第4話 春の歌
列車に揺られる2人の旅人。1人は黒に深い青の光を持つ長髪で、女人と見間違う程の美貌の持ち主の青年。そして、もう1人、ふんわりと柔らかな蜂蜜色の髪を持つ少し生意気そうな少年が向かい合って座っていた。
「なぁ、なんか歌聞かせてくれよ」
「…歌?」
窓枠に肘をかけてぼうっとしていたタスクは、不機嫌そうにルカを見る。
「なんです?藪から棒に」
するとルカはニヤリと笑って「得意なんだろ?」言ってきた。
「は?」
「いや、実はな、出発前に図書館でヨビコについて少し調べたんだ。文献は多くはなかったが、どういうわけか『キノル・コルヤ』にはヨビコなような存在がよく登場するんだよ」
「…」
「歌の描写があったのは10話ほどだったが、それ以外にも主人公は良く動物と会話をしているだろう?それらの特徴を考えると、殆どの話がヨビコの条件に当てはまると言っていい」
ルカがそう得意げに語ると、タスクは若干引き気味の表情を浮かべていた。
「…呆れた。あれ全部読んだんですか?」
恐らくルカが徹夜で読んだであろう『キノル・コルヤ』とは、世界中に散らばっている似たような伝承を集め、纏めたものであり、その歴史はとても古い。人魚やドラゴン、しゃべる獣や魔法使い、不老不死。元を正すとそう言った世界中にある不思議な伝承の物語集であり、関連があるであろうとされる話の数は優に千を超えると言われている。現代で刊行されている通称『新約キノル・コルヤ』はオムニバス形式になっていて、公式として纏められたものは全108話から成っている。いくら纏められたとは言え、新約でも108話。当然、一晩で読みきるには多すぎるボリュームだ。ある意味、それを成せるルカのその好奇心と執念は、賞賛に値するであろう。
「なんだよ。別にいいだろう!…それより、試しになんか歌ってみてくれないか。物語では傷を癒したり、動物を操ってたりしてたぞ。お前もそれ、出来るんだろ?」
興味津々、と言ったところか。腹立たしい事この上ない。タスクはそっぽを向いた。
「ダメです。むやみやたらに歌うものじゃないので。私は本当に必要だと感じた時にしか使わないようにしてるんです」
「なら、俺が今必要としてる。徹夜で具合が悪い。あとずっと座ってるから尻も痛い」
それみろ、やっぱり徹夜だ。
「はぁ。ちょっと」
タスクは手をこまねいてルカに耳を貸すように促した。色々タスクについて知りたい彼は素直にそれに応じて、身を乗り出し、タスクに耳を向けた。
「ルカさんは知らないかもしれないですけど、ルークルやヨビコを狙う輩もいるんですよ。だからあんまり大声で言わないでもらえます?」
「………ちょっと神経質すぎやしないか?」
「は?」
「だって、そんなの信じてる奴なんて—いでっ!」
突然タスクの平手が飛んできた。ルカが頬をさすりながら正面をむけば、タスクはそっぽを向いて、ただ窓を見つめるばかりだ。存外小さな事で怒るのだなぁと、ルカはぼんやりその不貞腐れた横顔を眺めた。
「…」
ポールホーンから内陸に向かって伸びる世界最長の鉄道、ウィーリー。車内の小さな窓から見える景色は目まぐるしいほど移り変わりが激しい。山を越え、谷を越え、それからトンネルを抜けたその時だった。暗がりから突然、パッと視界が開けると、そこには丘が広がっていて、見たこともない花が咲き誇り、まるで青い絨毯を一面に広げたような美しい光景が目の前に飛び込んできた。
「うわぁ…」
思わず声が漏れるタスク。それを見たルカは、ほっと少し安堵のため息を漏らした。
「そういえば、ちょうど今が見頃だったなぁ」
そう言って、窓に手をかけ、少し硬いフレームを引っ張り上げる。すると、冷たくて気持ちいい風が中に入り込んできた。
「うわぁー、綺麗ですね」
「ブルゴッチだな。ここら一体は群生地なんだよ」
「知らなかった。ここにこんな場所があったなんて」
流れる景色を愛おしそうに見つめるタスク。蜂蜜色のふわりとした髪が揺れていた。その時、ルカはふと、何か違和感を感じ取った気がしたのだが、それはタスクがこちらを見た事によって、頭の中から消えてしまった。
「ネメラまで、あとどれくらいですかね?」
「あ、ああ。そうだな、あと30分もあれば着くだろうな」
「…意外と近いんですね。汽車がこんなにいい乗り物だって知りませんでした」
そういう割に、タスクは浮かない顔をしている。
「ネメラで何をするんだ?」
「ちょいと、薬屋に用がありましてね。頼まれてた薬草が手に入ったので、売りに行こうと…あと、バルンの薬草市にも寄れたらなと」
「へぇ。お前、そんな事もしてるのか」
「ええ。というか、私、普段は薬売って生計を立ててるんです」
「薬売ってるって…それ大丈夫なのかよ?」
「疑ってるなら、ほら、一応身分証」
そう言ってタスクはカバンの中から、木の板や、勾玉、色鮮やかな糸で編み込まれた太い紐、そう言ったものが纏められた束を取り出した。
「随分沢山…うお、これってサルム王国のか?」
ルカが身分証の束に手を伸ばしてきたので、タスクはそれを彼に渡した。ルカは随分と興味深そうに、まじまじとそれらを見ている。
「はい」
「すごいな…」
ルカが驚くのも無理はない。彼が特に見ていたのは鮮やかな糸で織られた丈夫そうな布製の身分証だった。南東にある島国、サルム王国のものである。単一民族国家であるサルム王国は他国との交流にかなりの隔たりがあり、一般外国人がこういった公的な身分証を取得するのはかなり難しいとされている。なのに、このどっからどう見ても得体の知れないこのちんちくりんが何故こんなものを持っているのか。ルカは不思議でならないと、目の前いる薄汚れた旅の子供を見つめた。
「そんな事ないですよ。たまたま、王子を助けたってだけで」
「…は?ちょっと待て。どうやったら、たまたまそんな事が起こるんだ?」
目を見開くルカ。タスクは少し面倒になって、窓辺に頬杖をついた。もうそこにあの青色は無く、汽車は林の中を走っていた。
「なんか、街に降りてきてたんですよ。ただの平民のクソ餓鬼だと思ってたら、王子でした」
「はぁ…」
どこかで聞いたような話だ。そこの王子も城での勉強が嫌になって街に遊びにいったのだろうか。ルカは呆れて何も言えなかった。
「で、生意気やって、怪我して、喚いてたので、手当てしてあげたら、っという具合ですね。身分証として見せてますけど、実際はただの通行許可証ですよ」
「絶対それだけじゃないだろう!?」
布紐を握ってルカは強く言った。サルム王国の織物は世界的にも有名で特に富裕層の間でとても人気が高い。海外では高値で取引されているものだが、タスクの持っていたそれは、ルカが今まで見てきたものの中で1番個性的で、かつ、質のいい物のように思えた。
ルカが真相を問い正そうと、詰め寄ると、タスクはうんざりして、今度は足を組んだ。
「はぁ…その後、城に呼ばれて病気がちだった第1王子をイツキと診たんですよ。で、無事体調も良くなり、半永久特別入国許可を得た、という訳です」
「…」
タスクは相変わらず外の景色を眺めていた。
ルカはそんなタスクを見て不信感を募らせる。そもそも、ただの旅人が、王子を助けたくらいで、城に呼ばれるものだろうか?いや、それは、あったとして、病に伏している大事な跡取りを、そう簡単に得体の知れない人間に診せるとは思えない。
(余程の事情があったのか…)
タスクを見ても、彼はルカと目を合わせようとしなかった。
「…」
*
ネメラに到着し、駅を降りると、そこは人で賑わった繁華街となっていた。
「おおー、結構賑わってるなぁ。なぁ…?タスク?」
一緒に降りたと思っていたタスクが隣にいない。振り返ると、タスクが駅の外観を見上げていた。
「おーい」
「…あ、はい」
ルカの呼びかけに気づいたタスクは急いで彼の元へと走った。
「どうした?別に珍しくもないだろう?」
「いえ…ネメラのこちら側は来た事が無かったものですから」
「そうか。汽車に乗るのも初めてだったんだんだもんな」
歩き出す二人。
「普段は徒歩か馬車ですから。というか、そちらの方が薬草を収集するのに都合が良いんですよね。大抵の駅は山から離れた場所にありますし、汽車は運賃が高くつきますし」
「そうか。で、初めて乗った感想はどうだった?」
「…馬車より揺れなくて速いのは良いですね。あと、良い景色も見えましたし」
「そりゃ、良かった」
食べ物屋で賑わう町は美味しそうな匂いがする。至る所から商売のやり取りが聞こえてきて、町は活気付いていた。地元の客もいれば、タスクたちの様な旅人もいる。少しお腹も空いたし、何か食べたいなとぼんやり考えた時だった。白くて丸い、湯気を蒸した饅頭屋に目がいった。
「あ、肉まっ—!」
言葉にしかけたその時、タスクの胸に軽い衝撃が走った。
「あ、ごめんなさーい!」
少年はそう軽く謝って、そのまま駆けていき、人混みの中に姿を消してしまった。
「人が多いからな」
ルカも誰かと肩をぶつけて、軽く挨拶を交わしながら、そう言う。
「全く…チビには中々キツい通りですよ。あ、おじさん、肉まん、1つ」
「あ、俺の分も」
タスクとルカは二人、屋台の前に並んで、湯気の前に立ちはだかる肉付きの良い亭主に、指を一本ずつ立てた。亭主は「あいよ!」と機嫌の良い挨拶をすると、手際良く、包に肉まんをぽいっと放り投げた。
「ほら、まず坊主から」
「わぁ!ありがとうございます!」
嬉しそうに受け取るタスク。鼻から抜ける甘辛い匂いに口の中が潤い始める。タスクは財布を取り出そうと、懐に手を突っ込んだ。
「…」
そして、探る。もう一度、探る。
「…あれ?」
ルカが肉饅を受け取っているその横で、タスクは仕切りに自分の身体の至る所をパンパンと叩いていた。側から見れば妙なダンスだ。
「ない」
「…やっぱりな」
そう言って、ルカはポケットから小銭を取り出して、亭主に渡した。亭主はニンマリ笑って「まいどありー!」と一言。ルカは「ああ。」と返事を返して、通りを歩き始めた。
「あ、ちょっと!」
慌てて彼の後を追うタスク。ルカはどうやら、気づいていたらしい。タスクが財布を盗まれた事を。
「気付いてたなら言ってくださいよ!!私、取り返してきますから!ちょっと適当にこの辺り回ってて下さい!!」
「まぁ、待て」
走り出そうとしたタスクの襟元を掴む、ルカ。お陰でタスクの首にそれが食い込み、タスクはその場に咳き込む。この引き止め方、やめてほしいとタスクは思った。
「なにするんですか!!」
「もう遅いし、この人混みだ。やめとけ。それに、大した金入ってないだろう?」
「でも!」
「俺が居るんだから当面の生活費は大丈夫だろ。な?ご主人?」
護衛をするにあたってまず重要な事。それは、「信頼関係」だ。だが、タスクは警戒心が強いうえ、危険な目にあってたとしても、先日の身のこなしを見てればわかる通り、大抵のことは何なく乗り越えられるだろう。とは言え、財布をすられてしまうようなマヌケでもある。手早く素性を探るには、この機に乗じて、依存させてしまえば良い。そう考えたルカだったが、やっぱりタスクは疑り深い顔でこちらを睨みつけてくる。
「…本当に貴方がお金払ってくれるんですか?」
「当然。これは契約だからな。現に汽車代もこの肉饅代だって払っただろう?ほら、行くぞ。お目当の薬師の所に行こう。早くしないと、日が暮れるぞ」
先ずは一番手っ取り早く「金銭」での信頼を得る作戦だ。目に見えて分かりやすく、欲を簡単に満たせる代物。だが、タスクはやっぱり冴えない顔をする。どうやらご主人様は、思ったよりも物欲に乏しいらしい。
「…ほらほら、いくぞー」
これは時間がかかりそうだ。だがじっくり、焦らずだ。
そんな事を思いながら、ルカは落ち込むタスクを半ば引きずる形で繁華街を抜けて行った。
「で、どっち行くんだ?」
「…ちっ。こっちですよ」
ルカの腕を振り払い、タスクは街で最も大きな建物、市庁舎の方へと向かって、プンスカプンスカ歩き出す。
(全く…自分のじゃ無いからって!!)
