第2話 はじまりのうた


腕が引っ張られて痛い。自分はこれからあそこにある十字架に磔にされるのだ。ああ、神よ。俺はあの宗派じゃないんだ。寧ろ信仰心の欠片のない男なんだ。だからあそこに歩かせるのはやめてくれ。もうフラフラだ。


そう思うと体に衝撃が走った。どうやら倒れたらしい。


「そこで大人くしく寝てろ」


バタンと扉が閉まる音が響いた。扉の向こうでは会話が続いている。


「本当にいっしょにして大丈夫か?」


「仕方ねえだろ。どこもいっぱいだし、右の牢は鍵がぶっ壊れてる。手錠させときゃ問題ないだろう」


「そうか…。ともあれボスに報告しないとな。ギリギリで収穫があって良かったぜ。今回あんまり売りさばけなかったしよ」


「そうだな。ボスも警戒して、出発早めたらしいし。ところでさ、あいつ…20過ぎぐらいに見えたけどよ、大丈夫なのか?」


「けっこう綺麗な顔してたからそっち系なら人気でるだろ。ああ言うのは数が少ないから馬鹿高く売れるぜ」


「そう言うもんなのかー?まあ、金になるならなんでも良いけどよぉーあはっはっはっはっ!」


2人の男の笑い声が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなっていった。


(土の上じゃない)


倒れた男はまず最初にそう思った。2人の男の会話にまで頭を回す余裕なんてない。自分の置かれた状況を理解するので手一杯だった。よく見れば木の板、自分は床の上に倒れているではないか。十字架はどうしたのだろう。

二日酔いのせいか、船に揺られているような気がする。ギイギイと木組みが軋む音まで聞こえる始末だ。


「あの、大丈夫ですか?」


突然、鈴を転がしたような声で話しかけられた。見上げると茶色でウェーブのかかった髪にグリーンの目、そして、豊満な体を持つ美しい女性が男を心配そうに見つめている。


「夢か…?」


「え…っと夢じゃないわ。ここは船の上よ…」


「いや、違う。こっちの話だ」


「はあ…?」


美女は不思議そうな顔をして男を見ている。男は美女の背後に視線が行き、自分が置かれている状況にやっと気が付いた。この部屋は沢山の女性や子供で溢れかえっていたのだ。みんな小さく固まって黙っている。中には着ている服もボロボロで疲れ果てている者も大勢いた。

そして、彼らの首には重そうな鉄の首輪が括り付けられていた。


「奴隷船…か?」


「…ええ。でも、ここにいる子達の半分くらいは、誘拐された普通の家庭の子なのよ。私もケーアの港町に住んでいた者で、名はジュネよ」


「…ルカだ。…いっ、、」


名乗ったところで、起き上がろうとしたら、首の後ろに激痛が走った。随分と、酷くやられたらしい。思い返してみれば、昨日港に着いてからの記憶がない。


「容赦ねえな…」


首の後ろを押さえるにも手は手錠で塞がれている。ルカはマヌケな自分に腹が立った。


「大丈夫?」


「ああ、心配ない。えっと、ジュネさんはケーアから来たと言ったな。この船は各地を回っているのか?」


「ええ、そうみたい。私の後に来た子達はみんなケーアの隣のイーナンの国の者だったわ。ルカさんはどこから?」


「俺は旅をしてたんだが、この船に乗る前はヤークに居たぞ」


「まぁ、ヤークから。どおりで…」


「どういう意味だ?」


ルカは顔を顰めた。ジュネは感心した様子で話してくれた。


「どこかの港に着くと、いつも出入りが激しいらしいのだけど、今回はいつもより出入りが少なかったのよ。出て行ったのもほんの2、3人で、新しくここへ来たのはルカさん含めて6人だったわ。きっと彼らもヤークじゃ商売が上手く出来なかったのね」


「…6人って」


それでも結構な数だ。一度に行方不明者がこれだけ出れば流石に気付かないわけない。脳裏にやまびこの亭主の声が蘇った。「何が自警団だ、それみろ。お前の国の連中、連れて行かれてるぞ」と言ってやりたい気分だった。


「とは言っても、その6人のうち、ヤークの子は一人だけで、他はみんなヤークに来てた外国人らしいのだけど」


「どうしてそんな外国人ばかり」


「ヤークの子は皆んな自衛ができるから」


「………なるほど」


脳裏に得意げに笑うやまびこの亭主の顔が浮かんだ。『因みに、ヤークの一般人は女性でも武術を嗜みますから』と、頭の中の彼は言う。ルカは悔しいような、そうじゃないような微妙な気持ちになった。

ルカたちのいる、牢屋は鉄格子で区切られていて、隣の廊には、幼い子供達が隅の方に固まっていた。こちらを見つめる黒い目には恐怖の色が写っている。一方もう片側の廊は空っぽで、よくみたら、鍵が壊れていた。牢屋は壊れたものを含めて全部で6つ。それぞれ10人前後が詰め込まれている。


(ほぼ満杯状態か…。牢屋があるのはここだけか?)


ルカたちのいる牢にはルカを含めて8人。皆んな恐怖と絶望に打ちひしがれて、下をむいて大人しくしている。


「…でも妙ね」


ジュネはたくさん荷物が積まれている所を指した。その中の大きな木箱の裏に隠くれるようにして人がもたれ掛かっているのが分かる。さて、どうしたものか。その時、「キャ、ネズミ!!」と誰かが叫ぶ声が聞こえた。その瞬間に、船が大きく揺れて、ルカたちは体勢をくずした。


「大丈夫か」


「ええ」


「うわっ!」


ジュネの腕を掴んだその瞬間だった。牢屋の外で、荷物と一緒に何か転がる影を見た気がした。


「…?」


「ルカさん?どうかしました?」


「いや、今なんか外に」


物陰の何かはルカの声に驚いたらしい。貨物の木箱の陰で何かが揺れた。よくよく目を凝らせば、何か毛のようなものがぴょんと木箱からはね出ている。妙に見覚えのある髪色だと思った。


「…誰だ。出てこい。見えてるぞ」


「…」


船が軋む音がする。じっと貨物の先を睨みつければ、そいつはゆっくりと姿を現した。


「やっぱり、お前だったか」


蜂蜜色の髪を持ったあの旅人が乾物片手にそこにいた。白々しく笑って。


「おやまあ、偶然ですね」


「なんで、お前がここにいる?」


「それは、こっちのセリフです。…あ!もしかして、ババアの店でやらかして、売られました?」


「ちゃんと金は払った」


「じゃ、なんで…あ、酔っ払って人攫いのチンピラどもに勝てなかったのか。あれだけ飲んでましたもんね」


「何笑ってんだ!あんなに強い酒だって知ってたらセーブしたさ!というか、すごい額だったぞ!お前、俺に会計押し付けたな!」


「押し付けたなんて人聞きの悪い。私は一杯も酒飲んでませんもん」


旅人は我存ぜずと、そっぽをいた。そこには冷やかしも心配した気持ちも込められていない。ルカの目が据わる。


「ちっ、食えない奴め。……で、お前はこの船に何の用だ?なんでここにいる?まさか捕まったわけじゃないだろ?」


この中で唯一手錠をしていないのは旅人一人。


「別に大したことじゃないです。ポールホーンに行くのに丁度いい船があったんで、ちょーっと船内にお邪魔しようとしたら一悶着ありましてね。逃げられたは良いんですけど、商売道具置いてきちゃって」


「取り返すために戻ってきたのか…バカかお前」


「む、失礼な!あなたにバカ呼ばわりされる筋合いなんてありませんよお」


「なっ…」


何だこの態度は。この旅人はこの状況をわかっているのだろうか。船内にこんな子供がいると分かったら、すぐに捕まって奴隷として売り飛ばされて終わりだ。なのにルカに悪態をつくこの余裕っぷり。ルカは苛立ちを覚えた。


「ガキの来るところじゃないだろ。見つかったらお前もただじゃ済まないぞ!こりゃどうみても奴隷船だ。逃げられるならさっさと逃げろ」


「嫌ですよ。こっちはこっちでやることがあるんですから。それに、船はあいにくもう港を出ちゃいましたし。どうやって逃げろって言うんです?」


生意気な言い草である。旅人はそっぽを向いて、周りをキョロキョロと見回しながらそう言った。ルカはそれでもしつこく彼に向かって小さく叫んだ。


「こう言う船には必ず偵察用の小型ボートを積んでるものだ。探して、そこから手段を考えろ。まだ、港出てそんな経ってないだろ」


「それを一人でやれって?」


「…」


流石に返す言葉がなかった。確かにこの小柄な旅人では、一人でその作業はキツイだろう。泳ぐにも、まだ春は来たばかり。雪もふる事だってあるし、この時期の海はとても冷たい。死ぬ可能性だってある。ボードで戻るなら最低でももう一人、協力者が必要だ。どうしたものかと、ルカが苦い顔をしていると、なぜか旅人は牢の前まで近づいてきて、ニンマリ笑った。


「で、一人じゃ流石に無理なんで、手伝ってもらえます?」


チャラチャラと小さな金属音を立てるそれ。旅人の手にあるそれは鍵の束だった。


「お前、どこでそれ—」


「出れるの?」


そのか細い声は隣の牢から聞こえた。思わず、そちらに目を向けると、子供たちが悲痛な眼差しでこちらを見上げている。


「出して」

「お願い!」

「おうち帰りたい!!」


「ちょ」


子供達の声は大きくなり、それは他の牢に閉じ込められているものたち全員にまで一気に広がった。旅人の手にある鍵を見つめる子供たちの目線。ただ一点を見つめる彼らのその目は、口よりも彼らの必死な思いを語っていた。


「出して!!」

「その鍵、頂戴!!」


「だめ!!落ち着いて!皆んな!」


ジュネの声は子供達には届かない。出たいがあまり、鉄格子をガタガタと揺らすものまで。このままでは、まずい。今すぐ辞めさせないと、と思った瞬間、別の船室につながる奥の扉が乱暴に開き、銃声が響いた。


「きゃああああ」

「ナミ!!!」


銃声とともに牢の中で一人が倒れた。叫び声が響き渡った。船員の一人が、騒ぎに気づきたのか、牢屋まで降りてきたのだ。


「おら、うるせーぞ!!ガキども!大人しくしねえと、ぶち殺—、ぶっ」


「ふん!!」


誰もが怯えてパニックに陥ったその瞬間、貨物の上から飛び出した旅人が、扉の前で仁王立ちする船員の後頭部に一発かました。よほど強く入ったのか、男はその一発で気を失い、白目を向いたまま倒れた。


「ふう…危なかった。」


静まり返る牢屋内。肩の荷をおろして深いため息をつく旅人。彼は手に石のような、そこそこの大きさの物を握っていた。あれを武器として使ったのだろうが、一部始終をみていたルカは、旅人の行動にあっけに取られていた。体重が軽いからできるのだろうが、よく船員が入ってきたあの瞬間に、貨物の荷を駆け上がり、攻撃を仕掛けたものである。まるで猿だ。


「おい、今なんか……おまっ!」


別の男の声が扉の奥から聞こえた。銃声を聞きつけやってきたのか、若い船員が一人降りてきたのだ。そいつは旅人と床に倒れている仲間の姿を目にした瞬間、腰に構えていたナイフを手に取り、旅人に向けてきた。


「昨日のガキ!!」


その瞬間、旅人はニンマリと笑った。


「賞金稼ぎさん!!」


「は?っちょ!」


呼びかけられたと思えば、何かが鉄格子にあたり、軽い金属音が牢に響いた。旅人から投げられたそれは、ちょうどルカの牢の前に落ちてしまった。鍵だ。旅人のその行動に船員もまた気を取られたのか、一瞬のうちに間合いを詰められ、船員は転がるように床に押さえつけられてしまった。旅人は流れるような体さばきで、船員の上にのしかかると、その口に何かを勢いよく詰め込んだ。船員は涙目のまま、自分の上にまたがる旅人を見ることしかできない。


「あれ?思ったよりだな。ヤークの人でも手を焼くって話じゃ…」


旅人はぶつぶつと呟いている。ああ、このままでは死んでしまう!!船員はそんな恐怖と覚悟を胸に、口内に押し込められているものに目を向けると、その思考は一度完全に停止した。


(…いも?)


生のサツマイモが船員の口に押し込まれている。そして、いつの間にか、旅人は船員が持っていたはずのナイフまでも手にして、それを首に当てつけてきた。


「さて、と…。私、正直人を殺すのって得意じゃないんですよ。見ての通り、身体が小さいでしょ。だから、いっつもすぐ留めさせなくて、痛めつけるかたちになっちゃって…。しかも今回はこの小さいナイフですし、一思いに殺すのは難しいかな」


船員の目が恐怖と焦りの色に染まる。助けを呼ぼうにも、口に詰められた芋のせいで声もあげられない。そのうちに涙が溢れて、鼻水を垂らしながら呼吸が荒くなり始めた。


「あんたは、何回刺せば、死ぬんでしょうね」


真っ赤だった船員の顔はだんだんと青くなり、抵抗しようとしていた力も徐々に弱くなり始めた。


「おい。その辺でいいんじゃないか?」


背後から声をかけられた旅人は、ハッとして顔を上げ振り向いた。先ほどまで、牢に閉じ込められていたはずの、あの間抜けが立っていた。やっと牢屋から出てきたらしい。


「そうですか?」


「気絶してるぞ。そいつ」


「…あ、ホントだ」


船員は硬いサツマイモを口に加えたまま白目を向いている。鼻提灯がぷくぷくと膨らんでは弾け、膨らんでは弾けを繰り返していた。いかんいかん。このままでは、窒息死してしまうと思って、旅人はサツマイモを船員の口から抜き取ってやった。


「ありゃ…。いろいろ聞き出すのは難しそうだな、こりゃ」


一応息はあるらしい。いつ目覚める事やら。


「縄、あったよ」


すると、髪の長い痩せた少女がルカの背後から現れた。彼女もまた、ここに捕まっていた少女だろう。気がきく子だなと、すこし戸惑いながら、旅人は差し出されたそれを受け取った。


「あ、ありがとう」


「どういたしまして」


笑顔の可愛い子だった。痩せすぎで、服も姿もみすぼらしいが、とても奴隷船に捕まっている子の振る舞いとは思えず、妙な違和感を旅人は覚えた。


「何ぼーっとしてるんだ。早く縛っちまおう」


「あ、はい」


ルカに促され、旅人は思い出したように、手元の縄を使って、気絶させた男二人を縛り上げた。





「これで、全員出たな」


ジュネが中心になって幼い子供達を「静かにね。あなたたちが傷つけられることは無いから大丈夫よ」とまとめていた。

そうして、牢屋が空っぽになったのを確認すると、ルカたちは捕まえた男二人を牢屋に閉じ込めた。


「さて、これからどうするかだが…」


振り向けば不安げな表情の子供達。


「ルカさんが言ってた、小型の船。この船にあったとしてもこの人数じゃ、全員逃げるのは難しいよね」


「マオ、あまり子供達の不安を煽らないで」


「あ、ごめん」


先ほど、ルカたちに縄を持ってきてくれたこの子供はマオというらしい。ジュネに注意されて少ししょげていたが、彼女の言っていることは正しかった。それでもジュネは、不安になる子供たちに向かって「大丈夫。なんとかして、全員で逃げられる手段を考えましょう」と励まし続けている。


