はぐれ皇子と破国の炎魔 ~龍久国継承戦~

木古おうみ /カドカワBOOKS公式

プロローグ ①

 夕暮れの空より濃い深紅の楼閣がそびえる宮殿の裏、忘れられたようにひっそりと立つきゆうしやに、ひとりの少年がいた。

 束ねた黒髪に、炎のように赤いひとみの少年・こううんうまおけの水でかじかんだ手を、馬小屋当番のような質素な服でぬぐう。紅運が腹をでると馬はうれしそうに鼻を鳴らした。彼が笑みを漏らしたとき、厩舎に小さな影が飛び込んできた。脇目も振らず駆けてきた少女は衣のすそが汚れるのも構わず、わらに突っ伏して泣き出した。大声におびえる馬をなだめ、紅運は躊躇ためらいがちに柱の陰から顔をのぞかせた。

「……何かあったのか?」

 思いもしなかった声に少女が跳ね起きる。彼女はとつに逃げようとしたが、紅運の身なりを見てあんしたのかえつ交じりにつぶやいた。

「女官長にしかられて……」

 紅運は少女から少し距離を置いた場所に座った。目をこする幼い仕草から、後宮に入ったばかりの女官だろうと思う。

「もう嫌。父と母はくいけば皇子様に見初められて御妃様になれるなんて言ったけど、雑用ばかりだし、皆厳しくて、れいなだけで最低の場所よ」

「王宮には魔物が棲んでいるからな」

 少女は不思議そうに顔を上げた。

「俺の……知り合いの侍従から聞いた昔のことわざだ。皆が権力を求めて競い合ってる。まともな人間は生きられない場所だ」

「本当ね」

 くすりと笑った少女に紅運も苦笑を返すと、頭上から馬が彼に鼻先を押し付けてきた。

「よく懐いているのね。昔から馬小屋当番なの?」

「いや、当番じゃ……」

「紅運様!」

 紅運が言葉を濁したとき、厩舎の戸を開け放った侍従が声を上げた。

「皇子ともあろう方が何というお姿です。疾くお越しを。皇太子殿下がお待ちかねですよ」

 少女が息をむ音が聞こえた。紅運は目を伏せて足早に厩舎を出る。馬が寂しげに一声鳴いた。

 侍従の後を歩きながら、声などかけなければよかったと紅運は思う。あの少女に何と思われただろう。変わり者皇子に声をかけられたとうわさを流されるかもしれない。思わず慰めようとしたのは、彼女の年や姿が、自分のよく知る少女に重なったからだ。もつとも、あの娘ならすすくどころか、相手に平手でも食らわせていただろう。

 そう思ったとき、紅運には歩調も合わせなかった侍従が足を止め、深々と礼をした。

はくゆう様、お連れいたしました」

「ご苦労でした」

 りんとした声が返った。目の前に悠然とたたずむ青年がいた。流れるような黒髪には乱れひとつなく、庶民のような平服をまとっていても振る舞いから高貴さがにじんでいた。

「紅運、また厩舎にいたのですか」

 紅運の服から藁と泥が落ちた。侍従が同じ皇子で何たる違いかと言いたげな視線を投げる。

「宮で欠かせぬ仕事を学ぶのは善きことです。それに、戦では馬と心を通わせるのが第一ですから」

 第一皇子・白雄は微笑ほほえんだ。文武だけでなく優れたぼううたわれる彼の面差しには、ひとに安らぎを与える穏やかさがあった。

「戦に出る機会なんか回ってこないさ。そっちこそその服はどうしたんだ」

 紅運はうつむきがちに聞いた。平服の裾をつまんでから、白雄はよどみなく答えた。

「事前に伝えた通り、よいは街に赴きます。都を脅かす夜盗を退治し、民の憂いを払う。いつもの装いでは目立ってしまいますから」

「夜盗狩りなら刑部に任せればいいだろう」

「ただの夜盗ならそうです。しかし、此度のそれはめんような術を使い、魔物すら使役する謎の盗賊と専らの噂。よう退治なら我らが赴かなくては」

 白雄が視線を向けると、都でとがびとを取り締まる刑部の面々が現れた。

「夜盗は昨夜も?」

 白雄の問いにひとりの男が口を開く。

「はい、都城への出入には目を光らせてはおりますが、まるで鼠のように潜り込み、我々が駆けつける前に姿を消すのです」

 彼の顔に不安の色を感じ取り、白雄は柔和な笑みを見せた。

「ご心配なく。刑部は妖魔ではなくひとを咎めるもの。門の違う責を問うほど私の目は曇っていませんよ」

 男はほおを緩めてから気遣わしげに手をんだ。

「恐れながら、紅運様も行啓なさるのですか」

 紅運は唇をむ。そう聞かれることは予想していた。皇子たちが其々一芸に秀でる中、何の才も持たない末端の九男。それが紅運の宮廷での評価だった。黙りこくる彼に代わって白雄が答えた。