タスクは財布を盗まれたと言うのに、他人事だと妙に機嫌のいい良いルカを見て、タスクは恨めしく思っていた。少しは、こちらの身にもなってもらいたいものである。まあ、体の至る所に札を分散させて持っているから、今すぐ困ると言うことは無いのだが、それでも金欠であることには変わりない。だからこそこの街に寄ったのだ。
(あんまり金銭的に依存すると後で怖いからな…。早く返さないと)
さて、繁華街は鉄道の影響で新しく出来た建物が多く、沢山の物や人で賑わって居たが、そこを抜けてしまえば、徐々に古い町並みが見えてくる。旧市街につくと、そこは閑静で趣ある空気が漂っていた。
「こっちは随分落ち着いてるな」
先程と比べると、道行く人もまばらだ。
石畳の小道を二人で歩いて行く。すると頭上で軽い羽音が聞こえた。
「なんだ?…虫?」
白く小さな何かは二人の周りを旋回し、タスクが両手を掬うように差し出せば、それは軽やかにタスクの掌の上に転がり込んだ。
「…紙の鳥?魔法か?」
驚くルカ。それは紙でできた鳥で、タスクの手の中に収まった瞬間、力を無くした様に、クタッと倒れて、ただの紙に戻ったのだ。タスクも少し目を丸くしていたものの、ルカよりはいくらか落ち着いた様子で、その折り紙を広げ始めた。
「…手紙ですね」
その紙には一言だけ書いてあるみたいだが、異国の言葉らしくルカには読むことが出来なかった。
「陣がないな?…一体どう言う仕組みなんだ?」
「これぐらいの事をするのに陣なんて要らないって事でしょうね」
「…は?」
「どうやら本物の魔法使いみたいですね」
タスクは手紙を読み終えたのか、ビリビリに破き始めた。散り散りになった紙クズは風にのって不自然に飛んでゆく。
「本物って…。一体どんな奴なんだ?」
「師匠の古い友人らしいですけど」
「らしい?」
「会ったこと無いんですよ」
「で、要件は?」
「一度会おうって」
「行くのか?」
「……ええ、まぁ」
「そうか」
あんな魔法を使うのだ。こりゃ、伝説の人に会える予感。ルカは少し胸が高鳴るのを感じた。
「どんな奴なんだろうな」
「さあ?きっとロクな人じゃ無いと思いますけど」
「…なんだ?会いたくないのか?」
「そう言うわけじゃないんですが、少し心配で…。イツキは生前、他の魔法使いに私を会わせようとしなかったんですよ」
「なんか理由があったのか?」
「警戒してたんでしょうね。指名手配の事もあったし。イツキ以外だと、ルウっていう魔女に一度だけ会ったことはあるんですけど、何でかイツキは相当毛嫌いしてましね。面白い人だったと思いますが」
「…魔女?」
ルカはその単語を聞いた途端、何やら怪訝な表情になって、黙々と歩き続けた。タスクはそれを少し妙に思いながらも、彼の後に続いた。
「…何か気になることでも?」
「!」
ルカは、はっとして振り返った。突然なんだと、タスクは怪訝な顔でルカを見つめる。すると、ルカはヘラッと笑った。
「あ、悪い。ちょっと思い出してな。昔、友人が魔女を探していた時期があったんが、そいつ曰く、その魔女は『銀色の魔女』って名で通ってたらしい。知らないか?」
「銀色の?…確かに、ルウの髪は銀でしたけど。その名前は聞いたことないです」
「…そうか。まあ、そんなもんだよな」
残念そう、というよりは、何かを憐む様な顔で遠い目をするルカ。
「?…あ、あそこの角、右です」
タスクはあまり深くは考えず、ルカの背後にあった角を指差すと、足早にルカを追い越して、角を曲がった。ルカも後につづく。
「やっと見慣れた光景ですよ。あのリドリーって名前のお店です。」
タスクは、緩やかな坂の先に見えている紺色の小さなお店を指差した。そして、真っ直ぐそこを目指して歩いて行く。
「へぇ。服屋に、家具屋、床屋もあるのか」
そういった小さな店が軒を連ねていた。
「こっちは地元民しか居ませんからね」
そう言ってタスクは、目当ての店の前に着くなり、取っ手を勢いよく引いて、店へと入って行った。
ショーウインドウから見える店内は薄暗く、外からは良く見えない。薬草が沢山干してあるのだろうか、妙な影が天井を覆っているのが見える。戸惑いながらも、ルカもタスクの後に続いて店に足を踏み入れた。
「すみませーん」
タスクが呼び声をかけたが、店先には誰も居ない様だ。店内はごちゃごちゃしていて、全体的に物が溢れている印象だ。沢山の薬草の瓶に、引き出し式の薬棚。本棚に並べられた沢山の分厚い書物には『薬学』の文字が刻まれている。その他、研究用の機材や、地図や望遠鏡など、ガラクタとも言えない、用途の分からない何かが大量に置いてあった。ルカは初めて見る光景に少し緊張して、商品を確かめるように眺めていると、ふと、ある瓶が目に入った。手の中にすっぽり収まるほど小さな瓶の中には何も入っていない。値札を確認すると、『ユキメの息 100ネミン』と書いてある。
(たっかっ!!こんなちっこい瓶が100ネミン!?飛んだぼったくりだ…。)
一体これのどこにそれ程の価値があるのだろう。ルカは気になって瓶を色んな角度から眺めた。すると、中で何かとても小さくキラリと光るものを見た気がした。
(ん?…なんか、冷た—)
その時、突然、店の奥の扉が開いた。
ルカは慌てて瓶を元の場所に戻すと、半月眼鏡をかけた白い髪の老人と目があった。
「…はい。って、…タスクか。久しぶりだな」
一瞬、『誰だ!?』と言う顔をした老人はタスクを見て安堵の様な、でも、少しつまらなそうな表情を見せた。
「リドリーさん、お久しぶりです。元気そうで良かった」
リドリーと呼ばれたその人物は、ルカをチラリと見たが、さして興味も無さそうに、再びタスクに向き合った。あまり好意的な人物ではなさそうだ。すると、彼は鼻をフンを鳴らし、カウンターの前に置いてあった椅子に座り込んだ。
「元気なもんか。自分で薬を調達出来なくなってこっちは困ってんだ。年は取るもんじゃないな」
そう言いながら、老人は懐から取り出したタバコに火を付ける。
老いを感じるのなら、そのタバコを辞めればいいのに、とルカは思ったが口にはしなかった。彼はどうやら機嫌が悪い様だ。タバコをふかして、その煙をタスクに思いっきり浴びせた。
(おいおい…)
煙は勢いよくタスクの顔をすり抜け、宙に滞留している。当然タスクは咳き込んだ。
「ゴホッゴホッ…もう、相変わらずですね。頼まれた物持ってきましたよ」
「どれ、並べてみろ」
タスクは荷物を降ろし、中にあった瓶やら、布で巻かれた何かやら色々取り出し、カウンターの上に並べて、それらを二人で物色し始めた。ルカも暇なので、彼らのやり取りを後ろから覗くことにした。
「…」
リドリーはタスクが持ってきたそれらを観察し始めた。その顔は真剣そのものだ。
「どうです?」
「…うむ。お前さんのとこは相変わらず質がいいな」
それを聞くなり、タスクは「まあね」と得意げに笑った。
「ああ、特にスズリなんか、ただでさえ傷みやすいのに、まるで採りたてみたいだ」
「…」
「他も鮮度は文句ないし、色も大きさも良い…。一体どうやって見つけてるんだ?」
そう言ってリドリーはメガネの縁からタスクを試すように睨みつけた。まったく、薬屋っていうのは、どうして、どいつもこいつもこう好奇心旺盛な奴ばかりなのだ。そううんざりしながら、タスクはため息をついた。
「はあ、企業秘密です」
「……ちっ。ケチくせぇな。ま、他の連中に群生地荒らされても困るからな。うちを贔屓にしてくれてるなら良いや。これで全部か?」
リドリーが尋ねると、タスクは思い出したように「ああ、もっと欲しいなら、まだありますよ」と言って、鞄から青々とした草の束をバサっと取り出した。
「……」
纏めれば枕一つぐらいにはなりそうな量である。一体どうして、そんな小さい鞄の中にそれが収まっていたのか。ルカが横で目を丸くしてると、同じように驚くリドリーが、再びタスクに聞いた。
「なあ、その鞄。前から思ってたけど、最近流行りの魔術道具ってやつじゃないか?」
「え?…まぁ、まぁ、そんな感じのやつですね」
タスクは返事を濁して、気まずそうな顔をした。すると、リドリーが何故か嬉しそうに、ニンマリと笑った。
「いやー、そんな小さい鞄にそれだけ入るなら3000で買っても良いなと思ったんだが、どうだ?売らないか?」
これはリドリーが本気で気に入った時の顔である。タスクは鞄を取られまいと、咄嗟にそれを強く抱きしめた。
「だ、ダメですよ。これは売れません。元々師匠のですし」
「ちっ」