「そうだな…。とは言え、この状況で全員とは、流石に難しい。ごく少数の動けるもので脱出して、港に応援を呼ぶか。あとは、次の港に着いたタイミングでしか、逃げる方法しかなさそうだな」


「…ねえ、ジュネ姉ちゃん、僕たち走るの?」


「そうねえ…外に出れたらね。ここは海の上だから」


子供たちがまたジュネを見上げる。ジュネは困った笑顔で彼らに返答していた。


「その必要はありません。助けなら、港に用意させてます」


そう口を挟んできたのは、あの旅人だった。荷箱の上で紙をみながら、忙しなく、何かを記しているようだった。


「お前、そこで何してんだ」


「こっちの仕事です」


「仕事って」


「ところで私、シュウの婆さんの頼みでここに来たんですけど…ヤーク出身の人ってどなたですか?」


旅人は荷箱の上から見下ろして、こちらを見た。なんだか文字通りの上から目線で、ルカたちはあまりいい気がしなかった。


「私よ」


直ぐに答えたのはジュネだった。


「やっぱり。ケーアの港で乗り込んだのはあなたの方ですか?」


「ええ。…ユウナは無事?」


「…もう一人のヤークから作戦に派遣された子のことですか?重症だって聞いてますけど」


ジュネの顔はその瞬間強張ったが、何か堪えるように、すぐにその表情は落ち着いたものに変わった。


「っ…そう。でも、生きているなら…良かったわ」


彼女は自分の腕をギュッと握りしめながらも、ほっと息を吐き出した。


「…あと、もう一人いますよね。検問中にヤークで捕まった方」


「私のことね」


その一人は髪を一つに束ねた気の強そうなナミという名の女性だった。ただ、先ほどの襲撃で銃弾を腕に受けていて、縛った包帯には血が滲んでいた。旅人はそれを見るなり、少し苦い顔をした。


「あら、あなたでしたか…その怪我じゃ厳しいですね。どうしたもんかな…」


「シュウ婆さんから頼まれた内容って?」


ジュネが不安そうな表情で尋ねた。


「中の状況報告、それとこの船の妙な仕掛けの破壊」


「仕掛け?私の時には言われなかったわ」


「後から分かったことですから、仕方ないですよ。この船、外から見つからないように魔術が掛けられてるんです」


「…魔術?って何?」


と、マオ。


「妖精や魔物の力を模倣して人用に転用した技術です。西の方では結構開発が進んでるらしいですけどね」


静まり返る場。ジュネは困った表情でルカを見てきた。突拍子もない話に困惑しているらしい。すると、ルカのすぐそばで乾いた笑い声が聞こえた。ナミだった。


「妖精や魔物って…居たのは何百年も昔の話でしょ?」


「そう思いますか?」


旅人はナミを見た。ナミの方は少し困った顔をしていたが、それから、少しバカにするように笑い飛ばした。


「だって殆どが眉唾物でしょ?前に魔法使いだか魔術師だか名乗ってた奴がヤークに来た事があったけど、簡単な物探しの魔法しか使えなくて、拍子抜けしたわ。そんな大層な物だとは思わないけど」


「…そうですか」


旅人は差して気にした様子もなく、冷たい表情で立ち上がった。ナミはその態度に腹を立てムッとしていたが旅人は相変わらずマイペースだ。


「…やっぱり探索の必要がありますね」


旅人はやっと荷箱の上から降りて、何やら、数ある荷箱のラベルを調べ始めた。


「探索って…一体何をするつもりだ」


ルカが尋ねる。最初こそ、ただの小さな旅人かと思ったが、それなりに強いし、我々を助けるために潜り込んだのは間違いなさそうである。しかし、一つ不可解なこともある。もし、旅人の言うことが本当ならば、この旅人は外から見つけられないこの船をどうやって見つけて潜り込んできたのか。どうにかする方法があったとして、どうして一人で乗り込む必要があったのか。この旅人はそもそも何者なのか。ルカは真剣に何かを探す彼に疑いの目を向けていた。


「いいですか?港で保護してもらうに当たって、まずこの船を見つけてもらわねばなりません。だから、この船に掛けられている魔術を破壊しなきゃいけない。あなたは見たところ西から来たようですから、魔術については知ってるでしょう?」


「…」


旅人は確信を持ってルカに尋ねている。食えない奴だと思いながらもルカは頷いた。まずは、ここから出なければならない。話はそれからだ。


「…で、どうやって破壊する」


「策はあるんです。核になってる術式の陣を見つけて壊しゃあいいんですが…」


すると旅人の歯切れが急に悪くなった。


「何か問題が?」


「…今手元に無いんですよ、陣を破壊する為の道具。この船のどこかにある筈なんですが」


「この船にあるって…あ、さっき言ってた忘れ物かよ!」


「む…失礼な!忘れたって言うか、紐がボロくて腰から外れちゃったんですよ。その拍子に落として…」


「間抜けだなぁ。お前、少なくとも依頼で俺たちを助けに来たんだろ?そんな適当な準備で良くもまぁ…」


「う、うるさいな!それに、勘違いしないでください!!私が頼まれたのは、あくまで状況報告と仕掛けの破壊だけです。救出は専門外。元はそっちのヤークの人の仕事です」


「あ?なんだと!?」


「ちょ、ルカさん!あまり、喧嘩しないでください。子供達も怖がっちゃいますし…それに、本当のことですから。シュウ婆さんのことだから、その人に出来ると判断した仕事しか回さないはずです。それに、そこの方はヤークの人じゃありません。きっと、善意で協力してくれてるんですよ」


声を荒げるルカを諌めるように、ジュネは言った。旅人はため息まじりに、頭をポリポリ掻いてそっぽを向いた。


「…そうなのか」


「ええ。ヤークの人かどうかはその方の気を見ればわかりますから」


「気?」


ルカが首をかしげる。すると、今度は旅人が貨物の箱の間から口を開いてきた。


「ヤークの人が強い理由ですよ。普通に考えてこんな可愛らしい女性が強いわけないじゃないですか。その強さには理由があるってだけの話です。あなたが負けたシュウ婆さんはその気の最強の使い手なんですよ」


「そ、そうなのか…」


なるほど、その『気』と言うのが何なのかはさておき、ただの小柄な民族に見える彼らが強い理由があると言う事は取り敢えず理解した。が、なぜこの旅人はさして興味も無さそうに物を語るのか。旅人の視線はルカたちではなく、一つの荷箱にじっと向いていた。


「…ところで、これ」


ふと、旅人は大きな貨物用木箱をバンっと叩いた。すると、中ではガシャリッと金属やガラクタが詰まったような音がした。


「燃料ってなってるんですけど、変じゃないですか?」


「…は?」


この状況でよくそんな突拍子もないことが言えるものである。この旅人は一体何がしたいのか。その不可解な行動にルカは眉をひそめた。そんなルカの不機嫌そうな顔はいざ知らず、旅人は木箱に顔をくっつけてすんすんと鼻を鳴らしている。そして小さく「悪くない」と呟いた。


(何が、『悪くない』だよ)


「開けてみましょう」


ずいぶんと楽しそうな笑顔になったかと思えば、旅人は徐に何かを探し出した。そして近くにあった壊れた椅子に目をつけると、それを思いっきり蹴り飛ばして破壊し始めた。周りのみんなが少し引いた目で不安そうにその様子を見守っていたが、旅人は特に気にする様子もない。椅子は跡形なく無惨な残骸となり、そうして、旅人は丁度いい頃合いの木片を手に取ると、先ほどまでじっと見ていた木箱の蓋の隙間に、それを差し込んだ。そこに自分の体重をかければ、メキメキという音ともに、蓋の隙間が広がっていく。


「むっ!!!…くっ!!」


だが、これがなかなか重い。蓋を開けられず四苦八苦していると、マオが手早く手を貸して、ベリベリっと音を立てながら、やっと蓋がすべて開いたのだった。


「…ふう、ありがとうございます」


「これって…」


中をみて、目をパチクリさせるマオ。一体何が入っていたのか。だが、ルカたちからは何も見えない。


「ええ。やつらの燃料ですよ」


「これが?」


マオは側の樽を足場にして、箱全体を覗き込めるようにすると、その大きな貨物箱の中に、上半身ごと手を突っ込んだ。そして再び上体を起こした時には、その手には古びた小刀が握られていた。隣にいた旅人はそれを目にするなり、嬉しそうに笑った。


「おお、いいの拾いましたね。中々見る目がある」


「どう言う意味?」


「貸してください」


「…ほら」


少し迷ったがマオは言われた通り、旅人にそれを差し出した。一見ただの小刀だが、旅人はそれを受け取ると、その刃を優しく丁寧な手つきでそっと撫でた。その一瞬、妙に美しく見えた刃は、壁から漏れる日の光を反射する。ところどころサビがあるが、柄の部分の作りはしっかりしていて元は良いものだったと分かった。旅人は小刀をしっかり握ると、もう片方の手でマオの手枷の鎖部分をつかんだ。


「流石に無理じゃないか?」


小刀でこの太く丈夫な鎖を壊そうと言うのか。流石に無謀すぎると、ルカは笑った。が、旅人が2回、コンコンと小刀と鎖を鳴らせば、鎖は簡単に二つに割れてしまった。


「はい」


「……は?」


あまりに予想外というか物理法則に反した出来事に、ルカは間抜けな顔で旅人を見ていた。


「…ここにある加工品、一見ただのガラクタですが、それなりの力がこもってるんですよ」


旅人はそう言いながら、マオの手を取り小刀を握らせた。マオは手にある小刀に釘付けになっていた。そして、何か思い立ったか、踵を返して、子供達のもとに駆け寄ると彼女たちの鎖を次々に小刀で断ち切り始めた。


「…それなりの力って?」


何か鬼気迫る様子でひたすら子供達の鎖を断つマオを横目に、ルカは旅人に尋ねた。


「私たちはヌチって呼んでます」


「ヌチ?」


「西の人が言うところの魔力ですよ。賞金稼ぎさん」


その時だった。ちょうどマオがルカの元まで来て鎖を断ち切ろうとした瞬間、鈍い音が鳴った。


「え?」


「あら、限界がきたみたいですね」


限界。その言葉にマオの持つ小刀を見ると、それは黒く変色してサビまみれになっていた。マオがそっと指で触れば、ぽろっと破片が床に溢れた。


「どうして?」


マオはとても悔しそうに錆びた小刀を見つめる。


「魔力を使い果たして、本来のあるべき姿に戻ったってだけですよ」


旅人はマオの背中から覗くようにして、小刀を見下ろす。


「…これが本来の姿?」


「ええ。それだけサビてボロボロってことは余程古い時代に作られたものなんでしょうね。良かったですね」


「……」


「おいおい、何が良かったんだよ」


落ち込むマオの代わりにルカが旅人に不満をぶつける。旅人はトゲのある返事にすこし驚いたのか、きょとんとしていた。


「…歴史的に価値のある代物に触れられたってことですよ」


「はあ?」


「ご覧の通り、それだけの錆がついてる時代のものですよ。一体何百年前のものだって話な上に、魔力まで込められてたんです。どっかの屋敷からくすねてきたか、遺跡でも漁らないと普通こんなもん出てきませんよ。この箱に入ってるものはほとんど全部、本来なら博物館送りにするべきものばっかりなんです」


どうやら旅人は至極真面目に言っているらしい。ルカは眉を顰め、自分の手首にある枷と、マオの手枷の跡が赤く残る細腕を交互に見比べた。


「…お前、それ、この状況で言うことか?俺、まだ鎖取れてないんだけど」


「………あなただけじゃ有りませんけど」


「違う!!そうじゃない!!これから魔術式さがしに船内を探策するんだろ!!男の俺が動けた方がいいだろって話だよ!」


「…」


すると、旅人はその茶色の瞳をまん丸にして、息を詰まらせたかと思えば、パチパチとなんども瞬きを繰り返した。


「…手伝ってくれるつもりだったんですか?」


「いや、驚きすぎだろ!」


「いやぁ…すみません。てっきり、最初から作戦では男手を期待してなかったので…。ヤークの人もいるし、何とかなるかと思ったんですが、そうか…」


今更気づいたのか、この旅人は。ルカは自分の気持ちとは裏腹に、旅人の期待値の低さにがっくりと肩を落とした。


「普通、逆だろ!こう言う時は、女じゃなく、男を頼るもんだ」


「……おお」


「改まって感心するな!ったく…」


周りから期待と憧れの眼差しで見られるのは小っ恥ずかしいものではあるが、これがあるべき姿であることは間違いないと、ルカは自分に言い聞かせた。というか、旅人の感覚がおかしいのだ。きっとそうだ。


「なら、僕もいく」


「は?」


すると、錆びたナイフを見つめ、落ち込んでいたマオが顔を上げた。その顔は何か決意に満ちていて、彼女はルカの顔の真下まで迫ってきた。


(…あれ?)


