プロローグ ②

「ここは一見の客は入れない格式ある楼なのだがな」

「貴方方が入れたならば格式には疑問がありますね」

 白雄は二歩下がり、紅運をかばいながら夜盗と相対する。

「来るな、この女が死ぬぞ」

 男のひとりが刀を女の首に押し当てる。白雄はまゆひそめ、武器を持たない手を宙にかざした。

「頭が高い。御前と心得なさい」

 人質を抱える男のきよが見えない何かに弾かれたように飛び、天井に衝突した。ごうおんが響き、妓楼全体が揺らいだ。

「彼女を!」

 白雄の声に弾かれ、紅運はって逃げ出した妓女に手を貸す。再びがん、と鈍い音がして天井に張り付けられていた男が落下した。短剣を構えた男が踏み出そうとしてひざをついた。突如上から巨岩を乗せられたように男の全身が震え、持ちこたえようといしばった歯が軋む。

「くそ、何だ!」

「白雄の大魔……」

 紅運は思わず呟いた。りゆうこくの皇子はひとり一柱、人智を超えた力を持つ強大な魔を従える。物の重みを操作し、武器や防具に変える奇跡こそが、白雄の従える大魔の権能だった。

 膝をついた男が辛うじて動いた手で短剣をとうてきする。白雄は窓のどんちようを引いて防ぐ。柔らかいはずの布が鋼のごとく火花を上げて刃を弾いた。緞帳の陰で身を反転させ、白雄は男に接近する。新たな短剣を抜こうとしていた男のみぞおちに白雄のこぶしたたまれた。

 こんとうするふたりの男を見下ろしながら、年嵩の男は冷静に笑った。

「驚いた。その大魔、第一皇子か」

 突如、妓楼の壁からどろりとした影がにじみ、無数の黒い腕に変化した。指を蠢かせ四方から襲い掛かる手に思わず紅運は目を瞑った。

「白の大魔は重責を好む。威光を示しなさい」

 凛とした白雄の声に衝撃の音が重なる。酒座の円卓が意思を持ったように立ち上がり、盾の如く攻撃を弾いた。紅運の開いた目に割れて乱れ飛ぶ酒瓶や皿の破片が映る。彼は腕に力を込め、気絶した妓女を庇った。

「ここでは地の利がないな」

 夜盗は薄く笑い、妓楼の窓から身を投げた。白雄は迷わずそれを追って跳躍する。

「白雄!」

 紅運が窓から身を乗り出すと、一陣の突風が駆け抜けた。後にはとうとうたるやみと、大路に佇む白雄だけが残っていた。

 紅運は階段を駆け下り、妓楼の外に出る。衛士たちが現れて白雄を取り囲んだ。

「ご無事ですか」

「勿論。ですが、取り逃がしました」

 遅れて追いついた紅運に衛士が控えめな視線を向ける。

「紅運様もご無事で何より」

 戦ってもいないのだから当たり前だ、とは答えられなかった。また何もできなかった。紅運は妓楼から響く妓女たちの泣き声に耳を塞ぎたくなるのを堪える。

 衛士がちんうつに首を振った。

「いつもこうなのです。取るに足らぬ物を盗み、さらうのも貧民のみ。我々が遅れを取るのをあざわらうのが目的のようで……」

「確かに、都のけんを揺るがすのがねらいのようですね」

 白雄は上着を脱いだ。

「夜盗の素性と根城は見当がつきました。牛車をひとつ願います。話はその中で」

 皇子たちを乗せた牛車は、大路に映る月を砕きながら郊外へ進んでいた。

「件の男には見覚えがあります」

 輿こしに揺られながら、白雄は傍の紅運に言った。

「彼はようれん。宮廷に仕えていた道士です」

「道士……だから、ようじゆつを使えたのか」

「貴方が生まれる前に彼は宮廷を辞しました。優秀でしたが、更なる秘術を求め、道を逸脱したと聞きます。死者をせいする反魂の禁術に手を出したとか」

「才能に恵まれた者ほど欲は底なしだな」

 出自以外のすべてに恵まれない俺は、宮廷を辞して行く場所すらないというのに。紅運は窓外に流れる闇を睨んだ。

「郊外の廃寺に住まい、秘術を研究する道士のうわさがありました。山陰に居を構える賊と結託し、力を得たのでしょう。乗り込んで叩きます」

「……俺は、ここで降ろしてくれ」

 紅運は唇を嚙んだ。

「見ていてわかっただろう。俺はあしまといになるだけだ。大魔もなしに道士となんて到底戦えない」

 沈黙に牛車が揺れる音だけが響く。白雄は変わらぬ微笑を浮かべた。

「九人の皇子は其々九柱の強大な大魔を従え、皇帝とともに国を守る。その習わしが廃れた由縁を知っていますね?」

「二百年前、第九皇子が謀反を起こしたからだろう。彼は討伐され、国を焼いた大魔は封印された。それ以降、九人の皇子を儲ける風習だけが残り、俺のような末子は使役する大魔を持たない無用の長物になった」

