第22話 あたたかな日々
ぽかぽかと日差しの降り注ぐ湖で、フィーネはノアが漕ぐボートに乗っていた。湖面を渡る風が心地いい。
「気持ちいいですね。本当に素晴らしい風景です」
前方には森。後方に目をやれば花畑や野原が広がり、風情のある古城が立っている。
「お前に言われるとそんな気もする。子供の頃から見慣れている風景だから、さして感動もないが」
ノアはいつも淡々としている。
「はあ、ノア様は贅沢ですね。そうだ。ノア様、私もボートを漕いでみたいです」
「オールは意外に重いぞ。お前にできると思えないが」
そう言いながらも、ノアはフィーネにオールを持たせ、漕ぎ方を教えてくれる。
しかし、ノアに言われたとおりに漕いでいるつもりなのに、ちっともボートは前に進まない。パシャパシャと水が跳ねるばかり。
「フィーネ、もっと深くオールをさすんだ」
「あ!」
ノアがそう声をかけたとたん、オールがフィーネの手を離れ流されていく。
「まあ、どうしましょう!」
「しょうがないやつだ」
フィーネがおろおろしていると、ボートがオールなしで岸に向かって水を渡り始めた。フィーネは目を丸くする。
「水魔法だ。オールは後で回収しておく。気にするな」
「すみません。でも結構難しいものなのですね。ボートを漕ぐのって」
残念そうにフィーネが言う。ノアが簡単そうに漕いでいたから、自分にもできると思ったのだ。
「そうだな。どうしても漕ぎたいのなら、練習するといい。コツをつかめばすぐだ」
ノアの言葉にフィーネは首を振る。
「いいえ、乗っている方が楽なことに気が付きました。そうだ。今度ボートの上でお昼寝をしてみたいです。きっと気持ちがいいでしょうね」
「仕方がないな。また付き合ってやろう」
ノアはしぶしぶ言うが、彼がフィーネの願いをかなえてくれることは知っている。
「ぜひ、よろしくお願いしますね」
フィーネは早くも次のボート遊びが楽しみになった。
もう少し、フィーネに体力があれば、ノアともっと遊んでいられるのにと、ふとない物ねだりをする。
欲はすべて捨てたつもりだったのに、フィーネはそんなふうに願ってしまう自分に驚いた。
ノアはたいてい仏頂面であまりしゃべらない。それなのに彼といると楽しくて、あっという間に時が過ぎていく。
いつの間にか、日が傾きかけていた。夜になるとここは冷え込むのだ。
「お前は、妙にさっぱりしているが、王都が懐かしくないのか?」
以前もノアから里心がわかないのかと、聞かれたことがある。
しかし、そのようなことは一切ない。
「ずうっと家にいるか、近場に買い物を頼まれるくらいで、外に出なかったのであまり思い出はないんです」
「ここには女性が好みそうなカフェもなければ、はやりのドレスや宝飾品を取り扱う店もない。書庫で植物図鑑ばかり見ていて、退屈しないのか?」
ノアが不思議そうに尋ねてくる。
確かにフィーネの一日は単調かもしれないが、十分に満たされていた。
心無い家族の言葉に傷つけられることもなく、父に激務を押し付けられることもなく、のんびりと過ごしている。
ここでの生活は平穏で自由で、ストレスがないのだ。
そのうえ、食事はおいしいし、アイスクリームが食べたいといえば、いつでもノアが作ってくれる。いや、最近では言う前に用意してくれていた。
退屈など感じない。驚くほど贅沢な最期の時間を過ごしているとフィーネは思う。
「飽きるということはないです。……そういえば、私、王都に住んでいたのにカフェというものに行ったことがないのです。後は、ちょっと書店に行ってみたいかなとも思います」
ふと思いついていってみる。
夢というにはささやかだが、王都でそんな日常も過ごしてみたかったなと思う。
「書店か。ここの書庫の蔵書では足りないのか?」
「あの、王都で流行りのロマンス小説を読んでみたいと思いまして」
残念ながら、ここの書庫には小説の類はみつからなかった。
フィーネは恋をしたことがない。それならば、せめて書物の中で疑似体験をしたいみたいと思った。やはり、ここへ来てほんの少し欲がでてきたようだ。
「なるほど。そのようなものに興味があったのか。ならば、今度一緒に王都に行こう」
「ふふふ、ノア様は冗談もおっしゃるのですね」
「冗談ではない。私は魔塔に少し用事がある。お前もついでに連れて行ってやろう」
「はい?」
フィーネはぽかんとして、ノアの真面目くさった表情を見た。
◇
翌日フィーネはマーサに訪問着に着替えさせられ、髪を結われ、化粧を施された。
「フィーネ様、体調はいかがですか?」
「ええ、すこぶるいいです。あの、でもノア様は本気でしょうか。私を王都へ連れていくなんて?」
ノアの説明によるとほんの数分で着くという。
「大丈夫ですよ。お体にご負担もなく、すぐにつきますから。それより、フィーネ様は王都へ行くついでに、ご主人様に服も買っていただいたらどうでしょう?」
「え? ノア様に?」
「訪問着もその一着しか、お持ちになりませんよね」
マーサが少し残念そうに言う。この訪問着はミュゲのおさがりでフィーネはこれ一着しか持っていなかった。
「ありがとう、マーサさん。でも今更、いりません」
もうすぐ死ぬというのに服を買ってもらってどうしようというのだろうと、フィーネは首を傾げた。さすがにそこまでの欲はない。
「フィーネ様、ご主人様はきっとフィーネ様の望みでしたら、なんでもかなえてくださいますよ。たくさんお願いしておいた方がいいです」
マーサの言葉に、フィーネは声を上げて笑った。確かに彼は言えば、なんでもかなえてくれる。魔導士というものは、すごいものだと思う。
しかしフィーネは服や宝飾品を買ってもらうよりも、カフェや書店に連れて行ってもらうことの方が嬉しい。
生まれ育った場所だというのに、フィーネは王都のことをほとんど何も知らないのだ。
(あと、植物園にも行ってみたいな……)
王都にいい思い出はないはずなのに、観光ができると思うと、なんだか楽しみになってきた。
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