そして、違和感に気がついた。硬い。痩せて、骨ばかりなのは確かだが、良くよく見れば女子のそれとは違うその骨格。の、ような…。


「僕も男だ!それに船内のことなら、この中で僕が一番知ってる。主要な部屋なら案内できる!」


「え、男?」


声だって、少女のようなのに。耳を疑っても、疑いきれない。だって、少女の声だ。


「そうだよ。髪が長いせいで間違えられるけど、立派な男だよ」


「ダメです」


混乱するルカを横目に、彼の切なる願いを断ったのは旅人だった。


「男だろうが、女だろうが、関係ないです。外に出たら弱いものは死ぬんです。船内を探索するのは、この賞金さんと、ヤークのお姉さんと私の3人でいきます」


「待ってよ!見た所君だって僕と年が変わらないじゃないか!どうして君はいくのに、僕はダメなのさ!」


確かに、マオの言い分は一理あった。いくら強いとはいえ、旅人はどう見ても子供。こうして、並んで立つと、旅人はまるでマオの友人のようだった。マオがそうやって文句を言うと、旅人の目は急にじとっと細くなって、少年を見つめた。その目は明らかに、色々と面倒になっている目だった。


「…マオって言いましたっけ?幾つなんです?」


「じゅ、…15」


恐る恐る答えたマオを、旅人は鼻で笑った。そして、なんとも腹の立つ勝ち誇った表情で言うのだ。


「私これでも、今年で18になるので。では、君はお留守番で」


「はあー!?っむ!!んー!!」


声を荒げたマオだったが、その口はルカの両手によって塞がれてしまった。ルカの冷たい手枷が、マオの首枷と擦れて少し嫌な音がした。


「まあ、落ち着け、マオ。あんまり騒ぐと、連中が気づく。ところで旅人さんよ、俺とジュネさんとお前が行くとして、誰がここを守るんだ?」


ルカの指摘に固まる旅人。どうやら、完全にその事を忘れていたらしい。確かに、再び、今牢屋に捕まってる連中のような輩が来てもおかしくない。護衛は最低でも一人は必要だ。旅人は頭をフル回転させ、そして一人、絞り出した。


「…んー、ナミさん?」


「おいおい。幾らヤークの人が強いとは言え、彼女はけが人だぞ?」


「……」


確かに。この男の言う事は一理ある。我ながらアホな答えをしたと旅人は思った。


「それに、この人数の子供達だ。ここの護衛なら俺かジュネさんが残るのが良いだろうがー…」


そこまで言いかけて、ルカは子供達の方を見た。特に幼い子供達はジュネにべったりくっついたまま、連れて行くなと言わんばかりに、こちらに敵意を向けている。これにはジュネも苦笑いだ。


「な?」


どうやら、ルカは子供達に嫌われているらしい。かわいそうに。


「…わかりました。じゃあ、賞金さんと私で」


「おいおい、そう急ぐな」


踵を返し、さっさと向かおうとする旅人をルカは止めた。止められた旅人は至極不機嫌そうな顔でルカを睨んでいた。


「お前、行き当たりバッタリで行くつもりかよ?」


「…それしかないでしょう」


「俺この状態だぞ?」


すると、ルカはジャラッと音をたてて、これ見よがしに手枷を旅人に見せつけてくる。お陰で口元が自由になったマオは、ルカの手枷を見上げると、すこし申し訳なさそうに俯いた。


「…何か良い策でも?」


早く探索に行きたい旅人は、片方の眉を吊り上げてルカに尋ねた。全く、何かにつけて文句の多い人である。この状況で最善と最高のコンディションを求めようとするだけ無駄なのに。すると、彼はなんとも気味が悪い事に楽しそうに笑うのだ。


「こいつさ」


ルカは顎でマオの方を示した。当の本人はびっくりした顔をして、ルカを見あげた。


「…お前、船内案内できるんだろ?」


「…うん」


マオは戸惑いながらも、嬉しそうに頷く。


「この鍵の場所があるの、どこかわかるか?」


「多分、ドランコの部屋だと思う。髭面で右目に眼帯付けてる男。あいつが奴隷売買の責任者だから」


「詳しいんですね」


旅人が言うと、マオは少し困ったように笑った。


「…僕、男だからたまに人手が足りないと牢屋の外で下働きさせられるんだ」


何だか健気というか何と言うか。年端もいかない子供が強がって見せる顔じゃないなとルカは思った。見た目よりだいぶ彼は苦労している。そんな彼に旅人は厳しい視線を向けながらも、やっと折れる気になったか、深いため息をついた。


「はぁ……わかりました。案内してもらいましょう。ただし、身の危険を感じた場合や、私たちが逃げろって言ったらちゃんと言うこと聞いてくださいね。守るのは得意じゃないんです」


「わかった」


「それじゃ…君にはこれを」


そう言って、旅人はナイフを差し出した。


「あの船員が持ってたものです。まあ、何かと使えますから持っておいてください」


「…ありがとう」


マオはナイフを両手で慎重に受け取り、まん丸の目で見つめていた。どこか困惑しているようなマオであったが、少し嬉しそうでもある。なかなか旅人も気が利くところがあるなとルカは内心、感心していた。


「いいえ。それで、賞金さんにはこれ」


どうやら、ルカの分もあるらしい。正直ルカも少しばかり期待していたのだ。というのも、旅人はしきりにあの”燃料”の中身を漁っていた。最初から探索する気満々だったし、おそらく武器として使えそうなものを探していたのだろう。きっと何か、すごいものに違いない。


「どうぞ」


旅人が差し出したそれは、この世のものとら思えないほど美しく黒い艶を放ち、見た目より重々しくみえた。


「……え、なにこれ」


「何でも美味しく焼けるフライパン」


「…」


いや、それは見ればわかる。誰がどうみてもフライパンだ。不審と疑念の目を向けるルカ。だが、旅人は大真面目だった。


「護身用ぐらいにはなるでしょ」


「ふざけるなよ。これ使うなら、まだ銃のが良いだろ。さっきの船員の男が一人持ってたろ。あれはどうした?」


「ああ、探したんですけど、倒した時にどっかにいっちゃったみたいで。荷物の隙間にならあるかも知れないですけど、もうそんな暇ないですよ」


なんということだ。フライパンで銃や刃物を持った相手と戦うなんて、ほぼ丸腰みたいなものじゃないか。わざとかこいつ、とも思ったが、他に持っていけるものなどない。


「……まあ、無いよりかはマシか」


ルカはしぶしぶ旅人からそれを受け取ると、深いため息をついた。うむ、実にいい料理ができそうなフライパンだ。美しくも使い込まれた持ち手の部分が、しっかり自分の手に馴染む。こんな状況じゃなきゃ、ちゃんと料理に使ってやったのに。


「で、お前は?なんか持ってくのか?」


「ああ。私はこの鉄扇です」


「…それ武器なのか?」


旅人の手にするそれは、銀色に輝く鉄製の扇子であった。広げれば一体どんな美しい景色を見せてくれるのだろうとルカは期待したが、旅人は扇子を畳んだまま、手でぽんぽんと拍子を打っている。見た様子ではそれなりに重そうだ。フライパンといい、この旅人は鈍器系の重い武器が好みなのだろうか。それとも、武器になりそうだったのが、これぐらいだった、ってだけの話だろうか。だが、少なくとも鉄扇の方がフライパンよりは様になる。「やっぱり、こいつ、わざとフライパンを俺によこしたな」っとルカは流し目で旅人をみていた。


「さあ。使い方次第だと思いますよ。なんせ、そのフライパン、船で一番使えるものらしいですから」


「らしいって…」


まるで、誰かから聞いたようかの口ぶり。顔を顰めるルカだったが、旅人はそんなの構わず、ドアノブにゆっくり手をかけた。


「…では、皆さん、ジュネさんの言うことをよく聞いて、大きな危険がない限りここで待っていてくださいね。必ず、ヤークの助けが来ますから。それまでは、私が皆さんを守ります」


(…こいつ)


不安げな表情を見せる彼らに、旅人は微笑んだ。さっきまで、助けるのは自分の仕事じゃないと悪態をついていた旅人であったが、根はいいやつなのかもしれない。いや、そもそもそうじゃなきゃ、こんなところにわざわざ乗り込んでくるわけがないのだ。そう、旅人への印象を改めなおすルカであったが、それも女性たちの旅人にむける視線の様子で気が変わった。旅人に注がれる熱のこもった視線。みな揃って頬まで桃色に染めている。


(見かけによらず、タラシだな。)


そうして、3人は奴隷用の船室を後にしたのだった。





波の緩やかな、昼下がり。光の入る豪華な船室で彼は皿の上の肉を切り刻み、口に含んだ。

弾力のあるその肉は噛めば、じゅわっと肉汁があふれ、赤みの瑞々しさを感じることができた。悪くない肉だ。そのはずなのだが、どうやら今日は男の機嫌が悪かったらしい。彼は口に含んで、2、3口噛むなり、その肉を吐き出した。


「…最低だな」


「っも、申し訳ございません。何か、お気に召さないことでも?」


側仕えの青年は震えながら、頭を下げた。実は彼はこの食事を運んだ時から、こうなることを予期し、恐れていた。


(…やっぱり!!)


「…お前は、俺に犬の飯を食えと?」


「いえ。決してそんなつもりは…」


だが、そのシェフは料理ができた時点でものすごく浮かない顔をしていた。なんでも、『大事なフライパンをなくした』とか。『先日、誰かが掃除をした際に捨ててしまったのかも。…見た目はすごく古いものだから。』と。だが、この話をこのお怒りの主人にしていいものか。それに、彼をこれ以上下手に刺激したら、どうなるか分からない。だって…。


「ふざけるなよ。犬の飯と人間の飯の区別もつかないのか、お前は!!」


側仕えの背後でガタガタと激しい鉄格子の音に混じって、うなり声がする。その瞬間、主人は、皿ごと肉を投げてきた。側仕えの青年の服にはソースが飛び散り、肉は彼の横をすり抜け、皿の音が彼の背後で弾けた。


「ふ、フライパンが!!…っ」


背後では、鉄格子がしきりにガタガタと鳴り響いている。中で何かが暴れている。青年は恐怖で体が震え始めた。一体、自分の背後には何がいるのか。主人は一体何を飼っているのか。


「フライパンがどうした…」


「は、破損したようで」


震えた声で青年がそう答えると、男はしばらく黙り込んだ。そして、背後の鉄格子の音に混じって、彼の笑い声が次第に聞こえてきた。


「…は、ははは。破損か。…もう少しマシな嘘をつくんだな」


ドンっと音を立てて、主人はナイフをテーブルに突き刺した。青年の肩は音とともに激しく跳ねた。


「魔術師の見立てでは、あのフライパンには向こう50年は使えるほどの魔力が込められているという話だった。それが”壊れた”、というのか?お前は」


(ば、ばれてる…!!)


本当のことを言うべきか。いや本当の事をいえば、嘘をついたのを認めたことになり、自分がどうなるか分からない。

しかし、このまま嘘をつき通してもボロがでてしまう。


「も、申し訳ありません。で、ですが、シェフの話によると、いつものフライパンが使えなかったと…」


まるで、人を殺さんとする目線で、こちらを睨む主人。青年は声だけでなく、足まで震え始めた。背後の獣が唸り声を再びあげる。青年の目には涙が浮かんでいた。


「…ふん、仕方ない。ドランコのところへ行け。奴に代わりを用意させろ。倉庫はあいつが管理してるからな」


「か、かかしこまりましたっ!!!」


青年は、体を震わせながら深々と頭を下げて、その場から逃げるように慌てて部屋を後にした。結局、彼が背後を振り返ることは無かった。


「…ふん。腰抜けが」


一人になった主人は、酒の入ったグラスを手に取り、立ち上がった。そして、日の差し込む窓辺へと歩を進め、その先にグラスを透かしてみた。


「…まるで血の色だな。うまいか?」


その傍らでは、獣の鼻息が響いている。先ほど投げた肉の残りでも必死に食っているのだろう。主人はおもむろに、檻を隠している布地を手に取ると、それを引きずるようにして、取り上げた。中の獣は思った通りの姿だった。


「ハハッ。醜いな…そうしていると、ただの獣と変わらぬなぁ」


男はこの船の船長だった。






「奴隷用の部屋は船尾の一番地下、貨物倉庫と同じ階にあるんだ。この上の階は中央が動力中枢系で、船首の方には食料庫、船尾は談話室とか中堅乗組員の部屋がある。確かその辺りにドランコの部屋もあったはず」


マオの案内で、3人は、着実に人目を逃れながら目的の部屋へと向かっていた。昼の時間からか船尾に大したものが無いせいか、中で見かける船員たちも疎らで、やり過ごすのは難しいことではなかった。船員が通り過ぎるのを待ち、見えなくなると、彼らは、マオを先頭に、また物影を移動した。


「なあ。あっちにも階段があったけど」


「あっちは、下っ端が主に使う階段です。動力源に近いので人の通りが多いと面倒でしょ。それより、船尾の奥のハシゴ階段は、中堅しか使わないし、ドランコがそこを利用してるのを何度かみました。だぶん奴の部屋がその近くにあるんだと思います」


「なるほど。やっぱりお前がいて正解だな」


ルカがそう褒めると、マオは少しだけ嬉しそうに頷いだ。彼らは物影を伝い、そうして、例のハシゴの前まで辿りつくと、マオは先に登って、天井扉の鍵穴を覗き込んだ。


「…やば」


焦った顔で、降りるマオ。どうしたのかと焦った旅人とルカは彼の肩をよせて耳を済ませた。


「います、ドランコの声がしました」


興奮気味に小さな声でマオは言った。旅人はハシゴの先、天井扉をじっと見上げた。


「なんで、鍵があるんですかね?共同の階段じゃないんですか?」


「…わかんないです。ここから人が降りてくるのは遠目でしかみたことが無かったので」


「…もしかして、この先、ドランコの部屋なんじゃないか?」


ルカの一言に旅人もぽんと手を小さく鳴らした。


「おお。それあり得ますね。突入しましょう」


「え!?」


と、驚くマオ。その横で「そうだな」とルカが頷く。


「マオはここで待ってろ」


「で、でも」


ぎゅっと腰にしまったナイフを握りしめるマオ。その姿をみて、隣にいた旅人は内心感心していた。恐怖に立ち向かわんとする勇気がある。一体、何が彼をここまで駆り立てるのか。でもこうも緊張しててはいい動きは出来ない。旅人はわざと気の抜けた声で彼に言った。


「大丈夫、この男がなんとかしてくれますよ」


「おい、こら。お前も手伝え!鎖のせいでうまく出来ないんだよ」


「ええー、しょうがないな」


「穏便に、だぞ」


「わかってますよ。ヘマしないでくださいね」


「こっちの台詞だ」


二人は、そろりそろりとハシゴを登り、扉の前でルカは見下ろし、旅人は見あげ、互いを見合った。


「…3つ数えたら突撃だ」


ルカの言葉に旅人は黙って頷いた。


「よし…1、2、さん!!!」


ルカは勢いよく天井を押し上げると、正方形の扉が鋭い音を立てて開き、2人はそこから放たれる矢の如く飛び出した。


「な、なんだ貴様!?」


(いた!髭面!!)


