第1話 遥々来た男

1 遥々来た男


波の音と人々の活気のある声が交差する。


「この街は相変わらずだなぁ…」


ここはヤーク国ミズナミ港。ヤーク国は海に囲まれた島国だ。稀少な鉱物資源と豊富な海洋資源で商業国として栄えており、各国の交流が絶えない。国内には主要な港が6つあり、このミズナミ港は、その中でも最多の交易数を誇るヤーク国最大の港なのである。沢山の外国人に沢山の珍しい物、ここの港街は年がら年中、色々な人と物で溢れかえっている。


その活気に満ちた表の通りから少し外れたところにもまた、国内外の観光客を迎入れるための老舗がびっしりだ。宿屋、居酒屋、武器屋、雑貨屋…様々な店が軒を連ねている。店の外壁には、個性的な看板や、メニューの貼り紙されてたり、中には古びて剥がれそうになっている手配書なんかもある。


そして、そんな商店街の通称''裏通り"と呼ばれる3番街に「やまびこ」という喫茶店はあった。


その店は普通の喫茶店とは違っており、亭主が薬学に通じている事から、薬効のあるジュースや酒が飲める店として地元民や観光客の間で密かな人気を誇っている。しかし人気とは言っても、何分見つけにくいこの通りにあるためだろうか、毎日来るのは決まった客ばかりだ。もちろん、初めてのお客も何人かはいるのだが。つまり—


「知る人ぞ知る名店なんだ!」


と常連ぶっている客が、向かいの席にいる友人に誇らしげに話していた。彼らが飲んでいるのはこの店の一番人気メニュー、ヤチャである。一見、コーヒーと見間違うような色の少しピリッとする飲み物だ。甘くて爽快なこの飲み物は薬効も高く、元気になる、風邪によく効くと言われている。


そんな客の会話で賑わう店に、暫く見なかった顔がやって来た。


「久しぶりだね」


やまびこの亭主は磨いていたコップを置き、カウンター席に乱暴に座った懐かしい人物に顔を向けた。カーキ色の外套を被っていたそいつがフードを脱ぐと、ふわりとした蜂蜜色の髪の毛が露わになった。


「あら、おじさん、案外すぐ分かっちゃうもんですね」


外套の下は薄御れたヤークの民族衣装。袖口に向かうに従って広がる紺色の衣は所々擦れていて、少し見窄らしい。ズボンも所々縫い目がある。どうやら旅人のようだが、それにしては肩から下げる鞄は小さいし、1人で旅をするには心配になる程小柄だ。おまけに、にんまりと悪戯っぽく笑った顔が旅人をより子供ぽく見せた。

亭主はそんな彼を見るなり、大きなため息をついた。


「はぁ、私を誰だと思ってるんだ?お前さんがこーんなちいちゃい時からの付き合いだぞ?少しの変化ぐらいで分からなくなるわけないだろう」


そんなことを言いながら、旅人の笑顔に返すように亭主は笑い、人指し指と親指でアーモンドぐらいの幅を作った。それはいくらなんでも小さ過ぎである。


「そっか。結構雰囲気変わると思ったんだけどな〜」


旅人は亭主のボケには突っ込まず、自分の前髪を摘んで指先で遊びながら、気難しい表情をしている。何か気に入らないのか、あーでもない、こーでもないとぶつぶつ言いながら、毛先を恨めしそうに睨んでいた。亭主は相変わらずだなと思いながら、そんな旅人にコーヒーを差し出した。


「うーん、良いんじゃないか?前と比べると悪くない。上達ぶりが伺えるぞ」


「本当!?やった、褒められた!」


亭主の言葉に気を良くしたのか、旅人は身を乗り出した。


「それで、おじさん。今日はいつもの貰いに来ました!」


「はぁ。仕方ないな。はいよ」


亭主はまたため息をつく。少し暗い表情を見せたかと思えば、徐に懐に手を突っ込み、そして取り出したものをコトっと音を立てて旅人の目の前に差し出した。


「へ?これだけ?」


出されたものは小指ほどの小さな瓶。中にはブルーベリー程の粒が入っている。

目を点にして亭主を見返すと亭主は立派に蓄えた白いひげを撫でながら答えた。


「これで最後だ。これ以上はやれん。」


旅人は瓶を自分の目線の高さまで摘み上げて瓶の中を目を細めながら見ている。まるで信じられないといった表情だ。瓶を振りながら口を尖らせ、文句を言い始めた。


「…最後?この量だと1ヶ月も持たないですよ。困ります。これがないと」


「これ以上は体に毒だ。量を間違えれば命に関わる。前々から思ってはいたが、限界だ。今日、お前の姿を見て心を決めたよ」


「そんな、でも—」


「もう17だろう?体に負担をかけ過ぎだ。時期、薬も効かなくなる」


「…」


有無を言わさず亭主が重ねて言ったせいか、旅人は黙ったまま少し俯いた。

少し癖のある髪の毛を見下ろしながら、亭主はまたため息をつく。


「なぁ、この薬はこれでおしまいだ。本当は俺はこの分だって渡したく無いんだぞ?婆さんとこいれば安全だし、この薬だって必要なくなる。ここらが潮時じゃないか?」


「…。」


「…何をそんなに拘っている」


「別に、拘ってなんか…」


ブスくれた顔で目を逸らす旅人。それを見て、亭主は深いため息をついた。

くたびれた外套。汚れた靴。綻びを取り繕う為の包帯。そして、腰元にある細身の剣。


「全く、余計なもんばっかり背負い込みやがって…」


「…」


ため息混じりの亭主の言葉は、優しく響いたが、旅人はだんまり。唾を飲み込み、握っていたその拳には力が篭る。


「別に…背負い込んじゃいませんよ」

 