「舌打ちはもっと聞こえないようにやって下さい」
その時だった。突然店の扉が開き、掛けてあった鈴がチリンチリンと鳴り響いた。
「おやじー!妹の薬、頼むー…」
ハリのあった呼び声が、尻すぼみに小さくなる。タスクの目は完全ロックオンされた。先刻、財布を盗んだ少年がそこに立っていたのだ。
「やっべ」
目が合うなり逃げ出す少年。今度こそタスクが彼を追わないわけがなかった。
「ルカさん、これ!」
「あ、っちょ!!」
鞄をルカに押し付けて、タスクは少年の跡を追いに全速力で走って行った。無理やり渡されたせいで、半端に空いた鞄からは小さな瓶やら薬草やらが零れ落ち、ルカとリドリーはそれを拾った。
「ああ、すみません」
取り敢えず、鞄に全部詰め込んで行く。結構な量が入っている筈なのに、不思議なことに重くならない。本当にただの鞄では無いらしい。ルカがその事に興味を示していた時、リドリーは最後に拾った瓶を見て、何か難しい顔をしていた。
「ありがとうございます…?」
その瓶を受け取ろうとルカはリドリーに手を差し出したのだが、彼は相変わらずその瓶をジッと見ていた。そして、口を開いた。
「これ、どうしたんだ?」
ブルーベリー程の小さな粒がたくさん入った瓶。それはルカにも見覚えがあるものだった。
「あー、確か、あいつがヤークで知り合いに貰ってたヤツだったかな」
「貰った?この薬を?」
リドリーは信じられないという顔をしている。
「あ、ああ。俺は横で見てただけだが。それ、なんかまずい薬なのか?」
恐る恐る尋ねると、リドリーはその瓶をルカに押し付けるように渡した。
「…私の見立てが正しければ、これは妖精くだしって言う秘薬だ。あちら側の住人に憑かれてしまった奴が飲むもんさ」
受け取った瓶を落としそうになって、ルカは慌てて両手でその瓶を掴む。中では粒がカラカラと音を立てた。
「あ、あちら側?」
「要は狂った奴の事だよ。悪魔憑きとか、狐に化かされたとか、言うだろう?そう言う奴を正気に戻す為の薬だ」
まるで脅かすように語るリドリーにルカは苦笑いを浮かべて応えた。
「はは、またまた。大方、精神安定剤とか、そんなような薬でしょ?」
「……うん、まぁ、そうだな」
その時、再び店の扉が開いた。不安そうな表情をした中年の男性だ。リドリーが「いらっしゃい」と声をかけると、男性は一礼した。
「あの、いつものを…」
「…ああ。そこで待っててくれ」
リドリーは奥の部屋へ入って行くと、紙袋を持って直ぐ戻ってきた。
男性はそれを大事そうに受け取ると、金をリドリーに渡した。
「まだ、見つからないのかい?」
「ええ、警察ももう…。捜査は続けて下さるみたいなんですが、娘はもう…」
なんだか深刻な話をしている。ルカはここで立ち聞きしていいものかと戸惑ってしまった。しかし、彼らはそんなルカを気にもとめていないようだった。それどころじゃ無い心理状態なのかも知れない。
「そうか。…奥さん、早く良くなるといいな」
「ええ、ありがとうございます」
男性は俯いたまま、礼を述べた。泣顔を見られたくなかったのだろう。
「あんたも、無理するなよ」
リドリーは優しく彼を送り出し、男性は去り際にまた一礼して、店を後にした。
一体何があったのだろう。だが、聞いていいものかとルカは悩んでいた。
「…気になるか?」
とリドリー。どうやらルカの意を察してくれたのか、教えてくれるみたいだ。
「え、ええ、まぁ」
すると、リドリーは再び、新しいタバコを懐から取り出し、火をつけ、ため息交じりの煙を蒸した。
「ここ数年、街で子供の失踪事件が相次いでるんだ。さっきの奴は娘を3ヶ月程前にな。…遺体も見つかっちゃいない。かわいそうに」
「どのくらいの頻度で?」
「さぁな。ひどい時は月に一人は。だが、町にいた孤児もめっきり見かけなくなったから、実際はもっとだろうな。噂じゃ、みんな骨になってるとか」
「骨?」
「たまに、犬が咥えてるんだよ。まぁ、食い物屋から盗んできたのを食ってるだけだろうがな。遺体が見つからないのはそのせいだろうって…。ただの噂だ。馬鹿馬鹿しい」
「遺体が見つからないなら、誘拐の線は?奴隷商に売り飛ばされてなきゃ良いけど…」
「さあな。規制が強くなったおかげで、奴隷孤児は最近じゃめっきり減ったらしいが…全く、警察は何やってんだか。お前さんも気をつけろよ?」
「え?」
意外なことを言われて、ルカは笑った。だってルカは確かにまだ若いが、どこからどう見ても大人の男だ。リドリーの軽いジョークかと思って「いやいや、俺は大丈夫だよ」と適当にあしらえば、彼は至極真面目な顔で首を横に振った。
「何勘違いしてる?お前さんが捕まるとは思ってないよ。問題はタスクの方さ」
「…ああ、なるほど。そりゃそうか」
「あれは、今年で17,8になるはずだが、どう見てもまだ、ただの餓鬼だ」
「え。17,8?」
「なんだ、知らなかったのか?」
そういや、そうだった。ルカはすっかりその事を忘れていた。だって、本当にタスクは14、5歳の子供のようにしか見えなかったからだ。
*
その頃、タスクは財布泥棒少年を追っかけていた。直線の道が多いこの街では逃げるのも困難であろう。タスクにとっては好都合だ。少年が狭い路地に入った瞬間、タスクは壁を蹴って障害物を交わすと、上から襲いかかった。
「捕まえた!!」
タスクに背中から押さえつけられた少年は、地面に顔面から倒れこみ、呻き声を上げた。空かさずタスクは彼の手首を足で抑え、傍を探った。
「は、離せ、は、はは!!きゃはははは!!」
「笑うな!…あ、あったー!良かった、私の財布!これであいつに依存しなくてすむ」
タスクは愛しい財布に頬を擦り、慣れ親しんだ触り心地に安心感を覚えていた。
「そうそう、これこれ」
「は、離せ!俺の上から降りろお!」
少年が咄嗟の隙をついてタスクの足首を掴んだ。が、だからと言って何かできるわけでも無い。タスクは傍の刀を腰から外して、逃れようとする少年の首にそれを引っ掛けて、思いっきり引っ張ると、少年は背中に鈍い痛いを覚えた。うむ。中々の体の硬さだ。
「そういえば、なんで、盗んだんですか?」
「…い、妹が病気で」
「ありがちな嘘ですね」
タスクは少年の首に引っ掛けていた刀を更に自分の方へと寄せてみるが、やはり、思うように少年の背中が反らない。
「いだだだだ!!う、嘘じゃ無い!本当だ!!」
「…ふむ。まぁ、じゃなきゃあの店に来ませんもんねぇ」
タスクは限界まで少年の首を反らせた。
「いでででででででで!!!!わ、悪い!悪かったから!!許して!!」
「その辺にしてやれ」
後ろから声がしたので振り返ればそこにはルカがいた。自然とタスクの刀に込められていた力も緩くなる。
「あ、ルカさん」
ルカはタスクたちの側まで歩いてくると、腰を落として、少年の目を見た。
「リドリーさんからの伝言だ。『盗んだ金で買えるものは、うちの店には無い』ってさ」
「…ちっ。あんたに何がわかる!!薬がなきゃ妹は死ぬんだ!!」
反抗的な態度をとる少年だが、その目は赤くなっていた。悔し涙を我慢しているのだろうか。きっと悪い事をしているという自覚はあるのだろう。ただ、金を盗んででも、この少年は薬が必要だった。その事をルカはリドリーから聞いていた。
「安心しろ。お前の上に乗ってるこの方はな、薬師なんだ。お前の妹はコイツが何とかしてくれるから」
ルカはそう言って優しく少年に微笑んだ。
「…はぁ?」
笑顔で信じられない事を言うルカにタスクは眉を寄せる。その下で少年も驚きのあまり、間の抜けた表情を見せた。
「おまけにコイツは腕がいいんだ。外国でも有名なんだぞ?」
(いやいや、何を言ってるんだ、この男!?)
「ほ、本当に…?」
少年も少年である。急に手のひら返したように、急にタスクに切望するような眼差しを向けてくる。さっきまでのクソ餓鬼臭がどこへやら。
「ああ、本当だ」
ルカ、最後の追い討ち。それはきっと少年にとっての神の声だったに違いない。少年の瞳に希望の光が灯った。それを見て、ルカも満足そうな顔をしている。
「ちょっ!」
二人して何を勝手に話を進めているのか。その様子を少年の上で見ていたタスクは慌てて止めに入ろうとしたのだが、その瞬間、口元をルカに抑えられる。ルカはまるで牧師にでもなったかのような、儚げで優しい表情で少年に笑いかけた。
「だから、もう盗みはするなよ?」
少年の瞳には薄っすらと涙がにじむ。
「お、俺!絶対、金払うよ!何でもするから、だから…だから!妹を助けて下さい!」
まてまてまてまて!!