真っ先にドランコらしきその男を見つけたルカは、颯爽と彼に迫り、自らの手枷とフライパンを振り上げて、彼の頭部に思いっきり打ち付けた。部屋にはカーンっと間抜けな鐘の音が響いて、ルカは咄嗟に絨毯にそれをあてて音を止めた。その間、その場にいた他の乗組員たちは、旅人のあまりの早業に抵抗する事も応援を呼ぶ事もできず、ただ短い呻き声だけあげて、次々に倒れていった。そうしてあっという間にその場に立っている者はルカと旅人だけになる。全員、例の鉄扇でほぼ一撃だったみたいだ。あの小ささで恐るべき威力。


「あ」


旅人の動きに見ほれている場合ではない。今しがたルカが倒した髭面の腰に、ジャラジャラと鍵がついているではないか。ルカはそれを見るなりしゃがみ込み、それを腰から外した。


「…なんでこんなに弱いんですかね。普通の貨物の船員でももう少し鍛えてると思いますけど」


ふと、倒れた男達を見下ろし、それから辺りを見渡しながら、旅人がルカにそう言ってきた。彼らが弱く感じるのはその鉄扇のせいじゃないかと笑いそうになったルカだったが、目の前に倒れる男の姿をみて、それもそうかと思った。このドランコという男、いかにも脂肪と権力を蓄えた体、とう感じで日頃の不摂生が良く見て取れる。倒れた男どもも、皆体つきが細く、とても日頃から鍛えているような見てくれでは無い。悪いことをしている割には、船員を十分に食わせていけるほど稼げていないのか。それとも”他”に金が掛かりすぎるのか。


「まあ、奴らが弱いのは確かだが…なかなかやるな、お前」


「そうですかね?力だってあなたの足元にも及びませんし。この鉄扇のおかげですよ」


「いや、謙遜することないと思うぞ。俺から見てもかなり腕がいいし、きっとお前ならうちの…」


そこまで言ってルカは言葉に詰まった。


「きっと…?うちの?何です?」


「…きっと、うちのぉ、お、弟に勝てる」


どうしたのだろうか。ルカは平静を装っているが、動揺しているのは見て取れた。


「弟?あなたの弟、そんなに強いんですか?」


「ま…あな」


「ルカさんと、えっと旅人さん?…大丈夫ですか?」


その時、少し高い声が小さく聞こえた。振り返って声の方向に視線を落とすと、先ほどルカたちが入ってきた床扉からひょっこりと、少年マオが顔をのぞかせていた。


「あ、ああ、もう大丈夫だ。ほら。鍵」


ルカの嬉しそうに鍵を見せびらかす姿をみたマオは、ぱっと笑顔になって、足早にハシゴを上がってきた。そして、ルカの近くまでやってくると、「貸して」と鍵をせがんだ。


「自分じゃ外しにくいでしょ」


「おお、ありがとな。助かるよ」


「うん、任せてよ」


マオはたくさんある鍵の束を手にとって、手早く手枷の鍵穴に合わせ始めた。しかし、その量の多いこと。見た目も類似したものが多くあり、中々その一本が回ってこない。これは時間がかかりそうだ。

二人が鍵の束でガチャガチャとしているその間に、旅人は部屋の壁を御している豪華なガラス棚をみてギョッとしていた。中に陳列されているのは高級品や、骨董品ばかり。いったいどこでこんなものを、と思ったら、この豪華な部屋に似つかわしくない木箱が三箱。中には衣類やカバン、ガラクタが詰め込まれていた。そのほとんどが女性ものばかり。旅人はこのことにピンときた。


(もしやこれ…奴隷にするために捕まえた人たちの物?)


とすれば、旅人のあの大事な失くし物もこの部屋にあるかもしれない。旅人は躍起になって部屋を荒らし始めた。ガチャガチャと部屋を荒らす音が響き始めると、手元で鍵を合わせをしていたマオもその音が気になったらしい。


「どうしたんだろ…」


「さあな。考えるだけ無駄だろ」


確かに、ルカの言う通りだとマオは思った。この数時間で何度旅人の言動に驚かされたかわからない。旅人は自分たちとは違う世界を見ているようだと、少し遠くの存在に感じたマオだった。


「そういえば、ルカさんと旅人さんは、以前からお知り合いだったんですか?」


「…まあ」


この時、ルカは正直、ただの生返事だった。どこか寂しげな表情で鍵をいじるマオが少し気に掛かって、ちゃんと質問を聞いていなかったのだ。そのせいで、背後から生意気な声が飛んできた。


「へー、ルカさんって言うんですね。初めて知りましたー」


「「……」」


これにはマオも苦笑い。というか、人の会話に勝手に入ってきて話の腰をおるなんて!家捜しに夢中になっていたかと思えばこれである。全く油断も隙もあったもんじゃない。


「あのなぁ、お前は話をややこしくするな」


「なら、私の名前は?ご存知ですか?」


「…」


奴さん、睨んでも全く反省する気は無いらしい。とはいえ、確かにそう言えば、まだこの旅人の名を聞いていなかった。何故今まで尋ねなかったのだろうかとも思ったが、なんとなく一筋縄ではいかない気がした。


「…一応聞いといてやる。お前の名前は?」


「何言ってるんですか!?そしたら、お知り合いになっちゃうじゃないですか」


「…めんどくさ。最初から教える気なんて無いんだろ」


「会ったばかりの割に、良く分かってらっしゃいますね」


「なんだとー」


「あははは!」


すると、マオが笑い出す。その声にあっけにとられたのはルカだけでは無かったらしい。その途端、家捜しの音がピタリと止んだのだ。


「仲良いなぁ。息ぴったりですね」


マオの言葉に目をパチクリさせる旅人。はて、いつ自分がこの西の男、ルカと仲が良かったことがあったろうか。記憶を読み返してもそんなものは一切見つからず、「やはり、不思議な子だな」とマオを見つめるのだった。


「…ああ、いけないいけない。そんなことより、早く見つけなきゃ」


マイペースな旅人は自分の目的を思い出したのか、何事も無かったかのように再び家捜しを始めた。


「…はぁ、全く妙なやつ。マオは良くあんなのに協力しようと思ったよな」


「…だってチャンスだと思ったから」


マオの瞳は暗く、光を反射していた。絶望を受け入れ、覚悟を決めた目だった。

するとマオは徐に、襟元をスッと引き、ルカに自分の胸元を見せてきた。赤く残ったひどい火傷の跡。傷はすでに癒えてはいるが、痛々しい。


「…それ、自分で消そうとしたのか」


火傷の場所とわずかに見える円の淵のような跡。おそらく、彼は連れ去られたのでは無く—


「はい。奴隷という身分が嫌で、飼い主の元を逃げ出した日に、焼き消しました」


マオは淡々と語りながら、再び鍵を合わせる作業を始めた。


「…それでも、結局、保護された別の街で奴隷であることがバレて、今度はこの船に売られちゃったんですけど」


何本目だったろうか、その鍵はすんなりと鍵穴に入った。


「僕はどうやったって奴隷です。この火傷がある限りは。でも、それでも、この状況を変えたいんです。もうこんなに、苦しい思いをするのは嫌だ」


そして軽くひねれば、何か歯切れの良い音がする。


「そうか…強いな、お前」


ルカは俯く少年のそう声をかけると、少年は急に手元の手枷からルカへと視線をあげる。驚いたような、でもどこかその目には期待と不安が混在していた。


「…ねぇ、ルカさん。一つ、お願いがあるんですが」


急に畏まったようにマオは言った。なんだろうか。


「お願い?」


「ここを出たら、僕を買ってくれませんか?」


「…え」


開いた口が塞がらなかった。部屋を漁っていた旅人の音もその瞬間、静かになった。おかげで妙な緊張感が部屋に走った。


「…僕はここを出たい。でも、ここを出ても、この跡のせいでまた別の奴隷商に売られるだけだ。なら誰かに飼われた方がまだマシだ。僕には今、頼れる人がルカさんしか居ないんだよ…」


「お、落ち着け。ヤークは奴隷制度は廃止してるはず。ここを出ても売られるなんてことには、ならないはずだ」


「…そうだとしても、他の子はみんな帰る場所があるけど、僕には無い。だから、お願いします」


少年は涙目になっていた。マオの必死さは分かる。一見気丈に振る舞っているように見えても、きっとこれまで諦めず自分の運命に抗い、その度に失敗し続けてきたのだろう。ルカだって、彼の立場なら同じ事をしたかもしれない。いや、どうだろう。もしかしたら、すでに早い段階で自分の運命を受け入れ諦めてしまっていたかも。自分の運命に抗おうとする、この少年は強い。なんとかして、助けてやりたい。だがしかし、そんな子供だからこそ、この場で「いいよ」と無責任に答えることなど出来なかった。


「…マオ、すまないが…」


「そっか…そうだよね」


マオは肩をおとし、ゆっくりとルカから一歩退いた。外れた手枷を手にして。


「だが、お前のおかげで存分に動ける。何かの形で礼はするよ。ありがとな」


「…うん」


マオは精一杯の笑顔で応えた。なんだか悪い事をした時のように、胸が痛んだ。だが、どうしようも無い。ルカがマオの肩をそっと掴んだ時、彼は誰よりも早くその異変に気がついた。


「伏せろっ!!」


その瞬間、扉が開くと同時に何発もの銃声が響いた。紙の破片と、綿毛が宙を舞い、次々に銃弾が撃ち込まれてくる。その途端、1発、彼らのそばで硬く鋭い音がした。咄嗟にルカの構えたフライパンが弾を受け止めたらしい。マオはそれを目のあたりにしてギョッとしていた。


「ちっ!お前は鍵持って戻れ!!」


「うわっ!!」


ルカは乱暴にマオの肩を掴んで、自分たちが出てきた扉の方へ放り投げると、踏みつけるようにして扉を閉じた。梯子から落ちたか、下から凄い音と共にマオの驚いた声が聞こえたが、構ってなどいられなかった。


(よし、逃げたな)


ルカがマオの安全を確認した直後、船全体に怒号が響きわたる。


「侵入者ーっ!!!侵入者ーっ!!!負傷者多数!!!!場所は船尾談話室!!」


「早く、応援を!!こっちだー!!」


一気に場が騒がしくなる。乗組員が叫んだ内容が伝言ゲームの様に船内で繰り返される。打ち込まれる銃弾をフライパンで時折受け止めながら、物陰に隠れるルカ。旅人は反射的にドアの前にいる男に向かって部屋のガラクタをぶん投げると、男はとっさにそれを払いのけた。がその瞬間、払いのけたガラクタの陰から、こちらを睨む旅人の顔がすぐそばで現れた。


「なっ!」


一瞬で詰められた間合い。男は咄嗟に銃を向けようとしたが、その前に何か硬いもので手首を払われ、その衝撃で銃を手放してしまった。手元を離れた宙を舞う銃の記憶を最後に、目の回るような鈍痛を頭に感じながら、彼は意識を手放した。

だが、旅人がそうして一人倒しても、敵は何人もいる。扉に銃弾が当たって木片が弾け飛んだ。廊下の先では敵が銃を構えていて、さらにその後ろで剣を構えた者が突入のタイミングを見計らっていた。


「ちっ!もう!」


このままでは埒があかない。旅人は舌打ちをすると、先程倒した男を盾にして、部屋を勢いよく飛び出した。銃弾が飛んでくる廊下を無理やり進み、もう片方の手で鉄扇を勢いよく開いた。鏡の色の鉄扇には直接彫刻が施されており、一枚一枚が広がると、それはどこかの松の景色を旅人に見せた。とても見事な装飾だった。


「ふんっ!!」


鉄扇を一振りすれば、その瞬間、音の無い、まるで凪の様な空間が訪れた。かと思えば、小さく風の向きが変わり、ゆっくりだったその流れは、船の奥から空気を吸い上げ、急激に速さと力を持ち、小さな台風の塊となって船員達を襲った。


「う、うわあああああ!!」

「なんだ!!!」


風を受けた彼らは足を床に着けていることもままならず、いとも簡単に廊下の奥までふっとんだ。これには、攻撃した本人もびっくり。


「…おお!流石、古の魔法道具。それっ!」


これさえあればほぼ無敵なんじゃなかろうか!っと胸が高鳴り、鉄扇をもうひと扇ぎ。「どれ、もういっちょ、試してみよう」と思ったのだ。


「うおっ!!!???」


すると今度はあおいだ瞬間、壁や柱がベキベキとものすごい音を立て、風は右の壁一面を吹っ飛ばし、偶々そこにあった誰かの一室、家具という家具の全てを風の渦に巻き込んで、ついには更に向こう側の壁に巨大な風穴が開いたと思えば、全ては遥か遠く空と海の彼方まで飛んでいってしまった。


「…ありゃ」


穴から望む晴天。実にいい天気である。旅人も流石にここまで期待してはいなかった。


「お、お前!!船ごと沈没させる気か!!」


背後から聞こえる非難の声。ルカである。彼は妙な体勢で、壁の柱にしがみ付いていた。まるで、離れようとする恋人を内股気味に引き留めようとする女の様である。うむ、実に締まらない。


「なに飛ばされそうになってんですか。私の背後にいるのに」


「俺がそっちに出た瞬間にそれをぶっ放すやつがあるか!?」


「おや…気付きませんでした。それはどうも、すみま—」


謝ろうとしたその瞬間、旅人は横から現れた何者かに襲われ、次の瞬間には壁に瓦礫と一緒に突っ込んでいた。


「っ!!おい!?」


濃い埃が舞い、海風にさらわれていく。そんな中、最初に見えたのはピンと立った二つの耳だった。


「…犬…いや狐?じゃ…ない!?」


金の髪に混じるように頭の横から生える尖った獣の耳、両足の間から覗く、毛の長い尻尾に全身を覆う金色の毛。金の瞳。鋭い爪のついた細い5本の指。体の大きさから、歳は10くらいだろうか。


「なんだよっ!こいつ!」


その瞬間、その獣の子は獰猛な唸り声をあげ、ものすごい勢いでルカに襲いかかってきた。ルカは咄嗟にフライパンを盾にしていたのだが、その子の勢いに押され、尻もちをついてしまった。


「げっ」


フライパンを突き抜ける5本の指。そこからはまるでアイスピンのように鋭い爪が長く伸びている。驚く間も無く、指が抜けたと思えば、また、獣の子はその爪で刺してきた。ルカは咄嗟に転がるようにしてそれを避けると、上体をひねって横から獣の子を腹を思いっきり蹴り飛ばした。思った通り、力はあるが、重さはない。獣の子は軽く吹っ飛び、壁に背中を強打した。ルカはその隙に立ち上がり、その場から逃げ出した。旅人が襲われた場所を通り過ぎる時、瓦礫に血の跡を見たが、その瞬間、背後からの気配に気づいたルカは、咄嗟にフライパンで防御した。金属の鋭い音が耳に刺さる。脚力の強い獣の子は、壁、天井、全てを足場にして、襲いかかってくる。四方を囲まれた狭い空間では分が悪い。せめて、もう少しひらけた場所に出たい。


(ここじゃ、無理だ…)


その時、ふと、あの鉄扇が足元に落ちていることに気が付いた。これを使えば、なんとかなるかも知れない。だが、一つ、心残りがあった。ルカは、旅人が埋もれているであろう瓦礫の山を見た。が、そこでは何も動く気配は無い。


「…くそ!!」


ルカは素早く足元に落ちていた鉄扇を足の甲ですくい宙に蹴り飛ばすと、左手でそれを掴み、広げ、獣の子に向かって振り払った。鉄扇はすぐに風をどこからともなく呼び込み、強烈な風をおこし始めた。だがどうも先ほどと様子が違う。風は、ルカの後方から吹いている。妙だと思っていたら、鉄扇をつなぎとめていた紐がちぎれ、端から扇が一枚一枚解け始めた。


「やばっ!!」


獣の子は身動きが取れず、床に爪をたてて必死にしがみついている。戦闘によって崩れた壁や床、それらの瓦礫は奥のドランコの部屋まで飛んでいき、彼の部屋の窓ガラスをいくつも割った。一つ、一つ、と解けた鉄扇が壁や天井に突き刺さり、そうかと思えば、刺さった場所ごと崩れ、部屋の窓をさらに割る。このままではルカも巻き込まれてしまう。ルカが鉄扇を手放すと、強烈な突風がまるで鉄扇をさらうように船の横穴へと強く吹き抜けた。


「っ…!!」


一瞬で静けさを取り戻すその場。身を守るために構えていた腕を下すと、そこは酷い有様だった。船内の壁がさらに無くなっている。これ程までに強力なあの突風は一体なんだったのだろうか。まるで、背後から、口のでかい獣、例えば龍に食われたみたいな、そんな気分だった。ふと、その時、近くの瓦礫の山がさらに崩れた。出てきたのは、あの獣の少女。頭から血を流し、こちらを睨んでいる。

これはまずい。ルカは踵を返し、甲板を目指すことにした。


(兎に角、あいつから逃げなきゃ…!)