「なら、そろそろ自分の幸せを見つめ直して、真っ当に生きるんだ。これ以上、死んだも者の影を追うのはやめろ」  


「…無理ですよ、そんなの」


小さく素早い返答に亭主は耳を疑う。


「亡霊、みたいですよね。あの日死んだのは、イツキだけじゃ無いんだって、自分でも思いますよ。ずっと過去に縛られてる。と言うより、しがみつきたいのかも知れません」


「何を馬鹿な事を…」


亭主は言葉につまり、それ以上続けることが出来なくなった。二人の間には暫くの沈黙が流れ、そのせいで、店内はピアニストの奏でる3拍子の優しい曲とお客の会話が妙に煩く聞こえた。


ガタッ


椅子を引く音がすぐ側で耳に刺さった。テーブル席の方で誰かが勢い良く立ち上がったみたいだ。次いですぐに、足音がこちらに向かって大きくなっていっていく。しかし、亭主も旅人も、彼が自分達の横に立つまで、その存在を気にもとめなかった。


「その話は…本当か?」


だんまりの旅人と亭主の二人は、声の主に目を向けた。黒に近い濃紺の髪。薄く灰色がかった青い目をもった背の高い青年が立っている。髪は首の後ろで束ねており下ろせば胸の位置まで来るのではないかと思われる程、伸びていた。

一体何の用なのか。旅人はあからさまに身構えて、横に立つ見知らぬ男を疑いの目で睨みつけた。お陰で、旅人の警戒心は男に嫌という程伝わったらしい。旅人と顔を合わせるなり、男は少しだけ戸惑った表情をみせた。


「あ、いや。さっき、話してたことについて聞きたいだけなんだが…」


「…」


男の質問にも相変わらず、だんまりの旅人。そんな沈黙を貫く旅人の代わりに、亭主が取り繕うように応えた。


「あまり人の話に聞き耳立てるのは感心しませんなぁ、ははは」


亭主は冗談交じりに笑った。

それに少し安心したのか、男は突っ張っていた頬を少し緩めて、亭主の方に軽く微笑んだ。彼は旅人と話すのは難しいと判断したらしい。


「悪い。たまたま、イツキという名前が聞こえてきたものだから。それで、もしかしてなんだが、さっき話してた男って、あの10年以上前に国際指名手配になった魔法使いのイツキであってるか?」


「…何、賞金稼ぎ?」


すると突然、隣の旅人が口を挟んできた。さっきまでダンマリだったくせにどうしたのか。旅人は気に食わんとばかりに殺気の篭る瞳で男を睨みつけていた。


「…」


が、男は特段怯えた様子もなく、目をぱちくりさせて、少し困ったように呑気に苦笑いを浮かべるだけ。


「……馬鹿にしてるんですか?」


「いやいや、決してそんな事はないさ。」


とは言いつつも困り顔で薄ら笑いを浮かべる男。随分と余裕そうだ。旅人はこういう奴がもの凄く嫌いだった。


「じゃあ、何笑ってんですか?人の顔見てヘラヘラと…」


「いや…その、お前、独りか?保護者はどうしたんだよ?」


「はあ?…あんまり舐めてると痛い目みるよ…?」


確かに、旅人はどちらかと言えば華奢で小さく、生意気な猫のような目と、この丸顔のせいか、どうしても実年齢よりも幼く見られる事が多かった。

この男もまた例外では無い。まるで、大人が小さな子供の駄々を見守るときのような目で旅人を見てくる。彼もまた、今までの道中で旅人に突っかかって来た愚か者どもと同じなのだ。全くどいつもこいつも、人を見た目で判断しやがって。そう無性にはたわた煮えくり返った旅人は腰元の刀に手を—


「っ!」


「こらこら、店で暴れるんじゃないぞ」


旅人が柄を握りかけたタイミングで亭主が止めに入ったのだ。


「…っ。ふん、命拾いしましたね」


そうボソッと零す旅人は、渋々手を収める。亭主は深いため息をついた。慣れているのだろうか。この旅人と亭主は、どうも見知った仲らしいことは、男にもなんとなく分かった。そうやって男が二人のことを見ていると、亭主はその視線に気づいたのか、少し肩を落として悲しげに語り始めた。


「はぁ…まぁ、隠した所であの人は有名だからね。さっきの話、お前さんが言ってるイツキ・サカキであってるよ」


「…死んだのか…?」


「2年前にね」


「2年もっ…」


息を飲む音と、沈黙。ふと、旅人はまた隣をちらりと見た。


点だ。そう、点。


男の目が点になっている。まるで思考が停止したかのような間抜け面。やはり、彼も賞金目当てでやってきた哀れな者共と同じだったか、と旅人はほくそ笑んだ。きっと遠い所から、遥々この地まで時間をかけて足を運んだに違いない。男が身に纏っている服は、くたびれているが物は良さそうだし、靴も鞄もボロだが上等そうだ。おそらく旅のために揃えたのだろう。可哀想に。

賞金が掛けられている当の本人はもうこの世にいないのだ。旅人は、「ざまぁみろ」と鼻で笑うと、自分にはもう関係ないといった様子で亭主の入れたコーヒーをまたすすり始めた。


「…」


店内に響くピアノの音が妙に大きく感じる。


「…」


3人の間での会話は途切れたままだが、もう話す事もないので男は立ち去るのだろうと旅人は思っていた。


「…」


しかし、男はまだそこにいるではないか。

旅人はカップを手に取りながら、亭主に視線で合図するが、彼は眉を下げて首を横に降る。まだ様子を見よう、という事だろうか。


「…」


横目に映る男は俯いてばかり。微動だにしない。もう、5分は経っただろうか。


「…」


もどかしくなった旅人は空になったコーヒーカップをカチャンと音を立てて皿の上に置いた。


「あの、いつまでそうしてる気です?もう用なんかありませんよね?」


「…サは?」


「何ですか?」


俯きながらボソボソ喋るので聞き取れなかった。イライラして聞き返すと男はゆっくりと顔をあげた。真剣な表情が意外すぎて旅人は体を後方にそらしてしまった。その灰紺の瞳は妙に迫力があった。


