第26話 湖の畔にて。

 同じ車の後部座席でリリと一緒の空間にいるのに緊張して閉まった俺は、湖畔に向かって歩いた。

 湖畔には一人の人がいた――。

「あ。ブラッド!!」

 半裸のメイリスがこちらに手を振る。

 めまいがしそうだ。

「少しは恥じらいを持て」

 俺はそう言いながら、タオルを差し出す。

「え。あ……!」

 自分の格好に気がついたのか、メイリスはすぐにタオルを受け取る。


 隣に腰を下ろす俺とメイリス。

 しかしスタイルのいい子だ。

「ところで何をしていたんだ? メイリス」

「ん。水浴び」

 ちゃぽちゃぽ、と足で水を蹴るメイリス。

「車の中にいると汗で気持ち悪くなるからね。それに匂いも気になるし」

「まあ、寄生虫とか、危ないからな」

 ちらりと横目で見やるとメイリスは水筒をあおり、喉を潤す。

「しかしまあ、あの泣き虫のメイリスがよくここまで戦ってこれたな」

「その話はなしです。わたしだって成長したんだから」

 子ども扱いして馬鹿にされたと思ったメイリスはムッとする。

「でも、確かにブラッドの言う通りでもあるのよね。否定できないのが悔しいなー」

 からからと笑うメイリス。

「だからこそ、あなたを知っているわたしの方がブラッドを好きよ。それは変わらないわ」

「そうか……」

 こんな時、俺はどう答えたらいいのか分からない。

 だって俺にはリリという人がいる。

 恋人がいるのに他の女になびくのはダメだろう。

 だが心がざわつく。

 それはどこか父性に近しい気持ちだと思う。

「そう言えば、リリ王女さまはあなたのこと、どう思っているのかな?」

「あー。それは分からない」

 俺ってリリからは何も言われていないんだよな。

 どんな気持ちで接しているのかさえも。

 それに前国王はなぜ俺を選んだのかも分からない。

 なんで俺を恋人にしようとしたのか……。


◇◆◇


 湖畔の近くに駆け寄るとメイリスとブラッドの会話が聞こえてくる。

 確かに我は彼にはあまり気持ちを伝えずに生きてきた。

 しかし、我は彼を好ましく思う。

 生きるのに必死で見えなかったが、彼は最初から純粋だった。

 全ての闇を抱えても、それでも生きようと必死に足掻いていた。

 その素晴らしさに、かっこよさに触れて、我はドキドキした。

 心臓がこんなにも跳ね上がるなんて思いもしなかった。

 八才のときである。まだ父がご存命だった頃だ。

 我はブラッドのことが好きと申したら、父は少し悲しそうな顔で我の頭を撫でてくれた。

 この婚約は我が一方的に決めたこと。

 そこにブラッドの意思はない。

 それなのに、ブラッドはメイリスという仲よさそうな仲間を見つけていた。

 彼女は本当の恋人のようにブラッドに懐いていた。

 我には分かる。

 メイリスがブラッドに恋心を抱いていることを。

 だから我は近づくべきじゃなかったのかもしれない。

 それでも父の遺言を盾にして近寄った。

 我は不誠実だ。


◇◆◇


「でもあれだね。ブラッドがこんなに話してくれるようになったのは大きいかな」

「え」

「だって、最初の頃、全てを呪っているような目付きだったじゃない」

「そうか?」

「でも後々知ったの。あなたは必死に自分を守って生きていたんだって。平和のために……」

 メイリスは遠くに見える月を眺めてボソッと呟く。

「リリ王女さまが帰れば、王国は正常に動きだす。そして今回結んだ平和条約に反するドールは目のかたきにされる」

「ああ。そこでドールは攻撃されるかもしれないな」

「これがあなたの求めていた平和なの?」

 メイリスは神妙な面持ちでこちらを見やる。

「分からない。だが、一区切りだとも思っている。このまま暴力という名の支配で人々を従わせているのなら、それは悪だ。人の尊厳を踏みにじる行為だ。それを許すことはできない」