先ほどの旅人の起こした風にやられたのであろう船員達が倒れる道を進み、陽の光を受けるハシゴを急いで登る。

そうして、ルカは陽のもとに降り立った。強く香る潮の匂い。耳にうるさく唸る風と波の音。どこまでも広がる青い空と海。久々の大海原。ルカはその場の光景に圧倒されていた。その瞬間、手持っていたフライパンが何かを弾いた。どうせ、また銃弾だろう。見上げれば、でっぷりと太った醜い顔の男が銃をこちらに構えてニヒルに笑っていた。


「おや、出てきた」


「あ?っ!?」


「グルルル!!」


唸り声と共に金属音が響く。ルカは背後からきた気配に素早く反応し、フライパンでそれを受け止めた。


「ちっ!!」


あの獣の子がルカを追って甲板に飛び出してきたのだ。鋭い爪が強靭な足が再びルカを襲う。

だが、攻撃から先ほどの重さも素早さも感じられない。獣の子も流石に疲弊しているらしい。頭から血を流している状態では、いくら獣の子といえど思うようには戦えまい。ルカに勝機が見えた瞬間であった。ルカはフライパンで爪の攻撃をいなしつつ、足技で少しずつ反撃を始めた。獣の子とルカには大きな体格差がある。手足の長いルカはそれだけ間合いも広く取れるのだ。獣の子がルカの攻撃を避けようとすると、自分の間合いより広くとらなければならず、予備動作が少しもたつく。これはルカにとっては好都合。間合いはフライパンもカバーしてくれるし、避ける動作に気を取られている間に踏み込めば良い。獣の子がルカの足技を全身で避けた瞬間、ルカはフライパンを思いっきり振りかぶった。フライパンは見事、獣の子の肩にヒットし、その身体は軽く吹っ飛んだ。


「ウアッ!!」


「何!?ちっ!!」


高みの見物とばかりに、彼らの戦いを眺めていた男は、悔しそうに顔を歪ませると、甲板に膝をつく獣の子に向かって叫んだ。


「どうした、化物!!お前の力はその程度では無いはずだ!!」


立ち上がろうとする獣の子。足元にはポタポタと血が滴り落ちている。全身の毛が逆立っている。興奮が収まらないのだろうが、これ以上戦うのはどう見ても無理だ。

が、それでも男は獣の子に命令した。


「奴を殺せ!!」


「グルル!!」


その言葉に、獣の子の目の色が変わる。低い声で唸り、ルカに再び襲いかかってきた。


「ガウッ!!」


「くっ!」


風のような速さでルカに飛びかかる獣の子。両手の鋭い爪がルカの両肩に食い込み、押し倒されたルカは、甲板に背中を強く打ち付けた。確実に殺そうと噛み付こうとしてくる口に、ルカは咄嗟にフライパンの柄を噛ませ、必死に抵抗する。ふと、頬にポタリと暖かいものが落ちてきた。獣の子の額から、真っ赤な血が流れ落ちてくる。傷口が広がったか。血は止まることなく獣の子の頬を伝い、ボダボタと流れ落ちてくる。


「死にたいのか、お前っ!!」


「グルルル!!」


だが、獣の子は先ほどよりも強い力を腕に込めてくる。その爪がさらに食い込み、ルカの両肩に血がじわっと広がった。


(まだ、こんな力を…!)

「う!!」


痛みが強くなった瞬間、ふと、相手の力が抜けた。獣の子は肩腕を振り上げていた。真っ赤に染まった爪が太陽の光を反射する。そして、その目はまさしく獣が獲物を殺す時に向けるそれそのものだった。


(やばっ!!死—)


全てが一瞬の出来事だった。獣の子の腕が振り下ろされ、ルカが死を覚悟した。一発の銃声が響き、同時に、目の前から獣の子の姿が消えていた。


「その人から、離れろ!!」


マオの声だった。咄嗟に声の方を見ると、か細い少年が、銃を危なげなく構え、一点を睨みつけていた。

だがどうやら、獣の子のことは仕留め損なったようだ。血だらけの獣の子は、両手を床につけ、本物の獣のようにマオを警戒しながら、そろりそろりとタイミングを伺っている。


「バカ!お前、なんでー」


来たんだ。


ルカそう全てを言い終える前に、獣の子が動いた。マオがルカの呼びかけに対し一瞬、気を緩ませたのを獣の子は見逃さなかったのだ。マオが再び銃の引き金を引こうとした時には、すでに獣の子の爪は彼の目の前まで迫っていた。


「っ!!」


息を飲むマオ。奥に見えるルカの必死な顔が妙に目についた。その瞬間、何か足元で嫌な音がした。耳に刺さるような金属音と共に、マオの立つ足場が、まるで綺麗に割られたビスケットのように突然崩れ落ち、彼は下の階に落ちてしまった。


「うわっ!!」


「な、なんだっ!」


突然甲板の床に空いた大きな穴。高みの見物をしていた男は身を乗り出し、様子を伺った。獣の子もまた、船の縁に立ち、様子を伺っている。

甲板に出来た穴の下では、マオが尻餅をついて悶えていた。


「な、なんだよ…いっ!!」


尻の次は、肩にかかる重み。だが、それは一瞬のことで、直ぐに飛ぶように消えてしまった。何かがマオの肩から飛び立った感覚。すかさず、マオが頭上を見上げると見覚えのある後ろ姿がそこに立っていた。


「旅人さん!!」


はちみつ色の髪が所々血で汚れている。大丈夫なのかと、マオは心配になったが、それよりも旅人の顔色が気になった。口をへの字に結び、じとっとした目で先を睨みつけている。具合が悪いというよりは、どうも機嫌が悪そうだった。


(……怒ってる?)


「ふん、また仲間か。どこからネズミが侵入したのだか。殺せ」


上から、男のつまらなそうな声がする。すると再び、獣の子が強く地面を蹴った。


「逃げろ!!」


叫ぶルカ。しかし、次の瞬間、旅人は獣の子の攻撃を鞘に刺さったままの細身の剣で受け止めていた。

唸る子供。旅人はその瞳を睨み返し、ふと妙な事を言った。


「…なんでフィンディがここにいるのさ」


フィンディ?

とルカは首を傾げた。あの獣の子はフィンディというか。ルカにとっては聞いたことの無い名前だった。

すると、再び上方から声がする。人を小馬鹿にしたような傲慢な男の声だった。


「ほう、よく知ってるじゃないか」


声の方を見上げると、でっぷりと体に脂を蓄え、着飾った豚のような男がこちらを見下ろし笑っていた。


「…あんたがここの責任者?」


「そうだ。うちの顧客はちょいとばかし、珍しいものを集めるのが趣味でねえ。そいつもその一つさ。見世物小屋で使い物にならないのを買い取った」


得意げな顔。まるで、自慢し優越感に浸る子供のようだ。その男の後ろには、何やらあたふたと落ち着かない様子の側仕えがいる。


「船長、マズイですよ。あれ、ベルハルンのお偉いさんのとこに届けるものですよ!?」


「まあ、細かい事は気にするな。届けるにしたって品質の確認は必要だろ?」


「それはそうですが…」


「良い機会だ。太古の戦士の力をこの目で見ておこうじゃないか。おい化け物!そのガキを殺せ!!」


船長と呼ばれた男が命令すると、獣の子は再び旅人に突進してきた。あまりの速さに、旅人は剣で何とかその爪の攻撃を受け止めるだけで精一杯だった。おまけに、とても幼い獣人の子が持つ力とは思えないほどの強さ。


「はやっ!くそ!!」


「グァアア!!」


獣の子は何度も何度も旅人に爪を振りかざしてきた。一つ一つの攻撃が重くのしかかり、旅人はそれを剣で受け止めるか、いなすかで精一杯のため反撃が全く出来ない。一度、その爪で頬に傷を負ってしまえば、また一つ、また一つと、少しずつ傷を増やしていく。


(何やってんだ、あいつ…)


獣の子の息はあがり、額からは相変わらず血が流れている。あれだけ血を失えば、普通は倒れていてもおかしくない状況なのに、その動きは、衰えることを知らない。

彼らの戦いを見ながら、ルカは爪が深く食い込んだ右肩の傷口を強く押さえていた。痛みで気が狂いそうだったが、それよりも、旅人の戦い方に妙な苛立ちを覚えていた。

先程までの猿のような身のこなしは何処へやら。大きな動きはせず、なぜか今は防衛戦一色。そしてもう一つ、ルカには気に入らないことがあった。


「おい!鞘を抜け!!情けをかけると死ぬぞ!」


「うっるさいなぁ!!こっちの都合です!怪我人は黙って!!」


「俺の事は気遣わなくていい!ちゃんと戦え!」


不意に図星を突かれたのもあって、少し腹が立った旅人は攻撃を受け止めながら乱暴に叫んだ。


「う、うるさいなあ!」


とはいえ、本当にこのまま守りながらの戦いでは、本当に埒があかない。旅人は次の攻撃が来た瞬間、後ろに下がる事をやめ、剣で思いっきり爪を受け止めた。


「うっおおおおおおおお!!!」


そして、そのまま踏ん張りをつけ獣の子に跨ると、剣を棒がわりにして上から押さえつけた。


「おい、お前!!一族の誇りはどうした!!お前をそんなふうにした人間のクソ野郎共に目に物見せてやるんじゃないのか!!」


旅人は獣の子に叫んだ。押さえつけようとする剣と、逃れようとする獣の子の両手はお互い一歩も譲らず交えたままだ。そのうち剣の柄がカタカタと悲鳴をあげ出した。


(耐えて…!)


「グルルルルルルル」


だが幸い、獣の子も体力的に限界だったようで直ぐに暴れることをしなくなった。代わりに、獣の金色の瞳で旅人をにらみ、唸ってくる。


「なんとか言え!!」


「アアアウ、ガルルルル」


目の前の獣の子は何度呼びかけても、ただ唸り、睨むだけ。それ以外は偶に気を抜けば、爪を立てて再び殺そうとしてくる。言葉が分からないと言うより、自我があるようにはとても見えなかった。

ふと、少女の首に光る飾りに視線がいく。金の輪に赤い宝石がワンポイントで付いて輝いていた。よく見ようと目を凝らしたら、背後からルカの声が飛んできた。


「逃げろっ!!」


「えっ!!」


銃声と共に、左肩に痛みが走った。鋭い痛み。焼け千切れた布と少量の血しぶきが舞った。

一瞬、力の抜けた旅人の下から、獣の子は一目散に逃げだし、マストの柱に寄りかかりながら、息を切らしながら血が流れ落ちる額を押さえ込んだ。彼女の滲む視界には、倒れこむ旅人の姿が映っていた。


「いったぁ…」


「外したか」


旅人はなんとか起き上がり、男を睨みつけた。ニヒルに笑う男が手にする銀色の銃口からは、煙が一筋の糸のように横に伸びている。そして、今度は先ほどより少し低めに構えた。どうやら、高みの見物の時間は終わりらしい。


「いいものを見せてもらったよ。先方にも商品の良い説明が出来そうだ」


奴め、どうやら本当に獣の子の強さを見るためだけに、自分は今まで手出ししてこなかったらしい。全く、反吐がでるほど笑えるクズ男だと、旅人は笑った。


「はっ…それは無理だよ」


「強がりはよせ。お前たちに勝ち目などない」


「……どうかな。これ見てもまだ同じこと言える?」


旅人はふと、右手をゆっくり持ち上げた。男の目が面白いほどまん丸になってゆく。旅人の手にあるそれは、半円型の太い金の装飾品だった。


「お、お前…それをどうやって!!」


本来であれば獣の少女の首にあるべき物だ。だが、今は旅人の手の中で綺麗に真っ二つ。男の目玉が右に左にと激しく動く。先ほどまで甲板にいたはずの少女の姿が見当たらない。男の顔には脂汗が滲み始め、銃を右に左にと構え、少女の影を追おうとする。そんな状況に耐えかねたのか、一緒にいた側仕えは男以上に取り乱し、海へと飛び込んでしまった。いよいよ独りになった男は更に狼狽えた。旅人はそんな彼を見て、楽しそうに笑うのだ。


「さあ、どうやったんでしょう?」


ふと、ポタリと、男は何か水の音を側で感じた。足元を見ると、それは雨でもなければ、鳥のフンでもなく真っ赤な血だった。


「…あ」


男は高く空を見上げた。真上に登った太陽が、差し込んで、帆先を黒く陰らせていた。そこから、また、ポタリと血が落ちてきて、男の頬を濡らした瞬間、獣の子も一緒になって落ちてきた。


「うわ!!!」


押し倒される男。獣の子の鋭い爪が太陽の光を受けた。


(殺される!)