「ツバサは…?イツキと共に旅をしていた少女が居た筈だが…」


「…何でその名前」


「やっぱり、知ってるのか。“あの日、死んだのはイツキだけじゃない“って言ってたが、つまり、2人ともいないのか?」


「「…」」


男の言葉に、旅人と亭主はお互いの顔を見合わせた。数秒見つめあった後、旅人は目線を亭主からゆっくりと男の方に移しながら、暗い声で答えた。


「ええ。彼女はイツキと同じ日に死にました」


男はまた息を飲んだ。


「どこで…?」


「…」


「…頼む、教えてくれ!彼らはどこで、どうやって死んだんだ!?」


男の悲痛な視線に、旅人は呆気にとられた。何故、こんなにも彼は必死なのか。賞金首の死に方など、普通どうでも良いものでは無いだろうか。旅人は疑問に思いながらも、彼の質問に答えていた。


「襲われて負った傷が酷くなって…そのまま」


「襲われた…?賞金稼ぎにか?」


「さぁ。彼は色んな人に追われてましたから」


「場所は!?」


突然強く掴まれる肩。少しの痛みに驚いて旅人も息がつまった。


「レ、レーベン山脈の麓にある、小さな村で—」


「その村の名は!?」


「ハ、ハルバン村で—」


本当は別にそこまで教えてやる義理は無かったのに。男の覇気に気圧されてしまったせいだ。ああ、しまった、話しすぎたと思ったのも束の間、旅人は男の目から光が失われるのを見て、やっぱり妙だと思った。


「—すけど…?」


旅人が口から出た勢いのままに最後の一言をボソリと呟くと、男は俯いた。表情はよく見えないが、これは悲しんでいるのだろうか。何故?彼がこんな感傷的になる必要があるのか。もしかして、何か賞金ではなく、別の理由が絡んでいるのかも知れない。旅人は、真相が知りたくて俯く彼の顔を覗こうとした。

その瞬間、彼はゆっくりと口角を持ち上げ、今度は突然大声を出して笑い始めた。


「はっ…はは、ははは、そうか」


旅人はとっさに背中を逸らした。


「…」


不気味だ。その笑い声はまるで悪魔のようだった。こんな情緒不安定な男をおびき寄せるなんて、さすが賞金首、イツキである。


「つまり、ぜーんぶ無駄足だったってわけだ。はーあ。もういいや、今日は存分に金を使ってやる!」


泣いたと思えば今度は、まるでこれまでの苦難や困難を断ち切ったかのように、清々しい程の爽やかな笑顔。イツキとツバサの死を聞いて落ち込んでいた時は、そこまで悪い人ではないのではないか、と思った旅人であったが、どうやら違ったらしい。


彼はだいぶヤバイ男みたいだ。


ここは退散するに限る。頬のつっぱりを感じながら、旅人は椅子から立ち上がろうとした。「また後で来るよ」と、そう亭主に伝えようと口を開くと同時に、男の手が旅人の肩に乗せられた。その手は、旅人を椅子に押し付けるようにずっしりと重くなった。


(げっ)


あからさまに嫌そうな顔をした旅人であったが、男はそんなのお構いなし。輝かしい瞳でこちらを覗きこむようにしながら旅人に尋ねてきた。飛んだ鋼メンタル野郎だ。


「それで?君は、、というか君たちはイツキとはどうゆう関係なんだ?友人と言っていたが…。失礼を承知で聞くが、指名手配の友人って…まさかあんたらも何か悪い事してないだろうな?」


冗談なのか本気なのか、楽しそうな笑顔からはそのどちらともつかないのは、旅人の警戒心が強過ぎるせいだろうか。

おまけに、さっきまで立っていたはずの男はちゃっかり旅人の隣の席に座りこんでいる。しかも、肩に腕まで回して。旅人は舌打ちをして、それを払い退けた。


「あなたと話すことなんかありません!なんです!?初対面のくせに!!」


「なんだぁ、つれない奴だな。マスター、こいつにもう一杯同じものを。あと、俺にも」


「はぁ!?なんであんたに奢られなきゃ—」


「はいはい。お前さんもそうカッカするな。大人しくもういっぱい飲んでいきなさい」


「はあ!?おじさんまで何言って!」


「いいからいいから。この一杯は私かの奢りだから。そんじゃお客さん、このガキンチョの代わりに私がお応えするよ」


フォローするように苦笑いする亭主は、旅人の空のカップを手に取り、コーヒーを注ぐ。不満そうにしていた旅人であったが、『亭主の奢り』と言う言葉を耳にするなり大人しくなって、浮いていた腰を再び椅子に降ろした。

そして、亭主はもう一つ、新しいカップにもコーヒーを注いだ。カップの中ではコーヒーが渦を巻いていて、そこから湯気がゆるゆると立ち上っていた。


「ヤツとは昔からの知り合いでしてね。もう20年いや、30年前になるかな?旅の途中で兄弟でうちに来ましてね…。変わった客だったが弟思いのいい奴でしたよ」


亭主はコーヒーのたっぷり入ったカップを男の前に差し出しながら言った。


「弟?いたのか?」


「ええ、でも、確か血は繋がってないって。二人は本当の兄弟ってよりは兄貴分と弟分って感じだったかな、あれは。若い頃のイツキは陽気な奴でね。弟の方は寡黙でしっかりしてて、たまにどっち上か分からない時がありましたよ」


「へぇ」


「イツキはこの国にくるときは絶対うちの店に寄っていたね。もちろん指名手配されていたのも知ってましたがね。どっかの警察が何度かこの店にも来ましたが、いっつもタイミングが悪くてねぇ。あの人、まるで奴らの動きを呼んでたみたいに上手く逃げてたよ。はははは」


「ほぉ…それでよくつかまらなかったな。…でも、そんな事があったんなら、この店もそれなりに危険な目に合ってるんじゃ無いのか?よく今まで無事で…」


男がそう思うのも無理は無かった。店内はいたって普通。客も一般人。店もこぎれいで、亭主は程よい肉付き。むしろ平和ボケしてるくらいのどかな雰囲気で、とても指名手配犯が出入りしていたような店には見えなかった。


「そうですねぇ、まあ、危険はどこにでもありますけど、客も私も、1人の指名手配犯に気にかけてる余裕も興味も無かったんですよ。開国したのもここ数年の話で、みんな商売するのに躍起になってたから」