とタスクは叫んでみるが、モゴモゴと唸り声にしかならない。タスクの口を全力で抑えるルカは、相変わらず神仏のそれに似た柔らかい不気味な笑顔を浮かべていた。
*
少年に連れられて、タスクとルカは廃れた町の外れにある森に来ていた。道無き道を進むと、古い小屋が見えてきた。どうやらそこが少年の家らしい。
「…ここです」
少年は家の方へと歩いていく。ルカもその後に続こうとしたのだが、突然腕を後ろに引っ張られた。タスクが何やら難しい顔をして睨んでいた。
「…なんだ?怖いのか?大丈夫だ。獣が出たら俺が守ってやるから」
「…いえ。というか、本当に治療するんですか?」
ここまで着いて来ておいて、タスクはまだ不貞腐れているみたいだ。
確かに、タスクにしてみれば無理やり連れてこられたようなものだが、困っている健気な少年を放って置くのもルカとしては胸が痛む。それに他に気になることもあったのだ。
「当たり前だ。困ってる奴に会ったのも何かの縁だろ?薬代なら俺が出すから、頼む」
だが、ルカのその言葉はタスクには逆効果だったようで、タスクは余計に不信感を募らせた。
「何で、あなたがそこまでするんです?」
「お前は助けられる人がいるのに助けないのか?」
さも当然と、質問を質問で返すルカ。タスクは半ば呆れて返事をした。
「…たった一人を救った所で何も変わらない気がしますが」
「お前って…意外と薄情な奴だな」
「ルカさんの正義感が強すぎるだけですよ」
大真面目にそう言うタスク。対して、タスクのその発言に信じられないと眉を避けるルカ。お互いの考えが相容れない事は十分わかった。だが、ルカとしてはここで引き返すわけにもいかないのだ。
「いいから、ズベコベ言わず見てやれって。リドリーさんからも頼まれてんだから」
「リドリーさんから?」
だったら無料で薬を与えればいいじゃないかとタスクは思った。全くみんな他力本願で勝手すぎる。面倒事を片付けるのにまんまと利用されるなんて癪だが、目の前を歩くお人好しの用心棒は妙にやる気に満ちている。となると、ここでタスク独りだけ踵を返すのも、どうもバツが悪い。
「うーん…」
ルカの後ろで、タスクは不安そうな顔で空を見上げた。
鬱蒼とした森の中に古い小屋、まるでお化けでも出そうな雰囲気。だが、まだ昼だ。そこまで怖がる必要は無し、あの船で勇敢な姿を見せたタスクの事だ。「これぐらい大したことでは無い」とルカは勝手に思っていたのだが、流石にタスクの様子が気になった。
「やっぱり怖いのか?」
「…いえ。ただ、大丈夫なんですかね?」
「…大丈夫だろ?まだ昼だぞ。怖がりだな」
「だから怖がってませんって!ただ—」
「じゃあ、大丈夫だな。ほら、行くぞ」
いい加減、行かなければと、ルカは無理やり引っ張るがタスクは動こうとしない。ルカは苛立ってため息をついた。
「なぁ?無理やり連れてきて悪いが、診てやるぐらいいいじゃないか。財布も戻ってきたし、あの子は悪い子じゃない」
「それは、分かってますけど」
自信がないのだろうか。不安げな表情で今度は俯くタスクをルカは見下ろしていた。
「一度見てダメだったらそれはそれで仕方ないさ。行こう」
その時、「どうかした?」と小屋の前に立つ少年が声を掛けてきた。ルカは「すぐ行く」と返事して、タスクを引っ張り出す。重い足取りだが、タスクは渋々といった様子でゆっくりと歩き始めた。
やっと小屋の扉の前に付くと、少年も安堵の表情を見せる。だが、乗り気じゃないタスクを目の前にして、どこか困った様子だ。
「あ、あの…。財布を盗んでごめんなさい。僕、妹が助かるなら、何でもするから。だから、その、まだ、どうか、見捨てないで…」
少年は目を合わせようとしないタスクに頭を下げた。タスクは何か言葉を発しようとしたのだが、結局直ぐには返事をせず、少年の肩に手を置いて、その顔を上げさせた。
「…分かった。見るだけ、見ましょう」
少年は頷き、扉をあけて、部屋の中にいる人物に声を掛けた。
「アムサ、入るよ?」
部屋は薄暗く、湿っていた。その中にある簡素なベットの上で彼女は息も絶え絶えになっていた。
「…に、ぃ、さ…ん」
「アムサ、お医者様を連れてきたんだ。お前を見て下さると」
少年は少女に駆け寄り、痩せこけた手を握る。強く握ったら簡単に折れてしまいそうな程、彼女は痩せ細り、弱っていた。
「あの、中へ。」
少年は妹の傍に膝をついたまま、タスクたちを呼んだ。タスクは難しい顔をして、少年の隣へ歩み寄り、そして、少年に退くように促した。
脈を計り、口の状態を見てから、タスクは彼女の額に優しく手を置いた。そして、少年に尋ねる。
「食事は?」
「…ここ1ヶ月は何も。急に食べなくなって」
「…その前は?」
「たくさん……食べてたよ」
少年の言葉が急に歯切れが悪くなる。彼はタスクから目をそらした。
「何を?」
「え…?」
タスクのその目は鋭く光り、すごく怒っているように見えた。見たものを一瞬で殺してしまいそうな、殺気のこもった目。その目は獣のそれにそっくりだった。途端に少年は震え出す。
「…この手、爪もですけど、すこし綺麗すぎますね」
「何言ってんだ?」
どこからどう見ても、やつれ過ぎて色も悪い細腕は綺麗とは言い難い。眉をひそめるルカであったが、その問いかけにタスクは答えない。代わりに少年をじっと見続ける。
「…1ヶ月前までは何を食べていたんですか?」
「……」
「訂正します。彼女はいつから人を食べてないんですか?」
タスクの口からそう発せられた瞬間、少年は後退り、躓くように足元から崩れ落ちた。そんな彼をルカが慌てて背後から受け止めた。
「ちょ、どいう事だよ」
幾ら何でも冗談が酷すぎる。ルカも思わず笑ってしまう程だ。だが、タスクは冷たい目をしていた。少女から手を離し、そして立ち上がる。
「この子はもう人間ではありません」
「はぁ!?お前、何言って」
流石に病床の人間と、その家族に向けて言う言葉ではない。それに、そんな馬鹿げた話があってたまるか。そんな思いでルカはタスクを睨んだが、タスクは相変わらずだ。
「信じなくていいですよ?ついでに言うと、私は彼女は治すべきではないと思っています。寧ろ今此処で殺すべきだ」
「タスク、お前、いい加減にしろよ!」
ルカは少年から離れ、タスクの胸ぐらを掴むと、勢いのまま拳を構えていた。いくら主人とはいえ、今の言動は許せない。だが、そこまでしても、やっぱり、タスクは少しも悪びれた様子もなく、それどころか少し怒っているようだった。
「殴っても、怒鳴ってもどうにもなりませんよ。街の安全を考えるのであれば、彼女は助けるべきではありませんし、殺すことが出来ないのならこのまま死を待つのが1番です。離してください」
「殺すって…お前!!」
「離してください!!」
タスクは首元にあるルカの手を強く掴んで、自分から引き離した。そして、襟をただし、迷惑そうにため息をつくと、ルカと少年の横をすり抜けて出口へと向かった。
「おい、まてって…!」
ルカの呼び止めも無視して、タスクは扉の取っ手に手をかけた。その時、少女の細い指が小さく動いたのだが、誰もその事には気がつかなかった。少年は俯いてその場に座り込んでいる。去り際に、タスクは振り向くと、呆然とするその少年を見て言った。
「…君、妹さんの状態、知ってたんですよね」
少年のその目からは涙があふれんばかりにこぼれ落ちる。彼は声もあげずに泣いていた。
「け、警察には…言わないで……」
嗚咽が混じったその声はとても小さいものだった。
「警察?」
ルカがそう首を傾げると、少年は顔を上げた。涙でぐちょぐちょの顔は真っ赤になっていて、見ていると胸が締め付けられた。すると、少年は徐にタスクの方へ駆け寄ってきて、服の裾を掴みながら懇願してきた。
「お、お願い!!妹はもう、動けないんだ。このまま…きっとこのまま、死んでしまう。だから、もう殺さないから…お願い。言わないで…!!」
少年の言葉に息を飲むルカ。一体何がどうなっているのかまるで分からず、混乱して言葉に詰まった。
(ど、どういことだ?…もう殺さないって…。)
少年は必死だった。彼の妹を助けたいという言葉に嘘はない。
その時、ふと、リドリーの声と、薬屋にきた中年男性の顔をが脳裏を過った。
(まさか…街で流行っていた子供の失踪事件って……)
良くない思いつきだと思った。間違いであって欲しいと願う傍、可能性を捨てきれない。
できれば少年を信じたい。
「…やっぱり共犯ってわけか。随分と妹思いなんですね」
だが、タスクは冷たく、誰よりも現実的で残酷だった。そうして、怯える少年に顔を近づけた。
「都合がいいですね。もう死ぬのだから見逃してくれなんて。さっきは妹さんを助けるために私の財布まで盗んで薬を買おうとしてたのに」
「で、でも——」
その時、少年の背後から何か嫌な気配がした。寝て居たはずの妹が起き上がり、獣の如く唸り声をあげたかと思えば、次の瞬間、それはタスクに襲いかかってきた。
「っ!!」
勢いのまま扉が開きタスクは外へ投げ出された。転がるように絡み合い、その勢いに任せて素早く起き上がると、体制を整える間もなく、少女はタスクの腕に噛みつき唸り声をあげた。タスクは必死で少女を振り払おうとするが、恐ろしいほどの力で振り解く事が出来ない。あれ程弱々しい細い指と腕なのに、驚くべき力であった。
「ちっ!」
空いた手でタスクが咄嗟に刀を抜くと、軽い身のこなしで一歩引く少女。やっと身体から離れたかと思えば、彼女はまた直ぐに襲いかかってきた。
「タスク!!」
出遅れたルカが、小屋から飛び出し、タスクを庇うように二人の間に飛び込んでくる。少女の腕が振り下ろされ、その瞬間、血痕がタスクの頬を汚した。
「っ!!」
だが、それは、ルカのものでも、タスクのものではなかった。二人の目の前には、自分たちを庇おうと両手を広げ立ちはだかる少年の後ろ姿があった。少年の腕には深い傷ができ、真っ赤な血が足元に流れ落ちた。
「アムサ、やめろ…」
少年の傷を見て、少女は動きを止めた。
「うっ、た、頼むから…やめてくれ…」
少年の痛みを堪えるような声に、少女は後ずさった。その手は彼の血で汚れている。そして、目の光を失うと同時に、彼女はその場に倒れこんだのだ。
「ア、アムサ!!」
血だらけの少年は慌てて駆け寄り、意識を失った妹を抱きしめる。少年は震えた声で、彼女の名前を呼び続けた。
もう、危険はないだろうか。泣き嘆く少年を横目に、ルカはタスクに駆け寄った。
「大丈夫か?肩、見せてみろ。」
痛みを堪えるようにして、苦い顔をしながら肩を抑えるタスク。襲いかかられた時に噛み付かれていた場所だった。しかし、ルカの手は弾かれてしまった。
「いや、いいです。血は出てないです」
「血は出てないって、お前…」
「厚着してるから大丈夫です」
「でも—」
「しつこい」
「す、すまん…」
強がるだけの気力はあるのか。心配しながらも、少し平気そうなタスクを見てルカは胸を撫で下ろすのだった。
「……」
するとタスクは面白くなさそうなジトッとした目線を送ってきた。
「何一人でホッとしてるんです?用心棒失格ですよ」
「すまん。…まさか、急にあの子が動き出すとは思わなくて、完全に油断してた。あんな—…」
ルカはそれ以上続けられなかった。
タスクの視線が痛かったのだ。まるで「それ以上言うな」と言われているみたいだった。
(アムサは、姿形は人間なのに…どうして?)