男はあまりの恐怖に目をぎゅっと閉じた。


「まあまあ、少し待ってよ」


だが、その爪が男に振り下ろされることは無かった。

男が目を開けると、いつの間にか上甲板まで上がってきた旅人が、獣の子の振り上げられた手をガッチリと掴んでいた。


「このおじさんと話さなきゃいけなくてさ」


「…ちっ」


獣の子は邪魔するなと言わんばかりに、旅人を睨みつけている。彼女は乱暴に旅人の腕を振り払うと、逃げるようにその場から高く跳び上がった。そして再びマストにしがみ付き、上からこちらの様子を伺っている。そんな獣の子に、旅人は穏やかに笑いかけた。


「…ありがと」


「そ、そうだ。俺を殺したら、誰がこの船を動かすんだ?皆、航海には知識のないものばかりだ。俺を殺しても、お前たちがこの広い海でのたれ死ぬだけだ」


男は相変わらずだらしない尻を床に付けたまま、そんなことを言ってきた。よほど死にたくないらしい。こんな状況でも偉そうにできるとは、年寄りの特権か、はたまた、こいつの才能か。旅人は呆れてため息をつくと、しゃがみ込み、無様に寝そべる豚船長に笑いかけた。


「残念ですけど、あなたの手助けなんて要りません。これからヤークに戻ります。そしたら、めでたくあなたは豚箱にぶち込まれますよ。良かったですね。自分のお家に帰れて」


「は、何を馬鹿なことを。この船はただの船じゃないんだぞ。お前ごときに動かせるわけー」


「ああ、動力のことですけど。この船、特殊すぎて本当に仕組みが良く分からなかったので、壊しちゃいました」


「…は?」


その言葉を耳にするなり、男は息を詰まらせたが、すぐにそんな訳ないと直ぐに鼻で笑って誤魔化した。


「ば、バカな。あはははっ…そんなハッタリが通用するとでも?あれは特殊な加工がしてあって、そう簡単には壊れるわけがない」


「特殊な加工って魔術のことですか、子豚さーん?」


旅人は、船長に向かって、半円になった首輪を再度笑顔で見せつけた。旅人のその笑顔に、男は表情を曇らせた。


「知らないみたいなので、教えてあげますけど、魔術って術式設計した魔術師より強い魔力を持ってすれば壊せるんですよぉ」


子豚さんにわかるように、旅人はゆっくり丁寧に説明をしてあげ、持っていた細身の剣の鞘を抜いた。現れた銀の刀身が太陽を反射する。すると、子豚さん、やっと自分の状況を理解したらしい。


「や、やめ…」


「こんなふうにね!!」


旅人が剣先を下に向け、強く突き刺すと、キンッと鋭く高い音が響いた。


「ふっ!!…はぁ、はぁ…」


男は腹を激しく揺らしながら呼吸を乱していた。剣は男の首のすれすれを突き刺していた。旅人は、男のつけていた金の鎖の首飾りだけを断ち切ったのだ。そして、床から剣を引き抜き、流れるような手つきで鞘にしまい込んだ。


「なっ…本当にやるなんて…」


男は、あっけにとられ、どうしていいか分からず、仰向けのまま青い空と、冷ややかな視線を向けて来る旅人をただただ、虚な目で見つめ返す事しか出来なかった。


「一つ聞きたい。この船の魔術、それとこの首輪を作ったのは誰だ」


ぼんやりと絶望にふける男に、旅人はそんなことを尋ねた。


「…盗んで、奪うのが仕事だぞ。私が、そんなの知るものか…バカめ」


「この状況でも減らず口は現在ですか」


旅人は、腹を天に向ける豚を真上から見下ろした。実に滑稽で馬鹿馬鹿しい姿だ。


「無駄多いこと。身体によく現れてる」


そんな馬鹿な会話をしている最中、上甲板への階段をゆっくり登ってくるものが一人。だが、旅人も男も気づかない。男は旅人を見上げながら笑った。


「…ふん。愚かだな」


「あ?」


そんな訳ないだろ、と旅人は転がる豚を睨みつける。その時、旅人はやっと、近くまで迫っている足音に気がついた。


「餓鬼、もう少し自分の行動には慎重になった方がいいぞ。この船は魔術で動いてたんだ。お前はそれを壊した。見た目こそ、普通の帆船だが、そこのマストも舵取りもまるで機能しちゃいねぇ。それができる水夫がこの船には居ないからな。お前らだけで、ヤークの港に帰るなんざ、不可n—」


カーンと気持ちのいい音がなった。いつの間にか、ルカが現れたと思ったら、豚船長を見下ろすなり、フライパンを思いっきりその頭に打ち付けたのだ。額に大きなたんこぶを作った船長は白目になって完全に伸びていた。


「…あれ、伸びてる?」


そして、そのことに驚くルカ。白々しいにも程がある。旅人は深いため息をついた。


「何してくれんですか、まだ聞きたいことあったのに」


「あ、ああ、悪い。ちょっと腹が立ったから…しかし、加減を間違えたな」


すまんすまんと、申し訳ない雰囲気を漂わせてはいるが、旅人にはそれがとぼけているようにしか見えず、彼を見る目がどんどん、どす黒い蔑んだものへと変わっていった。


「…そ、そんなに怒るなよ」


「…ま、良いですよ。私なんかより、おじさんの方が上手くやってくれるだろうし」


旅人は聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でボソリとそう呟いた。ルカは「え?」と首を傾げていたが、旅人はそれを完全に無視し、そっぽを向いた。すると、それを気まずく思ったのか、ルカは話題をすり替えて、旅人とコミュニケーションを図ろうとしてきた。


「そ、それにしても、このフライパンすごいなぁ。銃弾なんか跳ね返しちまうし…ひょっとして、ちゃんとした武器として使えるんじゃ…」


彼としては、ご機嫌とりでもしてるつもりなのだろうか。旅人はうんざりして、深くため息をつき、あたりを見渡した。


「…『この船の中で一番強い武器』らしいですよ。それ。まあ、ネズミの基準ですけど」


「…ネズミ?どう言う意味だ?」


「さあ。…ネズミに聞けば分かるんじゃないですかね」


「…」


そう言ってキョロキョロとあたりを見渡す旅人。ルカは旅人という人間がどういう奴なのか、少しずつ理解し始めていた。時たま、こういう訳のわからないトンチンカンな事を言うのだが、そのトンチンカンには何かしら、ちゃんと意味や理由があるらしい。現に、このフライパンがそうだ。だからきっと、『ネズミ』にも何か意味があるのだろう。ひょっとしたら、旅人をじっと観察すれば何か分かるかもしれない。ルカはキョロキョロと周りを気にする旅人をじっと見つめた。


「…あ、あんなところにいた」


動きがあった。何か見つけたらしい。咄嗟に「ネズミか?」と尋ねたら、嫌な顔をされた。違うらしい。すると、旅人が示す血の跡の先に、こちらを警戒して睨む獣の子の姿があった。


「あ。あいつ、大丈夫なのか?」


獣の子は人目を盗んで樽の陰に隠れていたのだが、こちらの動きに気がついたらしい。再び爪を牙をむき出しにしてきていたが、目に見えて疲弊していて、こちらから手を出さなければ、向こうからは襲ってくることはないように思われた。


「出来れば、ここでなんとかしたいんですよ」


「…あれ、確かフィンディって言ったか?獣と人が混じった姿をしてるみたいだが、病気か?」


ルカが尋ねると、旅人は「いえ」と返事をし、ため息混じりに教えてくれた。


「フィンディってのは、大昔に人の手によって生み出された獣の血が混じった人なんです。たくさん人に飼われてたらしいですよ…」


「飼われてたって…。ちなみに、大昔ってどのくらい前の話だよ」


「さあ?聞いたところによると聖書の時代とか」


「そんな昔から居るのか…」


「実際は分かりませんけどね。…とにかく、あの子を保護しなきゃ」


フィンディの毛が、日の光を反射してキラキラと海風に揺れる。白の様な金のようなそれは血で汚れていても輝きを失わない。


「まあ見れば分かると思いますけど、あの子の本当の価値を知らなくても、その見た目だけで十分に人を惹きつける魅力があるんですよ」


旅人は物悲しく獣の子供を見つめていた。


「…そう、だな。でも、どうするんだ?あいつ、相変わらず警戒してるぞ」


「うーん。…あ、ルカさん、ちょっとそのフライパン、貸してもらえます?」


「良いけど、何につか—」


ルカが旅人にフライパンを手渡した瞬間、ルカの頭の中で鐘が鳴り響いた。それから急に立っていられなくなって、まるでふかふかぷるぷるの妙な感触のベッドに沈み込むような心地よさに襲われた。


『悪いんですけど、こっからは全て忘れといてください』


旅人の声のその声を最後にルカは意識を手放したのだった。




「本当に賞金稼ぎなのか…?」


豚船長の腹の上に勢いよく倒れたルカを前に、旅人はボソリと呟く。起きる気配がないので、完全に気絶したのだろう。旅人はフライパンをポイっとその辺りに投げると、獣の子に視線を戻した。体を震わせている。そんな怯える獣の子に旅人は一歩、一歩、ゆっくりと近づいた。


「な、なんだ、お前…!」


絞り出すような叫び声が甲板に響く。すると、旅人はそれ以上近くのをやめ、獣の子と同じ目線に合わせるようにしゃがみこんだ。


「大丈夫、私は傷つけないよ。分かるでしょ」


「いや!!!それ以上、きたら、ころす!!」


獣の子の目は更に鋭くなった。敵意丸出しだ。旅人はどうしたものかと眉を潜めた。興奮したせいか、真っ赤な血が美しい毛を撫でるように伝ってゆく。これ以上血を無くせば、きっとこの子は死んでしまうだろう。


『フィンディか。…あれはとても可哀想な者たちなんだ』


かつて師匠はそんな事を言っていた。

古い時代、戦争のために生み出された戦士。人の知能と言葉を持ち、獣の身体能力を持つ。しかし同時に気性も荒く、支配を嫌い、人に従わない。国は戦士としての彼らを持て余すと、今度はその美しい毛皮に目をつけた。人の都合によって生み出され、毛皮の為に殺される種族。それがフィンディだ。


『怯えてるね』


風と共に、耳元で鈴の音のような声がした。


「…どうしようかね」


旅人の周りに、穏やかな風が吹く。まるで頬を撫でられているようでくすぐったい。


『歌ってくれるなら、私たち、協力してあげても良いよ?』


「あなたたちに、あの子をなんとか出来るの?」


『自分が何者か思い出させれば良いのさ』

『かわいそうに。こっちに長く居過ぎたのさ』

『僕らと目が合わないもの』


「…」


旅人は苦い顔をした。


『歌うの。簡単でしょ?』


「…わかった。どうせ、ヤークに戻るのに、風の助けが要るし」


「何一人で、話してるの…?」


旅人の側には誰もいない。なのに、まるで誰かと会話をしているような素振り。獣の子も奇妙に思ったのだろう。旅人は少し眉を下げ、獣の子に向かって微笑んだ。


「見えてくれると嬉しいんだけど…」


旅人は目を閉じた。息を吸うと、潮の香りが鼻に広がる。そして、天に向かって口を開いた。はて、また奇妙な動きだ。獣の子は首を傾げる。何か起こるわけでもない。でも不思議と目が離せなかった。


「……」


そうしてじっと旅人の様子を見守っていると、かすかに海風と波の音に混じって何か美しい音色が聞こえてきた。


「うた…?」


はっとして目をパチクリさせる獣の子。気がつくと、旅人の周りに小さな光の粒子がたくさん輝いていた。獣の子は何が何だか分からなくて、口をあんぐり。


『おかえり、フィンディ』

『やっと目を覚ましたか!世話が焼けるね』


それはいつからそこにいたのだろう。小さな光の粒が、小さな子供の形になって、弾けては集まり、弾けては集まりを繰り返して、自分の周りを楽しそうに飛び回っていた。


「なあに、これ?」


『いわゆる、精霊、と言うやつさ』

『僕たちは、風であり、火であり、土であり、水である』

『私たちは、君と同じ』


「おなじ?」


『同じいのち』


小さな光の子供達はその瞬間、弾けて光の粉になると、風に流れて、再び旅人のそばで、子供の形を取り戻した。

そうして、小さな光の子はとても幸せそうな顔で旅人の額に自らの額を擦り、それから優しくキスを落とした。


『じゃあ、呼びに行ってくるよ。すぐ近くまで来てるはずだから』


「うん、お願い」


旅人が優しい声でそう答えると、小さな精霊は旅人から額を離し、天を仰ぐようにして落ちていった。それは甲板に落ちる前に両手を翼に変え、今度は一羽の鳥に姿を変えると、海風を捕まえて、あっという間に天高く昇ってしまった。


「…わぁ」


「すごいでしょ」


「…お前、ほんとに何者?」


『随分と生意気な口聞くじゃねえか、この娘』


獣の子が旅人に尋ねたその時、背後で声がした。とっさに振り返ると、一羽のカモメが縁に留まっている。獣の子は驚いたあまりよろけて、尻もちをついた。


「い、今…!」


カモメは首をカクカク動かしながら、そこに留まっている。ただのカモメのはずなのに、なんだか怒って見えるのは気のせいか。


『…なんだ、この妙なちんちくりん。私の言葉が分かるのか。こいつもヨビコか?』


いや、気のせいじゃない。ただのカモメじゃない。すごく嫌味ったらしい言い方で喋るカモメだ。獣の子は目をまん丸にしていた。


「違います。ちょっと、あんまり驚かせないでくださいよ。この子、怪我してるんですから」


すると背後から駆け足でやってきた旅人は、獣の少女の側にしゃがみ込むと、腰の鞄から手早く壺と包帯を取り出して手当てを始めた。


「あっ…」


警戒していたはずなのに、こんなにあっさり旅人の手を受け入れてしまった。拒むことのできなかった自分に驚いた獣の少女は、口をあんぐり。旅人の手は拒むには勿体ないほど、心地よく、暖かった。


『…見たところ、なんか混ざった感じだな。妖精の類か?こちらに迷い込んできたのか?』


「まあ、そんなところです」


旅人はカモメに応えながら、また腰の鞄から小さな瓶を一つ取り出した。蓋をあけ、中に入った何やら黒くどろっとしたものを指ですくい上げる。その瞬間、カモメは渋い顔をして、翼を嘴に当てた。


『うわ、ちょっとそんなものどっから持ってきたんだよ!くさい!!』


くさい?と疑問に思う獣の子だったが、目の前にいる旅人は平気そうだ。と言うかそれに特に匂いなんてものは無かった。どうやら鳥にしか分からない類のものらしい。


「私たちにとっては良い薬なんですよ」


旅人は得意げにそう言って、小指でそっと少女の額の毛をかき分けると、血が出る傷にその軟膏をやさしく落とした。その瞬間、みるみる痛みが引いていくのが分かる。少女は顔を上げた。旅人は優しく笑っていた。


『…うげぇ。そのガキ、それの正体知ったら絶対あんたのこと恨むぜ』


「うるさいな。このまま傷だらけって訳にもいかないでしょ。それより、別のお願いもしていいですか?」


『…なんだよ』


すると、旅人は小指ほどの大きさの油紙を筒状にしたものを二つ、懐から取り出して、カモメに言った。


「黄色の紐の方は山彦の亭主に。こっちの赤い方は、シュウ婆さんに、追加の連絡です」


『黄色は口聞けるおっさんで、赤は大将ね。了解。足に括り付けてくれ』


旅人は頷き、立ち上がると、カモメの両足に一つずつ、それを結びつけた。


「最初に山彦の方に行ってください。あの子に関する事なので」


旅人は、獣の子の方に視線を流す。カモメはすこし気難しい顔をしたが、旅人の決めた事である。あまり深く干渉しても仕方がないと肩を落とした。


『わかったよ。じゃあ、港でな。あとはこいつらが風の助けになるから』


カモメはぴょんと跳ねると、180度向きを変えて、海の方に体を向けた。船の周りには、沢山の仲間のカモメが集まり、皆同じ方角に向かって空を飛んでいる。ふと気がつくと、マストのところに留まった何羽かのカモメたちが何やら、怪しい動きをしている。