「随分と呑気なお国柄だな」


「それはそうかもしれませんね。ははは」


亭主は愛想笑いを浮かべる。そして、コップを磨いていた手がおもむろに止まった。


「呑気と言えば呑気なのですが、うちには誇れる自警団があるんですよ。そちらをみんな信用してるんです。私が今日もこうして安心して商売できるのも彼らのお陰です」


「自警団?」


男は首を傾げた。そんな彼をみて、亭主はまた愛想笑いを浮かべる。


「そう。それぞれの街単位にある半民営の自衛団体ですよ。皆、普段は別に仕事を持つ一般市民で構成されているんですが、とっても強くて。東の地では有名なんですよ。もしかして、ご存じない?」


「初耳だな。しかし、半民営って、大丈夫なのか?政府の警備体制は一体どうなってるんだ?やはり、街を守るなら、それなりのプロを置かないと。ここは港町で外国からの客や移民も多いし、治安維持のために、ちゃんと訓練された警察とか警備隊を置いた方がいいんじゃないか?」


男がそう言った瞬間、亭主のこめかみがわずかに動いたが、おそらくそれは旅人意外、誰も気付かなかった。


「政府の警備隊を置いても、意味がないんですよ」


「は?」


「昔はそういう動きもあったんですが、設けたとしても、一般市民が強すぎて、政府のお役人さん方は殆ど仕事にならなかったんです。特にこの港町の人は女性も子供の頃から武術を嗜みますからね。女性が男性を捕まえる事だって珍しく無いですし。それで政府の方も考えたのか、今度は直接腕の立つ一般市民を取り込もうとしたんです。でも、武道家気質の者はどうも頑固でね。結局、政府側としても完全に撤退するわけにもいかず、半民営化という形で落ち着いたんです。“皆んなが皆んなを守りあおう“と言う、いわば、この街全体が一つの大きな自衛集団なんですよ。どんな悪党でも、そう簡単には悪さを出来ませんよ…」


すると、男は笑った。


「ははっ!!またまたぁー、マスター、面白いこと言うな!ヤーク式の体術は話には聞いたことあるけど、女が男に勝てるって言うのか?流石にそりゃ言い過ぎだろ?」


「どうですかな?流石に女性全員がと言うわけではありませんが、貴方を転ばせる事ぐらいは簡単に出来ると思いますよ」


「…」


冗談かと思ったが、亭主の顔は少しも笑っていなかった。彼の毅然とした態度に、流石に男も少しばかり戸惑っていた。


「…はっはっ。でも、やっぱり言い過ぎだよ。女性が俺を転ばすなんて。言っちゃなんだが、俺だって腕にはそれなりに自信があるし、一般市民に負けるほど柔じゃない」


「なら、試してみます?」


「え?」


亭主の声がいきなり小さくなって、男は半分身を乗り出すように耳を傾けた。


「手合わせしたきゃ、そこらで声掛けてみるといいですよ。普段は皆ただの一般人なので。ただし、やる時は外でやってくださいね。100人組手になるだろうから」


笑顔の亭主。その得意げに話す亭主の顔が男の鼻についた。まるで勝てるもんなら勝ってみろ、と言わんばかりの口ぶり。男の野心に火がともり、自然と口角が上がった。


「ほぉ、面白そうだ。是非手合わせしたいね」


男がそう言葉にしたその時、店中の椅子が一斉に引かれた。


「よっしゃー!にいちゃん、外でな!!まずは俺と勝負だ!!」

「ちょっ、ずりーぞ!!おまえがやったら出番なくなるだろ!!」

「じゃ、俺が先に!」

「いや、俺が」

「じゃ2番目で!」

「そんじゃーその次」

「お、何だ何だ久々の祭りか?血祭りか?」



まるで男のその一言を待っていたかのように、店中の客が集まりだした。よく見ると店の外からも血気盛んな男どもが集まってきている。



「あんたら、外でやってください!!」



亭主が声を荒げると、「そうだ、迷惑かけちゃいけねぇ、連れ出すぞ」「「おおおー」」の掛け声とともに、街の男共は長髪の男の両腕をがっちりと掴み、流れるように外へと連れ出していった。旅人は連れて行かれた哀れな男とバッチリ目が合っていたわけだが、もちろん旅人はただそれを眺めていただけである。


「さぁて、どうなるかな?何人持つと思う?」


「さぁ、鍛えてるみたいでしたけど、ヒョロイし…頑張って3人いけば良いですね」


「お。お前さんにしちゃ、買ってるほうじゃないか?」


「…どうかな」


亭主は面白そうに旅人に尋ねたが、旅人の返事はどこか素っ気ない。興味がまるで無いように頬杖をついて呆れ顔をしている。閑散とした店内では、観光客が間の抜けた顔をしている傍、常連客同士での勝敗の掛けが始まっていた。


「俺は1人。旅で栄養が足りてないと見た」


「じゃー、わしは3人」


「おおー、今日は奮発するなぁ。」


「いちいち5とか10で掛けてられるか。」


「んーじゃあ、僕は10人で200かな。」



背後から、ありえない数が聞こえてきたものだから、思わず旅人は振り返ってしまった。眼鏡をかけた妙に姿勢のいい青年だった。もちろん、旅人が言うまでもなく「馬鹿かおめぇ!!餓鬼のくせに金をドブに捨てるような真似するんじゃねぇ!!」と周りのジジイどもから罵詈雑言を浴びている。しかし、青年はその乱暴な言葉を気にすることなく、ただヘラヘラと笑って誤魔化している。



「大丈夫ですよ〜。僕、学生ですけどお金はあるんで〜えへへへ」



(ちっ。ぼっちゃんだったか)