もちろんです。伏魔の力を持つ皇子たる者、妖魔との戦いでは常に前線に立つべし。彼ももう十六なのですから、その責務を負わねば」

「しかし……」

 白雄は男に視線を送った。威圧ではなく、弟を叱る親に許しを請うような控えめなまなしだった。刑部の男はあきらめたように身を引いた。

「行きたくないな……」

 周囲に聞こえないよう紅運は呟いた。これから赴くのはではなく、真の魔物がうごめく場所だ。

「中も外も化け物だらけだ」

 空は既に夜の色に変わっていた。

 都の大路を抜けると、宮廷の荘厳な光とは異なるわいざつあかりが滲み出した。妓楼や酒房から漏れる音楽と話し声を浴びながら、平民に偽装した紅運は兄の後ろを歩いていた。

「歓楽街に来るなんて…」

「伏兵は潜ませていますよ。大所帯は隠密には不向きでしょう」

「だったら、俺は必要ないじゃないか」

「偶には都もいいものでしょう?」

 白雄は片目をつぶった。彼の言外の意図は紅運にもわかっていた。天子が病に倒れ、様々な政の後任を決める動きが水面下で起こっている。廷内に居場所のない弟が軍なり六部なり速やかに入れるよう、功績を作らせてやるのが真の目的だろう。

 ――次の王座に就くことがほぼ確定している白雄らしい余裕だ。俺は競争相手ですらない。

 胸中で紅運が呟いたのを察したように、白雄は言った。

「宮廷には妖魔に関わる案件に派遣される部隊があります。今年からとうも登用されたのはご存知でしょう。この件で密偵として送った彼女はまだ戻っていません。貴方ならだれよりも彼女のことがわかるかと」

 紅運は目をらす。

「昔の話だ。最近はろくに話したこともない。第一、桃華が倒せない相手なら俺がちできるはずがないだろ」

 桃華とはひとつ違いで、幼いころは同じに兄妹のように育てられた。兄たちや、武官である彼女の父から共に武術を学んだこともある。しかし、桃華が武芸の頭角を現すのにつれ、いつしか紅運は鍛錬で一本も取れなくなった。紅運が鍛錬をやめてから、会話を交わすこともほとんどなくなった。

 何処からか響いた笑い声がちようしようのように聞こえ、紅運は俯いた。

「知ってるだろ。俺は皇子が皆従えるはずの大魔を持っていない。妖魔を倒す術がないんだ」

 白雄が穏やかに首を振った。

「皇子は伏魔の力のみで皇子となるに有らず。本懐は魔をも統べるという心構えです。古来、我らの祖先が巨大な龍を討ち、なきがらを国土とし、龍の落とし仔らを服従させた。それから、魔物との間に遺恨が生じ、今も魔物は皇族を真っ先に襲います。故に、皇子は常に民を守る盾であり、矛となるべし。今夜は貴方にそれを教えたい。だから、わがままを言って付き合わせました」

 兄たちは自分を虐げもさげすみもしない。下々の民に慈愛を向けるのと同じく、気遣うような眼差しを向ける。いっそ、悪心を向けられていれば気兼ねなく恨めるのにと思ったのも一度や二度ではない。

 白雄は妓楼の二階を見上げた。

「不穏な影はここに。行きましょう」

 紅運は護身用の短剣を手に取り、再び懐に収め直した。

 戸を潜ると、酒瓶を持った妓女が会釈した。

「すみません、今夜はどなたもお通しするなと……」

 彼女は白雄とその陰に隠れる紅運を見る。ふたりとも若く質素な装いだが、出で立ちからは高貴さが見て取れた。

「二階の最奥の房にいる御人に言伝があり伺いました」

 白雄は耳飾りを片方外して差し出した。

「持ち合わせがこれしかなく……足りるでしょうか」

 妓女はてのひらに乗せられたものを見て目をいた。白雄が渡したすいは琅と呼ばれ、都に一軒家が建つほどの高級品だ。

 紅運はあきれながらふたりの間に割って入る。

「若様は世俗にうといんだ。これで何とかしてくれ」

 女から翡翠を取り上げ、侍従から万一のためと渡された銭の袋を押し付けた。

「少々お待ちを」

 妓女が慌ただしく奥へ消えたのを見送って、紅運は兄をにらんだ。

「何でもできるくせに金勘定はできないんだな」

「精進します……これでは不足でしたか?」

 白雄が耳飾りを付け直したとき、二階から皿の割れる音がした。どろりとした重い空気が流れる。白雄は紅運にいちべつを向け、階段へ駆け出した。

「待ってくれ、速すぎる」

 飛ぶように駆ける兄の背を追いながら、紅運が二階に辿たどいたとき、既に最奥の房が開け放たれていた。悲鳴が聞こえる。皿と酒瓶の破片が散乱した廊下をけ、紅運は足を速めた。

「白雄、一体何が……」

 房に踏み入った紅運の頰を短剣がかすめ、柱に突き刺さる。木片がぱらりと落ち、紅運は青ざめた。

「紅運!」

 紅運の前に立ちふさがるように立っていた白雄が振り向いた。窓際に男が三人いる。ひとりは先程の悲鳴の主の妓女を抱え、刀を突きつけていた。紅運は歯をきしませた。

「賊か……!」

 中央に立つとしかさの男が肩をすくめた。男は夜盗らしからぬ思慮深そうな細面で、学者のような長いそでと裾の荒事に向かない服を纏っていた。

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