「ん?」


『全速力で追いついてこいよ!』


カモメが翼を広げ船を飛び出した瞬間、畳まれていた帆が一斉に落ちて、ぶわっと彼らの視界に広がった。一気に風向きが変わり、船が揺れる。旅人と獣の子は咄嗟に互いに支え合い、なんとかして踏ん張った。


『はははは!!』


カモメの群れの中から飛び出した一羽は高く鳴き、そして、海面すれすれまでおちると、再び風を捕まえて、あっという間に見えないところまで飛んで行ってしまった。旅人と獣の子はカモメが見えなくなった海の先を見つめていた。





子守唄だろうか。心地の良い声の中で赤子がまどろんでいる。誰の子供かは知らないが、きっとこの赤子も自分と同じ気持ちを味わっているのだろうとルカは思った。こんな心地がいいのは久しぶりだ。できれば、こういう心地のいい夢はずっと見ていたい。


「…夢」


と思ったら目が覚めた。視界いっぱいに広がる青空。耳に響く波の音。そして頭上を飛ぶ一羽のカモメ。何かがキラリと太陽に反射した。あれ、前にもこんなのあったなぁとルカは思考を巡らせた。



「先生!意識戻りました!!」


「あーはいはい。今いくよお〜」


耳につく甲高い声と何ともゆる〜い声が行き交っている。すると、ゆる〜い声の主と思われる白衣の天使、否、白衣のオヤジが現れた。


(ババアの次はジジイか…)


「…残念だったな、生憎ここには白衣の年増しかおらん」


驚いた。ただの医者では無かったようだ。人の思考が読めるとは。かなりの腕の良い呪い師か何かか。ルカが目を見開くと、次の瞬間にはジジイの頭にタライがヒットし、衝撃で丸眼鏡が鼻からずり落ちた。


「聞こえてますよ!!先生!!!後でこっちもお願いします!!!!」


「やーね。地獄耳は。損だと思わんか?」


「はぁ、、」


医者は自分の頭を撫でながら助手の方を見た後、ルカに尋ねてきた。いまいち状況が掴めないルカは困惑を隠せない。少し揺れがあるし、見覚えのある柱。


「え、ここ船の上?」


「そうだよ。今、病院も満杯でね」


医者の言葉をぼんやり聴きながら横をみたら、すぐ隣に怪我をした船員が横たわり、治療を受けていた。これ、悪党の一味だと勘違いされてるパターンじゃないだろうか。


「あの、俺、何も悪いことは…」


「ん?どうしたんだい、急に。そんなに怖がらなくても知ってるよ。捕まった少女たちを助けてくれたんだろう?イツキの弟子があんたに礼を言っておったよ」


「え」


「んで、『起きるまで面倒よろしく』って頼まれたんだけどさ。君、血だらけだったから物凄い怪我してるのかと思ったけど、全部返り血みたいだったね〜。やることなくてびっくりしちゃったよ。ところで、この服、凄くボロボロだけど獣にでも引っ掻かれた?なんで気を失ってたか覚えてる〜?」


「は?」


医者は血だらけの布をルカにほらと広げて見せた。よく見るとそのボロ切れは自分が着ていた服である。それを見て、つい先刻の出来事を思い出す。ルカは勢いよく起き上がった。


「そうだ、俺、両肩に、、、」


傷など無かった。特に右肩は少女の爪が奥まで刺さり、出血も酷かったのに、そこには綺麗な肌色しかない。体は綺麗に拭かれていた。周りを見渡せば、沢山の船員たちが綺麗に並べられて治療を受けていた。内心、「こんなに倒したっけ」と思ったルカだったが、そういえば、あの妙な扇子を使ったときに、飛ばされた奴が結構いたな、とあの時の光景を思い出し、何だか気まずい気持ちになった。


(…どっちが悪党か分かんねえな)


遠くの方に視線を向けると、ヤークの港町が広がっていた。船の両隣には他の船も停泊している。まだ日は高い。そんなに長く気絶していた訳じゃなさそうなのに、船はもうヤークについている。


「…俺の荷物は?」


「ああ、これかい?なんか、捕まった女の子達が置いていってくれたよ〜」


ルカはジジイから鞄を受け取ると、早速中から上着を取り出し手早く着た。ジジイは乱暴だな〜とゆる〜く小言を漏らしている。


「捕まってた子たちは?それと、あのイツキの弟子は?どこへ行った?」


「あ〜女子供たちならちょうど、船着場役所で取り調べ受けてるよ〜。ほら、あの人だかり」


立ち上がり、背伸びをしてやっと見えるそこを指差す医者。目を細めれば確かに、人だかりが見える。ルカは踵を返し、先程まで横たわっていた場所の傍にあった鞄を掴むと、手早く中を確認して再び、蓋をパチンと閉めた。


「ありがとう、世話になった」


そしてバタバタと足音をたてて、早々に船を飛び出た。


「……ほお、若いね〜。いや〜元気が1番。さぁてさぁて…」


医者はルカの後ろ姿を見送ると、自分の仕事へと戻って行った。





役所に誰かが物凄い勢いで駆け寄って来る。


「あ!ルカさん!!」


人だかりのうちの1人の少女がその存在に気がつくと、他の女達も気づき始め一気に騒がしくなった。女達から話を聞いていた城の使いの者は何事かと慌てふためいている。


「みんな、無事だったか?」


「そうだ、ルカさんなら」


「そうねそうね」


「確かに」


肩で息をしながら声を掛ければ女達は何やら落ち着かない様子だ。


「あ、ルカさん!!」


知っている声がして振り向くと、ジュネがそこにいた。役所の仕事でも手伝っているのか、何やら枠組みの多い紙の束を持っている。入国用の記入用紙だろうか。


「ご無事だったのね!良かったわ!!貴方のおかげよ。これで皆んな無事国に帰れるわ!!本当にありがとう」


ジュネは紙の束を脇に挟むと、目に涙を浮かべながらルカの手を取り何度も何度も上下に振ってきた。脇に挟んだはずの紙の束からは、案の定パラパラと何枚か滑り落ちていたが、ジュネの嬉しそうな姿を見てルカも安堵した。


「皆が無事なら何よりだ。それで、船長たちはどうなった?」


「皆んな捕まって、船は解体よ。明日から取り調べをするつもりみたい。他国の政府もこの件に絡んでたから、今大急ぎで連絡を取ってるのよ、報告も兼ねて。ヤークのお手柄だって、シュウ婆さん鼻高々にしてたわ。きっと外国政府相手への貸しにしようとしてるのね」


ジュネは落ちかけた用紙を慌てて、掴み綺麗にまとめ上げながらそう言った。


「そ、そうか」


抜かりない、と言うべきか。さすが、あの婆さんだとルカは思った。ジュネは困った顔で笑っていた。


「本当は、一番活躍してくれたのは、ルカさんとあの旅人さんなのにね。二人ともヤークの人じゃないし」


「気にするな。それに俺はあいつを少し手伝っただけで、何もしてない」


ふと、考えたルカ。本当に自分は何もしていない。結局、あの窮地をくぐり抜けたのも、彼女たちを救ったのも全部、あの旅人が一人で行った事なのだ。ルカがやったことと言えば、腹が立った船長に一発フライパンをぶち込んだだけ。自分から手伝うと行っておきながら、なんの役にたってもいない自分に少しばかり嫌気がさして、ルカはため息をついた。そんな少し浮かない顔をするルカに、ジュネは優しく声をかけた。


「そんなことないわよ。私たちの枷の鍵を見つけてくれたの、ルカさんだって、マオが言ってたわ」


「…マオが?」


「ええ。身を呈して、自分を守ってくれたって。あの子も私も、あなたに本当に感謝してるわ。ありがとう」


「うん、本当にありがとう!」

「ルカさんたちのおかげです!」

「ありがとう!!」


ジュネの言葉に続いて後ろの女達からも感謝の言葉が降り注いだ。皆口々にルカに礼の言葉を告げた。するとそんな少女たちをかき分ける一人の子供の姿が。「すみません」とそうやって謝りながら人垣から出てきたのは、あのマオだった。


「ルカさん!」


マオはルカを見るなり嬉しそうに駆け寄ってきた。だが、ルカはやっぱり浮かない表情。


「マオ…」


ルカは腰を落とし、マオに視線を合わせた。その真剣な表情にマオの表情も硬くなる。肩を掴む両手には力がこもっていた。


「あの…怒ってますか?」


しんと静まりかえるその場。ピリついた雰囲気を感じた少女たちが、ルカとマオの様子を心配そうに見守っていた。


「ああ。あの時、どうして勝手に戻ってきた。一歩間違えば、お前が死んでいたかも知れないんだぞ」


「…だって。僕も役に立ちたくて…」


ルカに会えて嬉しそうだったマオの表情はどんどん沈んだものになっていく。周りの少女たちは、その様子をみて同じように悲しそうな表情を見せていた。


「それで俺たちに黙って銃を持っていたってわけか」


「……ごめんなさい」


『銃』と言う言葉に、少女たちの瞳が揺れる。この子供がそれを使ったのか。流石にジュネもこれには苦い顔をしていた。ルカが厳しい態度を取るのは最もだった。だが、彼は決して怒鳴ることはせず、彼の肩を握っていた右手をそっと、マオの頭に置いた。


「…本来なら褒められた事じゃないが、お陰で死なずに済んだよ。命を救ってくれた事、感謝する」


「え…」


マオは顔を上げた。ルカはしょうがないなと、すこし困った表情で微笑んでいた。


「でも頼むから、もうあんな真似するなよ」


「…う、うん」


「さて、お前を救ってくれた、あのちっさい旅人に礼をしなきゃな。あいつはどこだ?」


ルカは立ち上がり、あたりを見渡した。だが、それらしい姿はどこにも見当たらない。


「あ、ルカさん…実はその事なんだけど、僕らも探してて…」


「…いないのか?」


なんともあの旅人らしいと言うか、なんとなくそんな気はしていたのだ。


「…はい。船から降りた後も直ぐ探したんだけど…」


マオが残念そうに応えれば、誘発されたように後ろの少女達も口を開き始めた。


「本当にどちらへ行ってしまわれたのかしら」

「ルカさんなら、知ってると思ったのだけど」

「残念だわ。直接お会いしたかったのに」

「是非お礼が言いたいわ」

「そして愛の告白を!!!」


「…は?」


耳を疑った。

すると驚くルカにマオは笑いながら教えてくれた。


「彼女たち、何でかあの旅人さんにゾッコンみたいで…」


そして、また騒ぎ出す女性たち。


「ええ!あの可愛らしい天使の様な風貌で男らしいあの態度」

「あの冷ややかな眼差し」

「貴方は私が守ると仰った時はシビれましたわ〜♡」


そんな事、言ってたっけ?


「頼り甲斐がありますわよね!」

「まさにギャップ萌えよね」


女達の黄色い声援は留まることを知らず湯水の如く溢れる溢れる。頬をほんのり染めながらキャーキャーと会話に夢中になっている。一体何がどうなれば、こんな状況になるのか。


「なんだ、あいつ。いつの間にモテてるんだよ…」


「ルカさん、そういえば、傷は?大丈夫ですか?」


冗談をこぼすルカに対し、マオが思い出した様にルカの腕をみた。


「え、ああ。さっき医者に診てもらった」


ふと脳裏に銃を構えたルカの姿が映った。褒められた行動ではないが、あの時、彼が現れなければ今頃どうなっていたか。ルカはなんとなく右肩を撫でた。


「そっか、良かった。兎に角有難うございました。それで、あの、この後は、あの人を探すんですよね?」


「ああ、まぁ…たぶん?」


あやふやに返事をすると、マオを押しのけて、後ろの女性たちがルカの前に乗り出してきた。


「えー!私たち、この後は一人一人ヤークの政府と自国の政府から事情聴取を受けなければならないので、動けないのです。もし、あの方にお会いできましたら、言伝を頼めませんか?」


「そ、そう。僕もそれが言いたくて!」


マオが何とか彼女たちに負けまいと、苦しそうな声を張り上げる。


「あ、ああ、良いぞ。礼を言っておけば良いんだよな?」


勢いに気圧されて、流石のルカも身を反らせる。彼女たち、必死だ。マオが後ろの方で埋もれそうになりながら、必死に手をあげる。大丈夫、見えているぞ。


「はい!そうです!ありがとうと!」


「分かった。伝えておく」


「あ、あの!!それと。…あと、これ!!」


するとある一人の女性が、ルカに白い紙を差し出した。見ると住所らしきものが書いてある。


「その、連絡先です…。宜しければ、これも渡していただけませんか?それで、いつか私の国に来る時は、ぜひ私の家に…と」


頬を真っ赤に染める少女。


「…ああ」


ルカは引きつった笑顔をしてしまった。その瞬間、「私も!!」「私も!」と次々にたくさんの女性から、紙が半ば押し付けられる形で渡され飛んできた。


「…」


正直、今直ぐ、この紙の山をぐしゃぐしゃに握りつぶして粉々に千切ってしまいたくなったが、乙女心を踏みにじってはいけないと、ルカは何とか思いとどまった。目の前の少女達は素早く頭をさげてルカに一礼すると、真っ赤にした顔を俯かせながら、踵を返し、走り去る。そうして早々に再び事情聴取をうける集団の中に溶けていった。ジュネとマオを残して。


「ふふ、若いわね。ルカさん、本当にありがとう。旅人さんにもよろしくね。貴方も十分かっこ良かったわよ」


「有難うございます…」


ルカは握った紙を見ながら寂しげにジュネに答えた。


「ふふ、おばさんに言われても嬉しくないか!」


「いや、そんな事は…」


言葉が続かなかった。ジュネの方を見ると、笑みを浮かべていたが、一筋、その瞳から雫が落ちていた。


「有難う。助けてくれて。貴方のおかげよ。いつかお礼をさせてね。またヤークに来た時は連絡くださいな」


ジュネはルカの手にそっと手を添えた。


「いや、いいんだ。みんな、助かってよかった」


しかし、そんな言葉に俯く1人の少年。何も言えず、ただ立ち尽くす彼の胸にある火傷跡が酷く赤く見えた。これから、彼はどうしていくのだろう。そんなことをぼんやり考えた。ふと、船であった時の言葉がまた聞こえた気がした。