夢か現実か。あの少女は人でありながら、本当に化け物としか言いようが動きと凶暴性を持ち合わせていた。
(俺は阿保だ…)
ルカはタスクの頬に出来た細かい傷を見て、後悔した。
「…無理やり連れてきた俺のせいだな」
強がって、平然とした態度を取っていても、体は正直だ。タスクだって本当は怖かったのだろう。タスクの手が微かに震えていた。
「ごめん」
ルカはタスクの手を強く握って頭を下げた。
「用心棒なのに…」
潮らしいルカの素直な態度。タスクはそんなルカに面食らっていたが、なんだかこんなに真面目に謝ってくるのがそのうち馬鹿馬鹿しくなって、いつものため息が漏れていた。
「…別に良いですよ。最初から期待してないですし」
「え?」
「それより、ルカさんは助けたかったんでしょ、あの子のこと。私はもう怒って無いですから」
「………なぁ、タスク。あれは、一体、何なんだ?」
俯いていたルカは、タスクをまっすぐ見た。何か向き合う決心がついた表情をしていた。ならば、タスクも応えるのみだ。
「この世ならざる者が住み着いてるみたいです」
そう言いながら、タスクは立ち上がり、そして、少年たちの方へと歩き出した。自分で思っているよりも、案外平気みたいだ。いつの間にか手の震えも収まっていた。
「なんだよ、この世ならざる者って…まさか、…悪魔とか言うんじゃないだろうな?」
戸惑いながらも、ルカも立ち上がり、タスクの後を追う。そうして二人はまだすすり泣く少年の元へと向かった。
「…悪魔ね。そう呼ぶ人もいますね。…。それより、今は少年の方が重症ですよ」
タスクは少年の傍に立つとしゃがみこみ、妹を抱え込む彼に優しく声をかけた。
「…傷、見ますね」
「……」
少年は答えない。相変わらず妹を抱えたまますすり泣くだけだ。あまり良くない精神状態だ。タスクはため息をついた。
「ルカさん、妹さんの事、小屋まで運んであげて下さい。ここだと冷えますし」
「は?…え、でも、お前」
「じゃないと、彼、ここから動かないじゃないですか」
タスクの少し困った顔。もう、襲われた事はどうでも良いのだろうかと、思ったルカであったが、本人がそう言うなら仕方ない。戸惑いながらも、優しい手つきで、少年の手を少女からほどき、ゆっくりとその身体を持ち上げた。
「っ……」
痩せ細った身体は驚くほど軽く、繊細で折れてしまいそだった。こんな身体で、タスクと戦ったのかと思うと恐ろしかったが、腕の中の少女は今もまさに息絶え絶えと言う様子で、恐ろしさよりも、哀れみの方が大きかった。ルカはゆっくり丁寧な足取りで小屋へと向かう。その後に、タスクが、歩く気力のない少年の肩を持ち上げながらゆっくりと続いた。
「はい、段差気をつけて。じゃあ、ここに座って」
小屋に入ると、タスクは少女の横たわるベッド脇に少年を座らせた。
そして、彼の腕にへばりつく赤く汚れた布を剥ぎ取る。傷は大きいがあまり深くない事を確認すると、持っていた鞄をあさり、薬瓶と包帯を取り出した。
「少し、沁みますから」
少年は何も言わず、ただ黙って、タスクの治療を受けた。その顔は疲れ切っていて、放心状態にあるようにも見えた。消毒して、薬を塗り、包帯を巻く。慣れた手つきだった。
「…はい、終わりです」
タスクがそういうと、少年の目から涙がこぼれた。
「…ごめんなさい」
「こういう時は『ありがとう』ですよ」
タスクは少年の頭をポンポンと優しく叩いた。すると、少年の目からはポロポロと次々に涙が溢れ、嗚咽も我慢できなくなって、しまいには床に頭をつけて泣き出した。
「ううう、うっ…お願い、俺、何でもするから!金だって払うから、だから、お願い!アムサだけは!!全部、俺が悪いんだ!!」
苦しい声で少年は訴えた。その姿はタスクの胸にも堪えるものがあったが、見逃す訳にはいかないのだ。でないと、この少年もいずれ不幸になる。今でも十分、不幸だが、その不幸に他人を巻き込んではいけないのだ。
「…この子はアムサじゃないよ。…もう人間じゃないんだ」
「っ……」
ルカは「流石にその言い方は」と言いたいのだろう。だが、ルカにこの会話に入り込むような隙はない。実際、アムサのあんな姿を見てしまっては庇いようが無かった。遣る瀬無くなって、ルカは伸ばしかけた手を引っ込めた。
「君は私よりたくさん、さっきのような彼女を見てきた筈だよ」
「…がう……」
諭すようにただ、厳しく言うタスクに対して、少年が小さく何か言った。タスクは聞き取れなくて首をかしげる。その隣にいたルカは驚いた顔をしていた。
「…違う!!アムサは人間だ!!!」
「…」
「アムサは、…アムサはまだ、妹としての、人間としての、アムサが残ってるんだ。さっきだって、俺の言う事は聞いた。俺は、俺は、ずっと一緒に居たのに!俺のことだけはアムサは食べようとしなかった!!まだ、アムサは、ぅっ、俺の、妹なんだっ!!!」
少年はグチャグチャの顔でタスクに訴えた。タスクは呆然としていた。ルカもだ。なんて言ってやれば良いか、掛けてやる言葉が一つも見つからなかった。
「…この子、今まで何人の人を食べてきたんですか?」
だが、タスクは冷酷にもそんな言葉を少年に投げかけた。少年は声にならない叫びを我慢するように、息を詰まらせ、その目からはまた涙が溢れた。
「っ…!!」
「…た、たく…さん。そんな、の、いちいち、数え…ない」
その時、ベッドの上から掠れた声が漏れた。少年はハッとして慌ててベッドにいる妹に声をかけた。
「アムサ!!?」
「お、にぃ、ちゃん?」
「お前、喋れるのか?」
アムサは朦朧とした様子で眼球を動かした。そして、タスクを見て笑う。
「…そ…の、ひと、つよ…い、から…」
少年はタスクを見た。タスクは温度のない声でアムサに尋ねる。
「美味しかったですか?」
「…ふふ、ごめ、ん、ちょっと、たべ、ちゃった…」
「え?」
と声をあげたのはルカだ。彼はタスクの隣で青くなってるが、青くなりたいのはタスクの方である。深いため息をついて、タスクはアムサに手を伸ばした。
すると、少年がアムサを庇うのように両手を広げ、立ちはだかる。
「…大丈夫ですよ。殺しません。ちょっと見るだけですから」
そう言ってタスクはアムサの手を握った。そして、アムサと視線を通わせる。瞳の中に緑の光と赤い光を見た気がした。
「…随分人の体に馴染んでますね」
アムサは笑う。得意気な顔をしているようにも見えた。
「まぁ、ね。もう、ど…っち、だか、わから…ない…ん…だ」
「そもそも何でこの体に?」
アムサは笑顔を絶やさなかった。
「アム、サ、は、3、ね、んまえに、いち、ど、しんだ」
とんでもない事を口走る彼女の言葉に、ルカは言葉を失った。おまけに、少女の声が二重に重なって聞こえる気がする。この不思議な感覚の正体が何なのか、その時のルカには知る術も無かった。
「その身体を貰ったってわけですか」
と、タスクが尋ねる。アムサはわずかに首を横に振った。
「い、や、アム…サ、は、ずっ…とそこに、いて、はなれ…なかっ…た。だ…から、わた…し、たち…は、ひと…つに、なった。わたし、も、はん…ぱもの、だっ…たから」
「…一体どうやったんです?貴方、普通の魂食いとは少し違いますよね?」
「…わ、からない。わたし、は…呼ばれ、た…だけ」
「呼ばれた…?アムサに?」
「ち、がう。人間、だ。わ、たし…の胸、みれば、分かる…」
タスクは少し躊躇いながらも、アムサの胸元をそっと捲る。その瞬間、タスクは固まった。
「魔術式…」
「なんだ?」
何があるのかとタスクの背後からルカが覗き込むと、アムサの痩せた胸元には、複雑な模様が刻まれた小さな丸い印があった。襟元を掴むタスクの手に力が篭っている。
「……」
「誰がこんなことを?」
「に、んげん…だ。顔は、覚え…て、ない」
「…そうですか」
ルカの目にはタスクがぐっと怒りを押し殺しているように見えた。どうしたのだろうかと見守っていると、タスクは不意に決意した表情に変わった。
「気が変わりました。貴方達を助けます」
「え?」とルカが思わず声を上げると、タスクは「なんです?」と眉を潜めて振り返る。これ以上怒らせたら面倒そうだったので、ルカは慌てて首を振った。
「いやいやいや、どうぞ。お好きに」
「ちっ」
すると、アムサが笑った。
「あ、りがと…。で…も、もう、いい。アム…サは、死…にたが…ってる」
最後の力を振り絞るようにアムサは言う。
「どうして?」
「ま…ちが…いだった、こと…にきづい…たの」
「人を殺した事?」
タスクがそう尋ねると、その後ろにいた少年はびくりと身体を震わせたが、反対に妹の方はびっくりした顔を見せてから、声にならない乾いた声で可笑しく笑った。
「くっくっ。…生…きる、ため、に、あな…たも、いの…ち、をたべ…る、でしょ…う?そ…れは、わる…いことだ、とは、お…もって、な…い…わ」