「私は無用だとは思いません」

「慰めなんて」

 声を荒げかけた紅運を白雄が静かに制する。

「封印された九番目の大魔は炎をつかさどる最も恐るべき魔物だったと聞きます。真の名を呼ぶのすら忌避され、国を平らげるりようげんの意を込めて『破国の炎魔』とも呼ばれたとか」

 の隙間から差す月光が白雄の横顔をなぞった。

「力におぼれる者に危険な大魔は預けられない。末子の皇子がそれを預かるのは、全ての兄たちから学び、最も善き道を選べるからだそうです」

「結局、その第九皇子が謀反に走ったじゃないか」

「過ちはだれでも犯します。彼もまた我々が学ぶべき古人ではないでしょうか」

 紅運は顔を上げた。白雄の名の通り白い面差しが穏やかに彼を見下ろしていた。

「大魔がなくとも、それを統べる素質は貴方にも眠っていると感じます。ないものを見るより新しく得られるものに目を向ければ自ずと道は拓けるでしょう」

 紅運は短剣を握りしめた。牛車は枯れ枝がてんがいのように垂れる山へ向けて進んでいた。

 輿を降りた紅運を冷たい夜風が包む。おぼろな月だけが廃寺を照らしていた。白雄は兵士から手渡された蛇矛を携えた。

「我らが国の領分に裏口から入るべき故は無し。正面から叩きます。紅運は隙を見て攫われた者たちの救助を」

 戦力に数えられないことにあんする己に胸中で毒づきながら、紅運はうなずいた。月影が揺らぐ。

「気づかれたようですね」

 白雄は蛇矛の刃を廃寺に向けた。妓楼で見た男が寺院から現れる。空気を破る鋭い音が響き、暗がりと同化した無数の腕が闇を掻いた。

 辺りの木々が傾ぎ、半球を作るように垂れ込める。白雄が大魔の力を込めた木がおりとなって腕たちを捕らえた。寺の門から次々と賊徒が現れ、各々の得物を構える。開戦の合図だった。

 激しく鋼の打ち合う音が響き、火花が散る。戦場に咲く赤光を頼りに、紅運は駆け出した。流れた矢が間近を掠め、こずえ穿うがつ。紅運は身を竦めながらうつそうとした茂みに飛び込んだ。

「誰かいるか!」

 答えはない。枝にほおを掻かれながら進むと、廃寺の奥から女のかすかな声が聞こえた。紅運は躊躇ためらってから傾きかけた木戸を押した。

「紅運?」

 暗がりで懐かしい声が答えた。

「桃華、無事だったのか!」

 長髪を結い、簡素な防具をまとった彼女は記憶よりも大人びていた。すらりと伸びた背と押し上がった胸当ては別人のようだったが、闇の中でもさんぜんと輝く大きなひとみは変わらなかった。感傷に浸る間もなく、彼女のまなじりが鋭くなった。

貴方が? 何をしに来たのですか?」

 鋭い語気に紅運はたじろいだ。

「何って……夜盗狩りだ。白雄と刑部と一緒に来たんだ。お前が密偵に行って帰らないからと……」

「密偵が情報も持たずに戻る訳がないでしょう。中々敵が尾を出さないので近くに潜んで機をうかがっていたんです。もう少しで準備が整ったというのに」

 桃華がきやしやな肩を竦めた。紅運はぜんとし、暗く息を吐いた。

「そうだよな。お前を心配した俺が馬鹿だった」

「私を心配、紅運が?」

 桃華は紅運をまじまじと見つめ、せきばらいをした。

「気持ちは受け取ります」

「気持ちだけか」

「情けない顔をしないで。私が年長者を敬わず、皇子を叱責する無礼者のようでしょう」

「実際そうだろう」

 桃華が反論しかけたとき、戸の向こうから怒声が響いた。ふたりはとっさに陰に身を潜める。男たちの騒がしい足音が去っていった。

「まだ見張りがいたのか」

「堂を抜けたところに裏口があります。そちらから出ましょう」

 紅運は迷わずやみの深い方へ進む桃華の背を見て、かぶりを振った。

「本当に武人らしくなったな。お前の父上そっくりだ」

「冗談を言わないで。あんなひげだらけの鬼武者とは違います」

「そのうち髭も生えるんじゃないか。嫁のもらい手がなくなるぞ」

「紅運はうるさいしんせき衆そっくりです。それに貰い手ならいるでしょう」

「そんな物好きがいるなんて知らなかった」

「忘れたのですか?」

 桃華は大声を出してから慌てて口を押さえる。

「何でむきになるんだ。見張りに気づかれるぞ」

 紅運は肩を竦め、壁の穴から外の様子をうかがう。月光が照らした光景に紅運は息を呑んだ。


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