ジジイどもも思ったことは同じだったらしい。


「なんだよ!金持ちか」

「遊びたい年頃なんじゃよ。最近の若い世代はうんたらかんたら…」とジジイ特有の小言をつらつらと述べている。すると、いきなり外から歓声が上がった。



「おっ、決着がついたか!?」


「なんだ、思ったより早かったな!じゃ、俺の勝ち」


「いや、待て!ありゃ…」


店に残った全員が窓の外に目をやった。しかし見えたのは誰もが予想もしていなかった光景。数人の男が宙を舞っていた。


「え!?」


男達が次々に投げ出され、観客の中に落ちていく度に歓声が上がる。旅人は驚きのあまり、開いた口が塞がらなかった。そして、吸い寄せられるように、徐に立ち上がる。


「ちょっと見てくる」


「あ、おい…って」


亭主の呼び声も無視して、旅人はやや早足で店の外に出ると、そのまま迷わず熱を持った人の塊の中に足を踏み込んだ。揉みくちゃにされながら、人垣を掻き分け視界が開けると、口元から血をにじませたあの男が立っていた。



「次!!」



男は威勢良く声をあげた。どうやら今回は体術勝負らしい。真剣な表情で両拳を握り、胸の前で構えている。予想外な展開に観衆は異様な盛り上がりを見せていた!


「いいぞー!兄ちゃん!!」

「体術で魚屋のリサクを倒すなんて…」


「は!?あの魚屋を倒したの!!??それ本当!??」


旅人はとなりにいた男の胸ぐらを掴んで必死で聞いた。そうでもしないと、試合に夢中になって話を聞いてくれなさそうだったからだ。


「え?ああ、そうだよ!そのリサクを倒したんだ!」


少し迷惑そうにしながらも、その観客は答えてくれた。驚きで空いた口が塞がらない。旅人はこれまで一度だって体術勝負で魚屋の主人、リサクが負ける姿を見たことがなかった。なのに、あのヒョロヒョロが、体術では負けなしと言われる魚屋の主人を倒してしまうなんて、にわかには信じられなかった。


「うおおー!」


また歓声が上がる。長い手足を生かした動きに、線の細い彼が出せるとは思えない早いかつパワーのある攻撃。旅人はその戦いぶりに目を丸くしながらも、どこか既視感を感じていた。


(…ん?誰かに、似て……いや、違うか、気のせいだわ)


また1人倒され、男は圧倒的強さを見せつけている。だが、ヤークの男どもも負けていない。寧ろまた1人、1人と負けるたびに闘争心を燃やし、目をギラギラさせていた。男の力が強い分、ヤークのもの達は極力攻撃を避けたり、いなしたりしながら、少しずつ確実に男に体力を削っていった。そんな作戦が功を奏したのか、徐々に男の顔にも疲労が見え始めた。とはいえまだ誰も男から一本取れていない。男が雑貨屋の主人を今までより少し長い時間を掛けて倒したあと、そいつは出てきた。



「じゃあ、次は—」

「次は、私が行くよ」


男の異性のいい声を遮る声。男は突然出てきた老婆にキョトンとした。


「おい!シュウのババアだ」

「ひっこめ、クソババア!!さっさとおっ死ね!!八尾比丘尼!!」

「誰だい!?今言ったやつ、お前の店の潰してやるからな!!」



観衆は老婆の一言に応えるように雄叫びを上げ、腕を天高く、行け行けと振り回す。それとは対照的に、中には顔を強張らせている者も何人か見られた。それもそうだ。この街に彼女を敵にしたいと思う者はまずいない。彼女の名前はシュウといい、この商店街の最高権力者の中の1人だからだ。商売も喧嘩もかなりのやり手として有名で、もし機嫌を損ねて敵にでも回した暁にはその店ごとそいつは存在を消されてしまう、と言うのは商店街伝説の1つである。


男は老婆を見た。老婆は体は細いが背筋はしっかりしており、気が強そうな目をしていたが、そのたち姿にはどこか上品さがある。きっと若い頃はさぞかし美人でぶいぶい言わせていたに違いない。とは言え老婆。同じ年頃の老婆にしては、健康的に見えたが、自分と戦ったら、やっぱり骨の一つや二つ、簡単に折れてしまうのではないだろうかと、男も思わず気がひけた。



「いや、俺、あんたと戦うのは…流石に」


「なんだい?じゃあ、負けを認めるのかい?」


「そういうわけではないが…女性を殴るなんてとてもじゃないが…」


「何言ってんだ、兄ちゃん!!遠慮は要らねえ!!そいつはヤーク史上最強のババアだ!女性なんて可愛らしいもんじゃねえ、クソババアだ!!そいつに勝てたら次期自警団長も夢じゃねーぞ!!」


「ハルト!!あんたの店潰すからね!覚悟しておき!」



観衆からは笑いが起きた。そうだ。このババアには遠慮は無用なのだ。この場にいる皆がそれを分かっている。ただ1人を除いて。



「…では、宜しくお願いします」


「はいよ。手加減無用だよ」



男は構えた。しかし老婆は腕を組んでただ立っているだけである。どうやら老婆は自分から仕掛けるつもりは無いらしい。仕方ないが、男からいくしか無い。少し軽めに急所に当てて早めに終わらせればいい。そう思った男は地面を強く蹴り、ついに老婆に襲いかかった。



「手加減無用って言ったじゃ無いか」

「!?」


が、次の瞬間には、男の視線の先には何故か青空が広がっていた。老婆を倒したはずなのに、倒されているのは自分の方だったのだ。何故自分は空を見ているのだろうか。あまりの素早い出来事に男は呆気にとられていた。



「青い…」



観衆も鎮まり返り男の素直な感想だけがあたりに寂しく響く。なんとも言えない虚しさがその空間を満たしていた。



「アタシの勝ちだね」



綺麗な青空の中に老婆が顔を出した。仰向けに倒れた男を覗き込むようにして、老婆は得意げに笑っている。

何が起こったのか。思い返してみれば、腕を振りかぶったところを、老婆は素早く避け、自分は何故かその勢いのまま、ただひっくり返っただけな気がする。なんだ、あの技は。鮮やかすぎて、悔しささえ感じない。