 俺は今回の事件に関して独自の解釈と、気持ちを告げる。

「そうね。でもわたしはブラッドの気持ちが分かるようになってきた」

 すっと息を吐き、俺を見やるメイリス。

「望んでいる世界にならないのは、きっとみんなの心が平和じゃないからよ」

「心?」

「そう。誰だって心が豊かでありたいもの。それができない世の中だから反発も生まれるんだよ」

 心が豊かというのはどういった状況だろう。

「俺には分からないな。それで他人を攻撃していい理由にはならないだろ」

「そうかな。自分が満足できないから、世界に訴えかけているんじゃない?」

 メイリスの言葉にふーっとため息を吐く。

「俺には理解できない。自分の守りたいものは、この世の平和だ。みんなの心が平和であれと叫んでいる気がする」

「ふふ。ブラッドは昔からそうね。でも一人の平和がみんなの平和につながるとは限らないのよ」

 悲しそうに目を伏せるメイリス。

 軍にいて紅一点で頑張ってきたメイリスは常に明るく笑顔を向けてきた。

 それがこの一ヶ月、悲しい顔を見せるようになった気がする。

 それもこれも、俺と話しているときが多い。

 俺が何かした、というよりはこっちが素なのかもしれない。

 それでも彼女には笑顔でいて欲しい。そう思ったのは俺だけだろうか。

「お前は幸せになれ、メイリス」

「ひどいことを言うんだね。わたし、一世一代の告白をしたんだよ?」

「それは……」

 気持ち悪いかもしれない。彼女を傷つけるかもしれない。むごいことかもしれない。馬鹿なことかもしれない。ずるいことなのかもしれない。

 でも――。

「俺はメイリスの笑顔が見たい。その時の魅力は何千倍も高まる。俺は――」

 メイリスが目尻に涙を浮かべる。

「そんなメイリスが好きなのだから……」

「そ、そんなのずるいよ……」

 戸惑ったようにメイリスは嗚咽をもらす。

 分かっている。俺にはリリがいる。だからメイリスの気持ちに応えられない。

 それでも、俺は伝えたかった。

 彼女を思いたかった。

 少しでいい。

 彼女に触れてみたかった。

 一時いっときの迷いかもしれない。間違いかもしれない。

 それでも俺は、彼女のことが好きんだ。

 もう過去のものなのかもしれない。

 それでも一度でも好きになった、愛してしまった人だ。無碍むげにはできない。

 彼女の思いを知ってなお、こんな言い方はずるいと思う。

 こんな気持ちはずるいと思う。

 だけど、抑えきれなかった。

「俺はメイリスを好きになっていた。今は答えられないけど、昔は好きだった」

「そう。なら、わたしはもっと早くに告白するべきだったのね」

 残念そうに涙を拭うメイリス。

「あーあ。フラれちゃった」

 まるで先ほどの空気を壊すように努めて明るい声で言うメイリス。

 そうだ。

 その明るさがあれば、きっと素敵な人と出会える。

 何せ、軍の中で一番モテていたのだから。

「アーノルドなんてどうだ?」

「いやよ。あんな堅物」

 ふっと笑いを浮かべる俺。

「違いない」

 そうしてメイリスもからからと笑うのだった。

 アーノルドは嫌か。

 あいつは信頼できると思ったのだがな。

 まあ、メイリスにも選ぶ権利があるのだから、仕方ない。

「ところで俺のどんなところが好きなんだ?」

「え。そうだね……」

 メイリスが少し熟考して、おとがいに手を当てる。

「紳士なところ、とか。真面目なのに柔軟性があるとか。でも一番はわたしを助けてくれたことかな?」

「助けた?」

 俺は戦場で戦ってきた。

 それは一度くらいは助けただろうけど。

「あれは西部戦線の終戦間近だったと思う。わたしを塹壕ざんこうから撤退させてくれたの。覚えていないでしょ?」

「ああ。すまん」

「いいのよ。ブラッドは誰であれ、助けてしまうんだから」

 それでいいと言ってくれて、気持ちが落ち着いた。

 俺はそのままでいいのだと教えてくれたのだから……。

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