを聞くんだ?」

「なら、結構」

 桃華はきびすを返して歩き出した。

「何を怒っているんだ」

 紅運が手を伸ばしたとき、桃華は急に振り向いた。

「怒っていません。感謝してます。ですが、次はもっと強くなってください」

「次もこんなことがある予定なのか……」

 紅運はつぶやいて遠ざかる背を見送った。

 紅運が輿こしに身を滑り込ませると、白雄が隣に座った。

「楊廉は?」

「毒を飲んで自害しました。ひとまずこれで落着でしょう」

 紅運は肩を竦めた。

「我欲と権威のために反魂の術をやったやつが呆気ないな」

「我欲に違いありませんが、権威のためではないかもしれません」

 白雄は下ろしたを上げる。

「彼が道を外れたのは流行病で妻子を失ってからだそうです。富や権力の無為を知って宮廷を憎み、愛する者に再び会わんと願う。根幹は人間的なものだったのかもしれませんね」

 紅運は廃寺に目を向けた。亡者が最後に見せた穏やかな顔が浮かぶ。

 ――奴はただの禁術におぼれた道士だ。俺と同じ、ないものに焦がれ、無意味とわかって手を伸ばした者じゃない。そのはずだ。

 紅運は考えを振り払った。

 白雄は月のような微笑を浮かべた。

「善く戦いました、紅運。宮廷に手柄を持ち帰るとしましょう」

だれも信じないさ、俺がやったなんて」

 紅運は皮肉ではなく、自分自身に言い聞かせるように呟いた。

 牛車が動き出す。国を破ると恐れられた大魔が封じられた都は、失った火に代わって不夜の明かりをともしているだろう。紅運はぶたの裏に残る炎を追い出すように目を閉じ、輿に深く背を預けた。

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