「…なぁ、マオ」


「…?」


「お前…まだ、俺の所に来る気、あるか?」


「え…?」


少年の顔がルカを見上げる。涙と期待に濡れた瞳は青く輝いていた。


「いいの?」


「正確には俺の仕事場で働くか?って話なんだけど—」


「やる!やります!ルカさんの元で働けるなら何でもやります!!」


マオは二つ返事でルカに飛びついた。あまりに喜ぶものだから、ルカは少し困った様子で、「ちょっと待ってろ」と言うと、紙に何かを書いて、それを上等な封筒に入れ、マオに渡した。


「ここでの取り調べが終わったら大陸を渡って、この住所に行け。残念だが、俺は連れて行ってやれない。別な仕事があるからな。暫くは帰れそうにないんだ」


「う、うん」


急に不安げな顔になるマオ。まぁ、当然だ。


「大丈夫だ。俺の国に行くには十分な金は入ってる。ただ、それ以上は助けられない。道中困ったら自分で何とかしろ。それぐらい出来なきゃうちじゃ働けない。…それでもいいか?」


「…うん!僕、頑張る!絶対ここへ行くよ!!」


「よし、じゃあ…まてよ、あ、あった。これも持ってけ」


ルカが鞄を漁って取り出したのは銀のボタンだった。


「俺の証明だ。俺の国で戸籍を手に入れるまでは、俺の家名を貸してやる。役に立つだろうから無くすなよ」


「うん」


「じゃあ、もう行け。さっさと調査終わらせて、切符を取るんだ。俺の国は遠いからな」


「うん、ありがとう!!ルカさん!!」


「ああ」


走り出したマオは人垣に入る前に、またこちらを振り向いた。


「ルカさんの国で、待ってるからね!!」


「ああ、頑張れよ!!」


大きく手を振りあい、別れを告げる。すると心配そうに見上げるジュネの姿が目に入り、少し胸が痛んだ。


「いいんですか?」


「…マオ1人だけだが、1人でも救えるなら手を貸すべきだと思ってな。…それにあいつは船でも俺を救おうと必死に動いてくれたし、心根が強い。雇っても損はないだろう」


あの船には奴隷の印を持った子供たちがマオの他にもいた。彼らもマオと同じく、ここから解放されても家など持たない。いくらルカでも全員を助けるのは無理だった。だが、マオには恩がある。だから、助けてやりたいと思ったんだ。我ながらとんだ偽善だが、誰か救えないよりはマシだと思いたかった。

マオを救う。そう心に決めた束の間、ジュネが横で教えてくれた。


「あ、そうそう、他の行き場の無い子達は、ここの商店の人たちが協力して、住む場所と仕事を与えて下さるみたいですよ」


「…え?」


そんなに寛容だったっけ?この国。


「じゃあ、つまり、あの船にいた奴隷身分の子達は…」


「ええ、みんな、暫くはここでお世話になるみたいです。さすがに平民として、というのはまだ難しいみたいですけど、条件見たら悪くなかったですよ。半日の労働で3食宿付き、週末には無料学習会参加義務、ですって」


「なんだよ…おれ、てっきり…!!すごくいいじゃないか。それ」


あんなに悲しそうな顔をしていたら、誰だって救ってやりたいと思うのが人情だ。てっきり、マオはこの先の生き方に不安を抱えているのではないかと思っていたのに。余計なことをしたのかもと思うと、ルカは自分が恥ずかしくなった。


「まぁ、でも、『やっぱりダメだ、ここで働け〜』なんて言ったらマオ可愛そうですね。あんなに嬉しそうでしたし」


遠くを見ながらジュネが言った。


「うっ…」


「ふふ、ルカさんってお優しいですね」


少し小馬鹿にしたように笑うジュネは、少し意地悪に見えた。もういい。これでいいのだ。みんなが幸せでルカもハッピー、これでいいのだ。


「いや……良いんだ。俺はあいつの根性を買ってる。あいつは見込みがあるんだ…。うん。…じゃ、じゃあ、俺、そろそろ行きます」


「そうね。それ以上、手紙が増えると厄介だし…気をつけて行ってらっしゃいな。あの子にもよろしく」


「そうだった。早く探さないと。俺もあの少年には色々と聞きたいことがあるからな。では、失礼する。お元気で」


「ええ!」



ルカは手を軽く振って走り出した。後ろで女達が引き留めようとする声が聞こえたが振り返らなかった。





「あーあ、行っちゃった」


人垣の中では、旅人への手紙を渡し損ねた女性達がいくつもため息をついていた。しかし、中にはルカが本命の子もおり、その子達は、旅人ファン以上に物凄く落ち込んでいる。



(ああいうタイプを好きになる子って奥手が多いわよね…。清楚系で良い子が多いかしら。ルカさん、残念。モテてるのになー。本人は気づかないなんて)



事情聴取の場に戻ったジュネは顎に人差し指を当て、少し考えた。



(でもルカさん、少年って…。まあ、あれに気づかない様じゃ無理ないか)



ジュネはいつか来るであろう、ルカの幸せを願った。





その頃だった。旅人はまだ船着き場にいた。たくさんの倉庫が並んだ一角の小さな通路でやまびこの亭主と会っていた。


「おじさん、この子の事よろしくお願いします。ちょっと直接自治会通すのは気が引けちゃって…。一応直接シュウさんには手紙書いたから、事情はわかってくれてると思う」


旅人は獣の子を預けるために鳥に頼んでやまびこの亭主を呼び寄せていたのだった。


「フィンディか。この年齢だと、人型もままならないんじゃないか?」


旅人は獣の子の美しい毛を見て渋い顔をした。


「うーん、どうでしょう。ねぇ、君、人型になれる?」


「ひとがた?」


獣の子は不思議そうに旅人を見上げた。


「えーっと…私たちみたいな姿になること」


「……」


キョトンとして真顔の獣の子。やっぱりダメかとため息を吐きかけたその時だった。


「できるよ」


「ほんと!?」


「うん。ほら」


獣の子がそう言ったので、旅人も思わず喜んだのだが、その束の間、目の前にはプニプニほっぺと獣耳が可愛い女の子が現れた。よく見ると尻尾までそのままだ。


「あ、残った…」


少女はそう言って、少し残念そうに自分のふさふさと揺れる自分の尻尾を掴む。思うようにいかず落ち込んでいるようで、ピンと立っていた耳がシナッとしょぼくれると、その拍子に口元に長い髭がにょっと伸びた。


「…ぷっ」


「え?」


「っはっはっはっはっ!!」

「ふふふふふふ」


突然笑い出す旅人と亭主。落ち込んでいた少女は訳がわからず眉を顰めた。


「ああ、なんだか小さい頃のお前さんの世話するみたいで懐かしいよ」


徐にしゃがみ込んだ亭主は笑いすぎたせいか少し目に涙を浮かべていた。


「どれどれ、暫くはこうするかね」


そう言って、腕に巻いていたバンダナを取り外し、少女の頭を覆うようにして巻きつけた。耳の部分が少し盛り上がっていて不自然だが、無いよりは良いだろう。だが、仕切りに耳を気にして少女は不快そうだ。


「居心地悪いかも知れないけど、目立つからね。早く人型覚えるんだよ」


少女は不貞腐れながらも、うんと頷いた。亭主はそんな彼女に微笑むと、立ち上がり、彼女の肩に軽く手を乗せて旅人と向き合った。


「まあ、子守は慣れたものだから安心しなさい」


「今度は長期戦になるけどね」


「はは、上等さ。にしても子供が増えるなぁ…」


「ん?」


はて、子供が増える?とは?亭主は他に養子でもいるのだろうか?旅人は妙に思って首を傾げた。


「なんだ、知らんのか?あの船に捕まってた子供達。帰る家がない奴らはみんなこの自治区で引き取っちまう事にしたのさ」


「え、この国ってそんな寛容でしたっけ?」


「シュウさんとこのだよ。あの婆さん、意外に情に厚いのさ。一応、私たちの長だからね」


「ああ、でも、国への報告は大丈夫なんですか?」


「なんとかするだろ、あの婆さんなら」


「はは、確かに」


「もしかしたら、お前さんの手紙が効いたのかもな」


「…うーん、どうですかねぇ。それにしては、あまりにも手際が良すぎるし…こういう事態を想定してたんじゃないですか?」


旅人が冗談交じりにそういうと、亭主は一瞬面食らった顔をして盛大に笑った。


「はははっ!ああ、そうだな!!いやー誰も敵わんな、あの婆さんには」


「そうですね」


旅人は笑いながらそう答えると膝をついて今度は少女より少し低い目線に立った。


「このおじさんはね、私がとってもお世話になったおじさんなの。少し厳しいところもあるけど、とっても優しいおじさんだから安心して。えーと…名前はなんて言うんだっけ?」


少女は眉間にしわを寄せて旅人の話を聞いていたが、腕を上げたかと思うと旅人の首にゆっくりとしがみついてきた。


「名前ない」


「そっか…」


余程幼い時に連れ去られたのだろうかと思うと旅人は胸が痛んだ。


「…それじゃあ、そうだな…アイなんてどう?」


少女は旅人の肩に顔を置いたまま首を傾げた。


「名前だよ。貴方の名前。アイ。どう?」


昔読んだ物語の主人公の名前だった。その主人公も金髪の長い髪であり、たくさんの愛を受けながら成長していくという内容だった。


「いい名だ。素敵じゃないか、アイ。響も良い」


亭主も褒めてくれた。少女に言い聞かせる様に。少女は旅人にしがみついたまま沈黙していたが、やがてコクリと首を縦に振った。


「よかった。決まり。貴方の名前はアイ」


少女の腕に力がこもった。


「アイ…も行く。一緒行く。おまえと一緒に行く」


旅人は困った。そして昔を思い出す。自分も昔、イツキに同じ事を言って泣きわめいたものだった。この少女の気持ちが痛いほどよく分かる。


「おいていくのダメ。ヤダ」


アイの声が泣きそうになる。しかし、自分はこの少女を守りきれるほど、強くない。 


「アイ、よく聞いて。私の旅は危険が多いのさ。アイが危険な目にあっても守りきれないかもしれない」


「アイは強い。守れる」


「ははは、そうだったね。アイは強い。でもね、そんなに強くなくて良いんだよ?」


「?」


アイはしがみついていた腕を解いて、旅人と顔を見合わせた。


「ここで、たくさん学んで、たくさん遊んで、人型が上手くなれば、人として生きる事だって出来る。それを選ぶのはアイだけど、今はまだおじさんの所に居た方がいい」


「うーん?」


「ははっ。少し難しかったかな?まぁ、それまでアイには時間があるって事よ。この時間のゆっくりした場所で勉強でもして過ごしたら良いさ。おじさんは優秀な薬師なんだよ?」


「アイ、お前と一緒に行く方がいい」


困った。こんなかわいい目で見られたら旅人だって揺らいでしまう。


「…うーん」


なんと言ったら良いのか。困り果てていると、亭主が笑って助け舟を出してきた。


「はははっ。アイ。こいつにはやる事があるのさ。アイが良い子にして、たくさん勉強して大きくなったら、いつかこいつと一緒に旅が出来るさ」


「…ほんと?」


亭主を見上げるアイの眉はハの字に下がっていた。


「ああ、本当さ」


優しく微笑む亭主。自分にもかつて、こんな視線を向けてくれた相手がいた事を思い出した。


師匠。


小さな少女と亭主の大きな手が記憶と重なる。旅人は腰元の刀にそっと手を触れた。


「……そうだね。いつか、アイが大きくなったら一緒に旅に行こう。迎えに来るから」


「ほんと?」


「ほんと。約束は守るよ。そうだ。指切りをしよう」


旅人は勢いよくしゃがみ込むと、アイの小指と自分の小指を絡ませた。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った!」


「これで、約束?」


アイは小さな小指を不思議そうに見つめながら言った。


「そう、約束。いつか一緒に旅をしよう。それじゃ、おじさん。アイの事よろしくお願いします」


旅人は立ち上がった。亭主は困った様な顔をして笑っている。


「ああ、気をつけてな。手紙も寄越してくれ。きっとアイが寂しがる」


「わかりました」


「それと、あのクルル人には気をつける事」


「え、クルル人?近くにいました?」



思わず周りを見渡した。漁師と商人しか目に入らなかった。


「違う違う。あの喧嘩の強いキレイな男だ」


「あー、え、あれクルル人?」


「たぶんな。純血じゃないらしいけどな…」


やまびこの亭主が難しい顔をした。妙だと思った旅人も眉をひそめる。


「らしい?誰情報ですか?」


「喧嘩の時にあの男に大金かけて一人勝ちした学生だよ。得意げに『あいつはクルル人の血を引いてる』て酒飲みながら話してたぞ」


旅人はああ、あいつかと思い出した。そういえば、自信を持って金をかけていたお坊ちゃん学生がいた。何だか随分と胡散臭い情報だ。


「本当ですかー?それ」


クルル人と言えば、巷ではエルフの末裔とかなんとか言われ、優れた聴力に、長い手足、銀色の髪と同じく銀の瞳を持つ美しい種族。

全く当てはまらない訳では無いような気もしたが、しかし、彼の髪は濃紺で、確か瞳の色は銀というよりは少し燻んだブルーグレーだったはず。


「まぁ、クルル人だからどーのって話じゃないが、何にせよ西の者だ。気をつけるに越した事はない。奴はイツキやツバサの事も気にしてたみたいだしな」


「わかりました。でも、大丈夫ですよ。どちらももうこの世に居ませんし」


「…そうか」


ここまで来ると何か信念の様なものを感じる。亭主は胸が痛くなくった。

じゃあ、と旅人が立ち去ろうとするとマントが引っ張られた。旅人は慌てて自分の斜め下をみる。アイがこちらを見つめていた。


「アイ、良い子にー」


「おまえ、名前」


遮られた。そういえば名乗っていなかった。自分としたことがうっかりしていた。旅人はアイに優しく微笑んだ。


「タスク」


「たす、く?」


「そう。じゃあ、アイ、また会おう!それまでいい子にね!」


そしてマントが風に舞い、勢いのままタスクはかけていた。





その頃、昨晩タスクが酒を飲んだ店では、1人の老婆がタバコを吸って一服して居た。


「全く…面倒ごとを押し付ける天才だね。あの子は」


「お、なんか楽しそうだね、いい事あった?」


その時、扉が開いて、ふざけたオヤジの声がした。目ざといそいつは、すぐにテーブルの上の紙切れに気がついた。


「なんだい、孫娘から手紙でも貰ったかい?」


「ああ、まぁ、そんなところさね」


老婆はそう言って、オヤジがいつも頼む小さな小鉢を差し出した。





潮風が吹く船の上では、瓶と小さな紙切れ。


—高くつくよ。


たったそれだけ。


「やっぱり情に厚いなぁ、シュウさんは」


旅人はまた空に向かって歌った。

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