そう言って穏やかな笑みを浮かべるアムサを見て、ルカはゾッとした。こんな恐ろしい事を口走る彼女は一体何なのだろうという疑問がより強いものへと変わっていく。
「おい、タスク。お好きに、とは言ったが、正直どう考えても危険だ。この子は、やっぱり此処で片付けないとダメだ」
「ルカさん」
すると、タスクは低い声で応えた。
「人間側の都合を押し付けないで下さい」
改めてだが、やはり妙なことを言う旅人である。
「…?タスク、お前だって人間だろ?」
「……」
タスクは問いには答えずそっぽを向いた。なんなんだ、この子供は。
「…こいつを助けてくれって頼んだのは俺がだが、事情が違うだろ!人殺し助けて、これ以上街の子供が犠牲になったらどうするんだよ!!」
「…ふ、ふ」
「何がおかしい…?」
それはアムサの笑い声だった。アムサは視線でルカを探しますことが出来ず、空を見つめていた。もう目も殆ど見えていないのだろう。
「人は…勝手、だ。わた、し、達を…この体に…したの、は、お前と、おな、じ、にん…げん、なの、に…な」
アムサはまた笑う。その発言に、ルカは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
すると、タスクは相変わらず目を合わせようとしないまま、教えてくれた。
「ルカさん。彼女の元は“魂食い“と言って、実体を持たない悪魔なんです。本来は人や動物の魂が肉体を離れた時に、その魂だけを喰らうのですが…」
「だから何だ?俺たちにとって危険な事には変わりないんだ。子供ばかりを狙う化け物を放置できない!」
アムサにもこうなってしまった事情があると、タスクはそう言いたいのだろう。彼女もまた被害者なのかも知れないが、同時に加害者でもあるのだ。ルカとしては到底見過ごせない。
「生きる、ために、殺し、た、だけ。きみ、た…ちも、同じ…で、しょ?」
すると、アムサがルカに向かってそう尋ねてきた。
「同じなもんか!」
「……私、たち、には魔力が、ひ、つよう…だった、のよ」
「……なんだよ、それ」
ルカは眉を吊り上げた。一方のタスクは何か察したらしい。
「こ…のからだ、は、ひ…と…だから、ひ…とに、あう、も…のが、ひつ…よ…う」
「一般的に子供の方が魔力は多いですからね」
タスクの言葉に少女は頷いた。何故二人は分かり合っているのだろう。彼女を生かしておいて良いことなど何も無いのに、タスクは情でもうつって心変わりしたのか。兎に角、このまま話し合いをしていても、埒が開かない。ルカは部屋の壁にかけてあったロープを手に取ると、タスクに向かって言い放った。
「タスク、そこを退け。お前がやれないなら、俺がやる」
「……嫌」
「…タスク。そいつを生み出してしまったのが人間なら、その責任を持つのも俺たち人間であるべきじゃないのか?」
タスクは振り向こうとしない。アムサの手を握ったまま、彼女に寄り添っている。そして、タスクは吐き捨てる様に言うのだ。
「勝手に生み出しておいて、勝手に殺すのが責任ですか?随分と傲慢なんですね」
「タスク!」
「……」
暫くの沈黙があった。すると、またアムサが笑う。
「……ふふ」
ふと、アムサの手がタスクの頬に触れた。力のない冷たい手はするりと、胸元まで落ちてゆく。
「やさしいね…」
束の間、少女の瞳に少年の影が映った。斧を振り上げ、今にもタスクに襲いかかろうとしている。慌てて振り向いた時には、もう遅かった。
「え—」
嫌な音がした。痛みはない。代わりに、暖かかった。タスクはルカの胸の中にいた。ルカは尻餅をついて、その腕はタスクの背に回されていた。彼に手を引かれたのではない。タスクは突き飛ばされたのだ。慌てて振り返ると、そこには目を見張る光景があった。
起き上がったアムサに斧が刺さっている。そして、その傍で、少年が恐怖に打ちひしがれた顔で震えていた。
「あ、あああ、ああ、な、なんで!」
胸からにじむ赤い血。でも、彼女は少しも痛がったそぶりを見せない。それどころか、こんな状況にあるにも関わらず、彼女は笑いかけてきたのだ。
「アムサっ!!」
「お、にぃ、ちゃん…」
両手を広げ、兄へと伸ばす。刺さっていた斧がその身体から滑り落ちると同時に、少年は慌てて彼女の手を取って、妹と抱き合った。が、その身体に兄を抱きしめるだけの力はなく、グッタリとしていた。
「なん、で!!アムサっ!どうして!!」
少年は妹を抱いて大声で泣き崩れている。ルカは開いた口が塞がらなかった。
「タスクを…庇ったのか?あ、おい!タスク!」
ルカの胸元を突き飛ばし、呼び止める声も無視して、タスクは今しがた自分を殺そうとした少年の元へ駆け寄った。ルカも止めようと手を伸ばしてきたが、タスクはそれを軽く払いのけた。
「…アムサ?なぁ、どうしてだよぉ……!」
「…わ…たし、のため、に、おに…い…ちゃ…んが、ひとを、こ…ろ…して…しまう…から」
先程よりも小さな声でアムサは言った。少年はただ狂ったように妹の名を呼ぶだけだ。もう、彼女しか見えていないのだろう。すぐ背後にいるタスクの事など気にする様子もなく、妹を抱きかかえたまま泣いている。
タスクはこの状況に妙な違和感を感じていた。もし、あのままタスクを兄に殺させていれば、この少女は確実に生きながらえる事ができたのだ。だが、この少女はそれをしなかった。
「……さっきまで、生きるために命を食べるのはどうのって言ってたくせに。どうして私を庇ったんです?」
すると、少女は今度は、困ったように笑う。先程とは違う、優しい笑顔だった。それは愛情に満ち溢れていて、心から笑っているように思えた。
「…わ…たし、は、ひと…じゃ…ない、けど、おに…いちゃんは、ひ…と、だから」
「…」
タスクはそれ以上何も言えなかった。ただ、一つ、思ったのは、少年の言う通り、彼女は完全な化け物ではないと言う事だ。
(私を庇ったんじゃなくて、お兄さんを解放する為に…)
彼女は人を食うが、その心は慈愛にみちた、兄思いの妹である事に他ならなかった。
「お…にい、ちゃん?」
耳元で囁く妹の声はこれまでで1番小さなものだった。
「アムサ!?…な、なんだ!?アムサ!?」
それまで狂うように泣いていた少年は妹の呼びかけに反応した。余程、妹が可愛くて仕方ないのだろう。
「わ、わた…し、おに…いちゃ…ん、に、ころ…してもら…えて、しあ…わせ、だよ。」
「なっ!?何を言ってるんだ!!!」
「っ…。」
穏やかな笑顔を浮かべながらそういう彼女にタスクも息を飲んだ。感覚が人とはズレてしまっているからなのか、どうかは分からないが、アムサはとても幸せそうだった。
「おに…い…ちゃ…んは、もう、ひと、を…ころ…し…ちゃ、ダメ、だ…よ?」
「でも!!じゃないと、お前が!!そうだ、お前が食べないって言うから、薬師を連れてきたんだ!その人に薬を貰えば!!」
少年は妹を傷つけたショックで混乱しているのか、タスクがもう彼女を助けることは無いのに、そんなことを口走った。そんな彼をタスクは見ていられなかったのだが、幸いにもアムサが諌めてくれた。
「い…いの」
「でも…!!あ!分かった!あの人、食べれば!だってお前!そこの人に噛み付いただけで、話せるようになったもんな!待ってろ。いま、にいちゃんが—」
「ダメ。うれし…く…ない」
その口をアムサの人差し指が抑えた。少年は我慢できなくて、再びむせび泣くように崩れ落ちる。妹を失いたくない気持ちで彼の心は壊れてしまっていた。
「アムサ、どうして!!」
アムサはそんな兄の頭を優しく撫でた。
「もう、いいん…だよ。む…り、しな…いで」
「やだよ!!そんなの無理だ!!」
少年は怒鳴った。妹は驚いた顔をした。が、乱暴な言葉でも、その顔はやっぱり妹思いの優しい兄のそのものだった。
「俺はお前のために無理がしたいんだよ!お前が、お前が居なくなるのがやだからっ!!」
「…お…にい、ちゃん。ごめん…ね」
アムサは持てる力を全て使って、兄の頭を精一杯撫でた。
「も…う、いいか…ら、じ…ゆう、に、なって」
「…」
「じ…ゆう、に、いきて」
「…うん」
「…わた…し、の、ぶん、も、しあわ…せ、に、なってね」
「…うんっ」
少年は力強く妹を抱きしめた。
「い…まま、で、わた…し、の、ために、ご…めん…ね…」
折れそうなほどか細い腕は、力をなくし、少年の頭の上からするりと落ちた。首も足も、もう動かない。グッタリとしたそれはもう息もしていなかった。
だが、少年はそれを離さなかった。
「ありがとう…」
少年の口から溢れた言葉はとても穏やかなものだった。
「俺、お前の分まで、生きるよ」
タスクが居た堪れない気持ちで彼らを見守っていると、小屋の外から人の声が聞こえ始めた。激しく言い合う男たちの声だ。何事かと確認する間もなく、その声は近くなり、突然、開けっ放しの小屋の扉の前に誰かが現れた。
「動くな。」