「…恐れ入りました」


男の目には光がなく、言葉にもまるで心がこもっていない。


「ふん。負けたんだから今夜はアタシの店で金を使ってもらうよ。あとで来な。あはははははは」



老婆は何が可笑しいのか、腰に手を当て高笑い。すこぶる機嫌が良さそうである。不気味に響く笑い声に男の背筋は震え上がった。

対して、周りの野次馬どもは、戦いがあっという間に終わってしまった事に落胆していた。


「なんだよ、ババア、いつもみたいにぼっこぼこにして派手に足技決めてくれるんじゃ無いのかよ〜」


期待していたのは俺じゃなくて、老婆のほうかよ。


と男は何も考えられないはずの脳内でそう思ったが、もう何も言うまい。結局仰向けのまま青空を見ていた。


「か弱い私がこの男の力技に勝てるわけ無いだろう?さぁ、終わりだ。仕事に戻りな!」


老婆は声を張り上げて手を叩く。

大の男を倒しておいてか弱いとは何事であろうか。とは思いつつ、観衆は不満を漏らしながらも、老婆の鶴の一声で皆散れぢれになっていった。

旅人はその様子を小さくなる観衆の中でじっと見ていた。先ほどの熱は嘘かのように、観衆達はその場を後にしている。よく見ると仕事着のままの者が結構いた。本当に、仕事ほっぽりだして何をしているのだろうか。



「お、あんた!久しぶりだね。イツキのとこの弟子だろ?デカくなったわね」


「!?…よく、覚えてらっしゃいましたね。」



ふと、老婆が旅人の存在に気が付いたらしい。確か彼女の店にはイツキに一度だけ連れて行ってもらったことがある。しかし、ちゃんとした会話をしたのはその一度だけだ。

あとは、遠目で彼女にボコボコにされる哀れな青年をたまに見かけるくらい。知り合いと言うほどでもなかったはずなのに、彼女が声を掛けてきた事に旅人は素直に驚いた。

すると、老婆は心外そうに顔のシワを一気に倍に増やした。


「当たり前だろ。アタシがボケた年寄りに見えるかい!?」


「いえ…」



寧ろ並々ならぬ記憶力である。旅人は軽い恐怖を覚えた。老婆が今度は物凄い笑顔で近づいてきたのだ。これは、嫌な予感がする。さっさと退散してしまおうとした。



「そ、それじゃ…うぐっ」



旅人は勢いよく踵を返し、足を前に踏み出そうとした。しかし、マントが後ろに引っ張られた反動で、その足は高く浮き上がった。

あれ、前に、進めない!?


「何、逃げようとしてるんだい?」



振り返ると老婆が旅人のマントのフードをガッチリ掴んでいた。フードが首に食い込んで苦しい。頼むから離してくれ。



「べ、別に。だってもう、用は無いですよね?」


「あんたんとこのクソ親父、うちで散々飲んで、そのツケが溜まってるんだよ。今夜はうちで金を使いな!」


「じ…自分は飲めません!!!」


「じゃあ、その分食えばいいだろう?」


「えええ!?……」



不満の叫びを漏らしたら鬼の形相で睨まれた。これはやばい。消される。


「…ワカリマシタ。ハイ、イカセテイタダキマス…いだだだだだ!!」


仕方無しに返事をしたら老婆は旅人の耳を引っ張りながら歩き出した。旅人はあまりの乱暴さに耳が取れるのでは無いかと涙目になっている。やっと足を止めたと思ったら、そこは未だ空を仰ぐ男の前だった。

何をするかと思いきや、老婆は地面に寝そべる男に向かって呼びかけた。


「おい、店が開くのは夕刻の鐘がなった時だ。この子に連れてきてもらうといい」


「なっ…!」


言い返す、その前に有無を言わさぬ鋭い眼光。そんな目で見られたらもう、旅人だって黙るしか無い。


「いいかい、2人とも。来なかったから町ぐるみで消すからね。私の情報網舐めなるなよ」


「「…はい」」





「…うまい」


「そうだろう?予約なしで食えるなんて有難く思いな。お代はガッツリ頂くけどね」


2人は老婆の店にいた。旅人は正直もう国を出てばっくれようとしていたのだが、やまびこの亭主に「頼むから行ってくれ。お前が行かなかったら店が潰れる」と必死で頼まれたので仕方なく男を連れて小料理「シュウ」にきていた。



「この魚は何ですか?」


「それは、ハキってやつだよ。物凄くデカくて鳴き声もデカい。ただうまい部分はあんたが食べてる肝の部分だけさ。それ以外は不味くて、だいたい加工食品の工場の方にいっちまうね」


「ほぉ。初めて聞くな。そんな魚がいるんだなぁ…!…うまい!!」



良くもまぁ、この男はこうも無邪気に食事を楽しめるものである。旅人はそんな能天気な男を見て恨めしく思った。旅人は老婆の事をずっと警戒しているのだ。大体、無理やり店に連れて来るぐらいだ。経営困難で、カツアゲでもされるのかと思っていたのに、実際着てみれば予約はいっぱいであるし、従業員は物凄く忙しそうである。わざわざ旅人と男をこの店に呼ぶ意味が分からない。イツキのツケが溜まっていたとしても、別にお金だけ請求すれば良い話である。絶対に裏があるはずだ。


「こっちの酒はどうだい?ヤークの地酒だ。うまいよ」



ババアは瓶の中の酒を男の前に置いた細長いコップに注いだ。透き通った薄い黄緑色がコップを満たした。


「おお。凄く良い香りだ。甘い果実の香りがする」


「うちの自慢の酒さ。強いからがぶ飲みはするなよ。味わって、舐めるように飲みな」



男はゆっくりと少しだけ啜るように飲んだ。すると顔がパッと明るくなる。


「凄く…うまいな!鼻から抜ける香りが最高だ。辛口だが、後味はスッキリしている」


「おお、だろ?あんた味が分かるね。じゃあ、これはどうだい?」



ババアはよく食べよく飲む男に気を良くしたのか、どんどん色んな酒を勧めた。旅人は、ぼうっとその様子を見ていた。きっとイツキもこんな感じで飲まされていったんだろう。


(哀れな…)


男の周りには小さなコップが幾つも並んでいる。飲み比べを楽しんでいるようだ。コップを空にするたびに、男の声のトーンはどんどん上がっていった。旅人は呆れながら自分の前に出される料理をちまちまと食べ続けた。