銃を構えた男と、その背後にはリドリーがいる。
「あいつだ!!」
次の瞬間、銃声が森の中に響き渡った。
その場に崩れ落ちる少年。固く抱きしめていたはずの少女の体は無造作にその場に投げ出され、少年はもう二度と動くことは無かった。
「…え、なんで?」
タスクは驚きのあまり、それ以上何も言えなかった。ベッドが真っ赤に染まっていく。ただそれを眺めていた。
熱い。
燃えている。そう言えば、イツキも少年と同じ黒い髪だった。
背中に傷を負って、少女を庇おうとして。目の前は炎に包まれていて、叫び声が聞こえた。扉が開いていて、そこから仮面をつけた人物が去って行く。真っ赤な血が床に流れた。止めることが出来ない。どうすればいいか分からなかった。
「まって…まっ—」
途端にタスクの世界が暗くなった。大きな手がタスクの視界を覆う。ルカはタスクを自分の方へと引っ張り、その光景を自分の背に隠した。警察が小屋の中にズカズカと重い靴の音を立てて入りこんでくる。ふと、あかりが差し込む扉の方へ視線を向ければ、リドリーが小屋の外から険しい表情でこちらを見ていた。
「…脈はない。そっちは?」
「胸に斧でひとつき。ほぼ即死だろうな。」
「警部!見つかった骨、人骨で間違いないみたいです。」
「そうか、引き続き家の周辺を調べろ。」
そんな会話が聞こえてきてタスクは我に帰った。
「どうして、警察が!?リドリーさんまで…。」
タスクはルカの陰から出ようとした。しかし、ルカは立ちはだかり、タスクを自分の背から出さないようにしている。
「ちょっと、ルカさん!」
「外に出よう。…たぶん、リドリーさんから話を聞いた方が早いだろ。」
「…どういうこと?」
タスクは抵抗するのを辞めた。ルカの表情には感情が無かった。
言われるがまま、ルカに促されて、タスクは外へでた。扉の前に立っていたリドリーと目が合う。そして、一緒になってそこから離れた。去り際に、振り返ると、警察の二人が少年たちの身体を調べているのが見えた。
ルカは足が止まりそうなるタスクの背を優しく押して、リドリーの後に続くように促した。
そして、彼らは、小屋からそう遠くないその辺りで1番大きな木の根にタスクを座らせた。
タスクは少落ち着きのない様子でリドリーに尋ねた。
「どういう事ですか。なぜ、リドリーさんが、ここに?それに、警察まで…。」
「警察はわしが呼んだんだ。」
リドリーが言った。
「…それは分かりましたけど、どう言う事です!?」
タスクはリドリーに強い口調で尋ねた。原因の分からない苛立ちが、タスクの表情を険しくしていた。自分でも抑えられないくらい、胸の中に熱くて嫌な何かが燃え上がるのを感じた。
「それは、元は、わしがルカに頼んだから…。」
「頼んだ!?何を?」
怒りを込めてそう質問し、ルカにも厳しい視線を送る。しかし、ルカは何も返さない。代わりにリドリーが申し訳なさそうに言うのだ。
「その…お前があの子を追うようにだな、ルカに—」
「わかるように1から説明してください!!そもそも何で、わざわざ、私たちにあの子を追わせたんですか?自分で追えばいいじゃないですか!」
両手を大きく動かしながら、食い入るように怒鳴るタスク。リドリーは肩をすくめて、答えた。
「いやだな…あの子、うちの店に来た時から妙だと思ってたんだ。この街からしばらく孤児は姿を消していたのに、あの子だけ、生きてるのが不思議でな。この街で、子供ばかりが行方不明になる事件が多発してるのは知ってるか?」
「知らな—っ」
と言いかけて、また、タスクの脳裏に声が響く。確か、彼はあの少年と少女が事の真相を話している時に「でも、何で子供ばかり?」と少年に尋ねていたではないか。
「…ルカさんは知ってたんですね!?」
「うっ。」と困った顔をするルカ。咄嗟にリドリーが、返事をする。
「わし教えたんじゃ」
ルカを庇うように言うリドリーにタスクは舌打ちをした。
「…で?それが、今回のこの事とどう関係するんです?」
すると、リドリーは歯切れが悪くなって、タスクの顔色を伺うように話し始めた。
「いやーな、なんか妙だとは思ってたんだが、放って置いたんだ。そしたら、一月前から、急にうちに来るようになって…。金もないのに、薬が欲しいとか、抜かしやがるから、お前に相手させれば、一石二鳥だと—」
「で、私はまんまと利用されたわけですか」
「わ、悪い事をした。まさかこんな事になるとは…」
つまり、このずる賢いジジイは、面倒な得体の知れない謎の餓鬼をタスクに相手させる事で、問題を解決しようとしていたわけである。それも、ただの思いつきで。まさか本当にこんな重大事件に繋がっていたなんて微塵も思っていなかったのだろう。なんとも腹立たしい。ふと、タスクの頭の中には、もう一つ疑問が浮かんだ。
「でも、どうやってここに警察を呼んだんです?」
ルカが誰か外にいる誰かにこの山小屋で起きていた事を知らせている素ぶりは無かった。すると、リドリーは頭をかきながら話し始めた。
「それはぁ…だな。ルカにある薬品を持たせたんだ」
「薬品?」
なんだか嫌な予感がする。リドリーの顔が一瞬綻んだ気がした。
「歩いた後に跡が残るようにした。一見何も見えないが、別の粉をこうしてかけると、蛍光色に光るんだ」
リドリーはポケットから取り出した小瓶の蓋をあけると、中身をさっとばら撒いた。非常に細かい粒子が宙を舞う。こんな時だと言うのにリドリーは満足気な顔をしていた。
「ほら、そこに、黄色く光ってる線が見えるだろう。まぁ、雨が降ると流れちゃうんだけどな」
リドリーに言われて、道無き道の足元を見ると、確かに、黄色く光る汚れのようなものが葉や地面に付着していた。ついでにルカの足元を見ると、そこも黄色く汚れているように見えた。
「これで、店を閉めた後、跡を辿ってたんだ。そしたら、小屋が見えた途端、急にそこから、化け物に襲われたお前が出て来るもんだから、驚いたよ。それで急いで警察を呼びに戻った。警察の方もあのガキに目星をつけてたみたいでな。一ヶ月前に、この辺りを調査に来た警官が一人行方不明になってたらしい」
「え」
「おかげで話が早かった。兎に角、お前が無事で良かったよ」
「っ…!!」
リドリーは大変満ち足りた表情をしていた。何が「無事で良かったよ」だ。タスクにはそんな言葉、微塵も響かなかった。どうせ、その薬品の効果を確かめたかったが為に、ルカをも利用したに違いない。でなければ、リドリーがここへ来る意味も分からない。とんでもないクソジジイだ。
「…なるほど、ただ薬の実験をしてたってわけですか。くそっ!!」
タスクは勢いに任せて、拳で木の幹を打ち付けた。ルカはそんなタスクを少し落ち着かせようと、小さいうつむき気味の背中に呼びかけた。
「あの…な、リドリーさんは、お前の薬師としての腕を確かめたかっただけだと思うぞ?俺もお前の腕前、気になってたし…そんなに怒らなくても…」
「はぁ?」
タスクはルカのその弁明に目を見開いた。
「なにそれ…。あのね、ルカさん。この人、専ら薬にしか興味ないですし、私もルカさんも、面倒ごとの処理に結果的に利用されてたんですよ!?こんなクソオヤジを庇わないでください!!人が死んでるんですよ!?」
今度はリドリーを指差しすタスク。リドリーは決まりが悪そうな顔をして、小屋の様子を見るふりをする。小屋の周りには警官が増えていて、本格的な捜査が始まったようだった。
「…そう…だな」
「私にあの子を押し付けたのも、単に面倒な客を追っ払いたかっただけですし、腕を見たいってそんな純粋な師匠みたいな気持ち、この人が持ち合わせてる訳ないじゃないですか!!!」
「ひどい言い草だな」
流石に目の前でこれだけ罵倒されればリドリーからも乾いた笑いが溢れる。だが、タスクは猛獣のように唸るのだ。
「当たり前じゃないですか!!」
「ま、まぁ、わしはお前に感謝してるんだ。あのガキ、結局失踪事件の犯人だったって訳だろ?わしの趣味の実験が捜査の役に立ったって訳じゃないか。もうこれで、子供が居なくなる事もないし、平和になったんだ。そうだろう?お前はもっと誇っていい、なぁ、タスク!」
リドリーは両腕を広げて明るくそう言った。
「…誇っていいって。何言ってるんです?」
タスクは小言の様にそう言って、そっぽを向いた。リドリーとそれ以上話したく無かったのだ。主張も罵倒も、もう何もしたく無かった。ただただ、胸糞悪いこの気持ちをどうすればいいか分からなくて、黙り込む。
「むぅ…」
そんなタスクを見て、リドリーは肩を落とし、ルカに視線で助けを求めた。だが、ルカだってどうしていいか分からないのは、同じだ。リドリーに言うべき言葉もタスクに掛ける言葉も、結局見つからなかった。
*
街の新聞では、数年に渡った子供の失踪事件の全貌が明らかにされたが、その見出しは酷いものだった。
子供失踪事件解決!
犯人は凶悪兄妹?薬屋リドリーのお手柄!
その見出しの横には嬉しそうに映るリドリーの小さな顔写真。おそらくタスクが今までまた中で最も憎たらしい笑顔の一つであろうことは間違いない。そんな思わず穴を開けたくなるような写真の横にはつらつらと、事件についての内容が事細かに記されていた。
捜査をする過程で、あの小屋からは被害者の物と思われるいくつもの遺品が見つかったらしい。服や、靴。あの少女が寝ていたベッドの布に使われていた継ぎ接ぎの生地も全て、被害者の遺品であった。ただ、奇妙な事に、行方不明になった警官の骨は見つかったのに、それ以外の他の子供達の骨と遺体は未だに見つからないと言う。バラバラに切断されて、骨も砕けて捨てられたとか、山の奥深くの誰も立ち入れない場所に捨てたのでは?などの推測がなされたが、あれだけの子供が亡くなっているのに、埋めた場所が一つも見つからない事に人々は疑問を覚えた。
(大人の骨は見つかったって事は、あの子、警官は食べなかったのかな…)
ある人は警察を無能だといい、ある人は、これは陰謀で、私たちは何か隠されているのだと言った。
(魔術についての記載は…無し、か)
いずれにしても、この事件は真相の解明できない事件の一つとして、のちにこの地に語り継がれる事となった。
「…ふぅ」
あれから数日、タスクは小屋を訪れていた。
小屋の中は、遺品などは回収され、他は証拠品としてみんな片付けたれたようだ。そして、殺風景になったそこには花や、お菓子、小さなろうそくが沢山、手向けられていた。
タスクもそこに手を合わせた。
すると、何かの気配に気づく。扉の前に誰か立っている。何故かそれが過去に見た仮面の男のような気がして、タスクは慌てて振り返った。
「っ…」
手には汗をかいていた。急に早まった鼓動と呼吸が、すぐに落ち着きを取り戻す。
「…気のせい、か」
開けっ放しの扉から見える外は、晴れていて、穏やかだった。ふと、足に何か違和感を覚えた。見下ろせば、小さな山リスがタスクを見上げて鼻をヒクヒクさせている。
「…あ、こんにちは?」
すると、山リスはタスクの足を辿り、背中を辿り、腕の所までやってきた。タスクは慌てて、それに合わせるように、腕を高く保つ。山リスはタスクの腕に立ち、向かい合うと、手に持っていた胡桃を突き出した。
「…え、くれるの?」
山リスはコクコクと二回頷く。なんだかおかしくてタスクは吹き出してしまった。
そして、ありがとう、と言って胡桃を受け取った。
〈あなた様の唄を聴きたいのです〉
「ああ、あなた、喋れるんだ」
〈あなた様はヨビコですよね?〉
タスクは山リスにそう聴かれて眉を寄せた。
「…ねぇ、いっつも不思議なんだけど、貴方達ってなんでそれが分かるの?私、精霊避けの薬、飲んでるんだけど」
〈父が、ヨビコ様は東の土の匂いがすると言っておりました〉
「東の土の匂いって…そんなに分かりやすいものなの?」
タスクは自分の匂いを嗅いでみたが、やっぱり自分の匂いは分からなかった。
「…うーん、やっぱり分からないなぁ」
〈ヨビコ様は鼻が良くないのですか?〉
「まあね。人間は貴方達が思ってるほど鼻はよくないよ」
タスクは困ったように笑った。
〈そうでしたか…人も中々大変なのですね。匂いがわからないと、方向も今どんな相手がいるのかも分からないじゃないですか〉
「そうでもないよ。良い鼻は無くても、他に補えるものがあるからね」
〈はぁ、そういうものなのですか?」
「そういうものなの。…それじゃ、早速やろっか」
タスクは外に出た。リスはタスクの肩に移動する。
〈外で歌うのですか?〉
「うん、その方が気持ちいいでしょう?今日は晴れだし」
空を見上げると、綺麗な青空が木々の間からのぞいていた。
〈そうですね〉
「実はね、貴方に頼まれなくても、今日は歌うつもりでここにきたんだよ?」
〈はぁ、それはまたどうして?ヨビコ様は歌の名手でありながら、唄をあまり自分からは歌わないと聞いておりましたが…だからこうして貢物を〉
タスクは草の上に裸足で立った。大地を、草を踏みしめて、その柔らかさと暖かさを感じた。肩のリスは持ってきたナッツを高らかに掲げている。可愛いなと、タスクは笑った。
「そんな事ないよ。私たちは歌いたいと思った時に歌うんだから」
『エンネ、歌うの?』
『わーい!仲間が増えるぞ!』
その瞬間、耳元で綺麗な声が響く。すると、山リスは自分の目を抑えながら、タスクの肩の上で叫んだ。
〈どうしましょう。ヨビコ様の周りが輝いて、眩しいです〉
「ごめん、ごめん。精霊達が大はしゃぎで。ここは森の中だから余計にね」
キラキラと輝く沢山の精霊が小さな人型に姿を変えて、タスクの周りを踊った。彼らは普段、何処にでもいる存在だが、森の中ともなるとその数は桁違いで、少し煩いくらいだ。
〈こんなに沢山の精霊、久しぶり見ました…。さすがヨビコ様…!〉
「ああ、いや、なんか体質なんだよね…。普通はこんなに集まらないらしいんだけど」
〈そうなのですか?ああ、だから、精霊避けのお薬を〉
「まあね、そんなとこ。じゃあ、取り敢えず、ここじゃ眩しすぎるなら、窓の淵にでも座る?」
〈そうさせて頂きます〉
タスクが小屋の窓辺に手をかけると、山リスはその上を通って、お行儀よく座った。
タスクはそれを見届け、それから、深く一礼する。
「それでは、ここにいる全ての皆様に、唄を届けたいと思います。」
まるでショーマンがやるそれのようにタスクは深く頭を下げた。
山リスと、精霊達は楽しそうに拍手を送った。
『何を歌ってくれのー?』
『たのしみー!』
タスクは笑った。山リスの隣に拍手をしてくれる者がいたのだ。そして、どこからか誰かの泣き声も聞こえる。それらは、タスクにだけ見えていて、タスクにしか聞こえないものなのだ。急に胸が苦しくなって、タスクは俯いた。その様子を見ていた山リスが心配して〈大丈夫ですか?〉と、声を掛けてくれた。
タスクは、ゆっくり呼吸をして、心を落ち着かせると、目から溢れそうになる涙を堪えながら、笑った。
「…魂を風に乗せて運ぶ唄にしよう。種を花に変える唄だよ」
タスクは胸に手を当てた。息を吸い、そして、旋律を奏でる。ヨビコの唄に歌詞はない。音だけの唄だ。その歌は、風を呼び、枯れた葉を宙に舞わせた。
『僕これ好きー!』
『私もー!』
『春の唄だ!』
タスクが歌うと精霊達は踊り、風が何度も何度も優しく吹き上げた。舞い上がった枯葉は青々とした瑞々しい若葉に変わり、花びらが舞う。ヨビコがその中で歌う姿は、まるで春を呼ぶ妖精のように美しかった。
そして、歌い終わったタスクは清々しい気持ちでいっぱいだった。空気が澄んでいる。心なしか、先程よりも世界が明るいような気がした。誰かの泣き声ももう聞こえない。無事、帰ることが出来たみたいだ。空を見上げてから、一息つく。そして気がついた。足元が一面青い花に埋もれている。
「え、これって…」
しゃがみこんで、じっとよく見る。それは、どこかで見たことがある花だった。
「……ブルゴッチ?って!」
タスクは慌てて立ち上がった。
そして、また、確かめるように辺りを見渡した。よく見たら、青い花はタスクの立つ場所から、広がるように一面に咲きほこっているではないか。軽く小屋の周りを包み込めるほどに。
「……え、なんで?」
『なんでって、エンネが望んだから』
予想外の事態に、目を見開いたまま固まるタスクに、精霊は笑いかけた。
「でも、今までこんな事、無かったのに…」
『何言ってるの?』
『春の唄だもの』
『春に命を吹き込む唄だよ?』
『君が望めば花だって咲くさ』
精霊達は面白おかしくきゃっきゃっと騒いでいる。タスクは頭を抱えた。
「薬が効かなくなってきてるのかな…」
いつもより多い精霊達を前に、タスクは難しい顔をした。だが、ここで考えても仕方がない。この場所がこんなことになってしまったのがタスクのせいだと知られたら後々面倒だ。そうなる前に、さっさと退散してしまおう。
(…綺麗になったし、まぁ、大丈夫だよね?)
そう思ったタスクは、逃げるようにその場を後したのだった。
* *
その光景を、木の陰から覗く人物が一人。だが、タスクはその存在に気付くことは無かった。
「…」
木の陰からルカが足を踏み出す。タスクが見えなくなったことを確認すると、彼は足元に視線を移した。
「…こんな事もできるのか」
おもむろに、しゃがみこみ、青く咲く花を一つ、摘んだ。
「…ブルゴッチ」
汽車の窓から見たあの光景が脳裏に浮かんでいた。タスクもそうだったのだろうか。
青い一輪の花を見つめながらルカは思考を巡らせる。彼にはタスクが今日、ここに来た理由など分からなかった。
(ただ歌いにきた、って訳じゃないだろうな。花を咲かせるためってのも変な気がするし…あの歌、一体何の意味があるんだ?)
今朝の事だった。ルカはこっそりと宿を抜け出すタスクに気づいたのだ。もしかしたら、彼は自分から逃げつもりなのかも知れないと、そう思ったのだが、彼の商売道具である、薬の入った鞄は置き去りにされている。これは何か隠しているなとと踏んだルカは、タスクにバレないように彼の後をつけたのだった。
そしたら、彼はこの場所であの海で見た時と同じように歌を奏でた。あの時は違う旋律。でも、その音色はあの時と同じで、より、はっきりと聞こえた。あれはタスクの声だったのだ。
歌が始まると、あたりを風が舞い、空に向かって吹き上げ、タスクの足元からは、葉と茎が伸びた。それらはあっという間に一面に蕾をつけ、青い花が一斉に咲きほこった。まるで魔法にでも掛かったかのようなその美しい光景を、ルカはバッチリ捉えていたのだった。
(…陣の跡も無い。やっぱり、どう考えても魔法使いだとしか考えられないけどな)
ルカは指で青い花をくるくると、回す。
(ヨビコってやつに何か他にもっとデカイ秘密があるのか…)
ルカが立ち上がると、その拍子に青い花びらが一枚、ひらひらと落ちていった。
「…ちょっと帰るの遅くなりそうだな」
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