そうして旅人のお腹が一杯になる頃には、男はコップを握りしめてテーブルに突っ伏していた。旅人はそんな男に気にかける様子もなく、食後のお茶をすすっている。料理は文句なしに美味しかった。師匠のツケ代が怖いがコレならいくら払っても後悔しない。そう思うことにした。


「…完全に寝たね」


隣の酒臭いデカブツに向かってババアが呟いた。「全く仕方ないねぇ〜」なんて困ったような事を言って呆れ顔で見下ろしているが、忘れていないだろうか。彼を潰した犯人は紛れもなく、このババアである。…まぁ、怖くてそんなツッコミは言えないが。


「……目的は何ですか?なぜわざわざこの店に私たちを呼んだんです?」


「…」


旅人は徐にそう切り出すと、ババアの表情が一瞬固まった。と思えば、ババアからは想像できない優しい笑みがこぼれる。真意が分からず、旅人は少しむず痒さを覚えた。


「あんたと、喋りたかったんだよ。イツキが死んだってやまびこのジジイに聞いたときからね」


「…そう、ですか」


旅人は、手元の湯のみを見た。波紋が数回、中で浮かぶ。


「…イツキはこの店に良く来てたんですか?」


「よくって程でもないけど、この国に寄った時は必ず来てたね。それより、アンタは今何してるんだい?イツキの後でも継いだのかい?まさか、あんたまで犯罪者になっちゃいないだろうね?」



ババアは冗談まじりに笑いながら、旅人の腰に目をやった。マントで隠れているものの事を指しているのだろう。すべて見透かされている気がして、旅人は少しだけ恥ずかしくなった。やはり長く生きているだけあるわけだが。


「あはは。まさか。でも、まぁ…そんなもんです。まだ国に追われる程の事はしてませんけどね」


「…ふん。なんだ。やっぱりあの頃のままじゃないか。安心したよ」


「ふふ。そうですね」


旅人は、老婆に言葉に微笑んだ。久しぶりに心から笑えた気がした。


「で、この後は何処へ行くんだい?」


「明日にでも、ポールホーンに」


「…そうかい。船は取ったのかい?」


その質問に旅人はキョトンとした。どうしたのかと思えば、今度は急に笑い出した。


「…っあははは、やだなぁ。イツキの後を継いだって言ったじゃないですか」


ニコニコと満面の笑みで旅人が答えれば、ババアの息が一瞬止まる。そう言えばこの人は、昔、イツキの前でも良くこんな顔を見せていた。


「…っあはははは、そうだったね。師弟揃って最低だよ、アンタたち。あははは。でも気を付けなよ。最近は奴隷船もあるって話だから」


老婆は豪快に笑った後、脅かすようにニヤリと笑った。


「奴隷船?」


「そう。見た目は貨物船に見せかけて港町で女子供を攫っていてどっかの国の物好きに売っちまうのさ。最近この国周辺の港でも流行ってるらしい」


「もしこの国でそんな事するとしたら、そいつら中々の勇者ですね。自警団でどうにかならないんですか?」


「どうにかなってたら、アタシの耳に入った時点でどうにかなってるよ」


「そうでした」


旅人は苦笑した。このババアにかかれば大抵の事は解決するのだ。それどころか、仕掛けた方が返り討ちにあうのがオチである。


「そこでだ。これ」


徐にババアが懐から取り出したのは小さな瓶。そこには見慣れた粒がぎっしり入っていた。それは、旅人にとっては、これから先のことを考えたら喉から手が出るほど欲しい代物だった。


「それ…」


「これはイツキが前に忘れてったもんさ。報酬はこれでどうだい?」


「…」


なるほど、やっとババアの狙いがわかった。挑発するような目で彼女は楽しそうに手の中の瓶を振る。だが、こんなことで動じる旅人ではない。


「…仕事の内容によります」


その瞬間、老婆から笑顔が消えた。


「バカ言ってんじゃないよ。あんたんとこの親父のツケ、いくら溜まってると思ってんだい!?」


「ひっ!?」


ドンっと乱暴に打ち付けられる紙の束。とんでもない分厚さ。辞典ぐらいはありそうだ。恐る恐るペラペラ巡ってみれば、さらにおったまげる事になった。これでは、飛び出した目玉を売っても足しにはならなさそうである。


「今回の件、乗ってくれるなら、このツケを半額にしてやってもいい。それと、アンタの欲しがってるこれ。どうだい?悪くない話だろう?」


「…」


ニンマリと笑う老婆。ゆっくりと顔をあげる旅人。正直その薬は喉から手が出るほど欲しい。が、嫌な予感しかしない。一体この老婆は自分に何をやらせるつもりなのか。だが、どんなに悩んだ所で、そもそも断るなんて選択肢、旅人に用意されていないのだ。だって、彼女は自警団のお偉い方。おまけにあの強さ。凡人が勝つには100年は必要だろう。そう思えば、旅人も諦めがついた。


「はぁ…分かりましたよ。で、何をすれば?」


「娘が攫われた」


「は?」


唐突すぎる話に、さすがの旅人も間抜け顔だ。


「いや、正確には囮にさせたんだ。さっきの奴隷船の話。先日の東国会議で拉致被害報告があがってきたのさ。それに伴って各地で奴隷取引もあったらしい。それで調査の為にヤークから腕の立つ人員を派遣したんたが、結論から言うと失敗に終わった。南にあるケーアで1人が負傷した状態で発見されて、もう1人は連れ去られたらしい」


「…ヤークの人でも手を焼く相手なのに、そんなの、私の手には余りますよ」


「ああ。なんせ、若い世代の中でも指折りの二人だからね。見つかった子は重症だし」


「なら、どうして私に頼むんですか?」


こんなの一介の旅人に解決できるわけがないのに。すると彼女は徐に新しいタバコに火をつけて煙をふかし始めた。


「実はな、私らと動いていた若い娘が一人、昨日入港船の検問中に突然、姿を消しているんだ。その娘がいなくなったのに気づいたのは、ある貨物船の検問を終えた後だった。そこで妙な事が起きたんだよ」


「はあ」


と、気の無い返事をする旅人。


「その貨物船の積荷の殆どは、山地が南のものだった。でも外側は北海路をいく船の名前。何故だと、船長を問いただせば、再び外に出た時は外側も南海路のものに直っていた」


「……へぇ、随分と手の込んだイタズラですね」


「イタズラで済めばいいがな。既にヤークのものだけでなく、停泊している海外の船員、乗客からも行方不明者が出ている。いずれも若い女性、もしくは少年だ。航路的にも例の船がここに停泊してるのは間違いなさそうだ。姿くらましか、何かしら身代わりの術か。恐らく魔術が絡んでるんじゃないかってね。他国の報告にも似たような事が書いてあったから。たいそうなことよ」


「…馬鹿げてるにもほどがありますよ。仮に魔術だとしたら、それだけの仕掛けってなると、規模が大きすぎる」


「ああ。でも、お前さんなら、嫌でも鼻に付くだろう?」


老婆は自身の鼻先を指でトントンと触れた。旅人からしたら腹の立つ行動だった。まるで、この老婆に犬として扱われているような気分だ。


「…まあ、そうですけど」


「なんだい、そのやる気のない返事は。腰のもんがあれば簡単だろ?イツキの後継いだってさっき自分で言ってたじゃないかい」


「む…言っておきますけど、イツキみたいに大したことは出来ませんからね。私にできるのは魔術の破壊だけですから。あんな特殊な人と一緒にしないでください」


「それだけ出来れば上等だ。それと、船の中の情報も手早く欲しい。鳥を寄越してくれ。そっちは得意分野だろ?」


その瞬間、旅人は息をのんだ。まさか、この老婆が自分についてそこまで知っているとは思わなかったのだ。


「…イツキから聞いたんですか?」


「私をなめちゃいけないさ。何たって奴はうちの常連だよ?」


「…」


老婆は旅人がどんなに睨みつけても、分からず笑っていた。とんだ鉄仮面野郎である。流石、自警団長は伊達ではない、と言うべきか。

旅人は今から、この老婆の頼みで、姿の見えない船を探して忍び込み、船内から事件解決の突破口を模索しに行くのだ。

彼女が旅人をここに呼んだのも、最初からその為だった。そうと分かっていたら、何が何でも逃げたのに、と旅人は師の残した借金の束を前に深いため息をついた。


「…分かりました。じゃあ、運良く忍び込めたら、使いの者を寄越すので」


「ああ、頼んだよ。すぐ手助けできるように手練れを港に置いていく。必要な時は船も出せるようにしておこう。お前のやりようによっちゃ、お代はチャラにしてやるよ」


「そりゃどうも」


旅人が席から立ち上がると、老婆は何か思い出したように付け足した。


「ああそうだ。帰ってきた娘の話じゃ、連中の中に妙な獣がいるらしい」


「…」


「獣かと思ったが、それは姿は人に近いのに、とても獰猛で言葉の通じる相手じゃなかった、と」


「…」


「あんたなら、大丈夫だろうけど、気をつけなよ」


「…分かりました。十分気をつけます。ごちそうさまです」


旅人はそう一言いうと、荷を背負って出入り口へとむかった。


「各港にも連絡を入れておく。気をつけて行ってきな。また来るのまってるよ!」


「ごちそうさまです。じゃあ、行ってきます」


旅人は店を出ると夜の潮風で冷えるミズナミの港町をかけて行った。





「…んた。おい!アンタ!!」



体を揺すられて意識が戻ってきた。誰かが自分を呼んでいる。男は重たい頭を上げるとぼやける視界で前を見た。なんと!目の前には化け物が!!



「!?」


「なんだい?その顔は。もう直ぐ店じまいだ。宿に帰っておくれ」



そう言われて気がついた。自分の目の前にいるのは先刻、喧嘩で負けた老婆であったのだ。ふと、隣を見ると誰もいない。



「!?あいつは!?」


「あの子ならとっくに出てったよ」



まずいことになった。男はあの旅人に色々と聞きたい事があったのだ。なのに自分は酒に夢中ですっかり目的を見失ってしまっていた。



「お代はいくらだ!?」



男は勢い良く立ち上がって老婆に尋ねた。老婆は空かさず男の顔の目の前に紙を突き出す。



「…高いな」


「アレだけ飲めばコレぐらいにはなるさ。さっさと払って行きな」



男は老婆が喋り終わる前に、お金を突き出して店を出て行った。あまりの慌てぶりについていけなかった老婆は、男が出て行ったドアを大きく目を見開いて見つめていた。思い出したように手元を見るとちょうどお札が一枚足りていない。老婆はため息をついた。



「付けといてやるからあの子のこと、助けてやってくれよ」


「女将、どうかしました?」



従業員が裏から尋ねてきた。



「ん。独り言さ」





港には息を切らした男が1人。誰かを探しているようだが、真夜中のこの時間帯に出歩く者は彼以外、見当たらない。



「どこいったんだ」


(足音からして港に向かったと、思ったんだが、違ったか)



男はもう一度耳を澄ました。人の気配は幾つか感じるが恐らくこの港の漁師達のものであろう。ほかに聞こえてくるのは波の音だけ。ふと、立ちくらみに襲われ、男は頭を抱えた。


「っ…てぇ、飲みすぎた…」


いつもより音の聞こえが悪い。どうやら、相当強い酒だったらしい。男はおもむろに懐から紙を取り出した。



「…あーあ。死んじまったのな」



その紙には長い黒髪が印象的な可愛らしい少女が写っていた。イツキが一緒に行動していたという子供、ツバサである。



「あいつから話が聞けると思ったのに…」



手に持ってる紙を見つめていたら、写っている少女がどんどん斜めに傾いていく。足元もおぼつかなくて、男はまたふらついた。だからだ。その時、背後から迫っている者達の存在に気がつかなかったのだ。頭に鉛の様な衝撃を受けたかと思うと、男の視界は真っ暗になった。




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