第44話 中学生編その2(中編) 中3、10月の海、ヒロインの事情

 中3の10月――


「27ページの連立方程式の答えは……これでいいのか? ……よし、できた!」


「すごっ……。ちゃんと合ってる」


 とある土曜日の昼過ぎである。

 駅ビルの裏手にある図書館。

 その自習室にて、俺、栞、そして歌音と瑠々子を交えた4人で受験勉強をしていたのだ。


「どうだ、歌音。俺もやればできるだろ?」


「ほんと、ビックリね。1年生の数学さえまともに解けなかったアンタが、夏を過ぎたら一気にこれだもん」


「たかくんはやればできるんだよ。昔はわたしよりテストの点数がよかったんだから!」


「……栞。それっていつの話?」


「え。……し、小学校1年生のときの話、だけど……」


「よしてくれ、栞。そんな過去の栄光話は逆に俺にダメージなんだ」


「孝巳くん。栞さんと歌音さんも。……図書室はお静かに」


 瑠々子が、人差し指をくちびるの前に当てる。

 俺たちは無言でうなずき、小さくなった。


 歌音は、しかしすぐに、小さな声で俺に向かって、


「……でも、孝巳のレベルアップは本当に大したものよ。やるじゃない」


「……同感。孝巳くん、すごい」


「えへへ、そうでしょ。たかくんはすごいもんね~」


「なんで栞が嬉しそうなんだよ……」


 俺たちは小声で、なお、おしゃべりを続けた。


 夏休みの間、いっしょに受験勉強を続けた俺たちは、それまでよりぐっと親しくなった。お互いのことを、下の名前で呼び合うようになったのだ。


 夏休みの最初こそ、歌音は「脇谷くん、勉強についてこられるの?」なんてハッキリと拒絶めいた態度を見せており――これについて、俺は内心、一瞬だけムッときたが、しかし、そもそも学力が低い俺が悪いのだと思い、


「ついていけるよう努力する。なるべく自力で頑張るけれど、もしも勉強で、特に英語で分からないことがあったら、天照台さんが教えてくれると助かる」


 そう言ったのだった。

 歌音は「ま、そこまで言うなら」と言って、グループ入りを許可してくれた。

 その後、俺たちは塾に通いながらも、空き時間を使って集まり、勉強を続け――そして現在に至ったわけだ。


 ところで今日は織芽がいない。

 もちろん、普段は俺たちのグループにいるんだけれど。

 今日に限って、リーダー格である彼女が不在の理由。それは――




 1時間後。

 予定の時間まで勉強を終えて図書館を出ると、そこへ織芽がやってきて、


「やあやあみんな、真打ちの登場だよ。お待たせお待たせ~!」


「遅い! 生徒会の最後の仕事、そんなにやることあったの?」


「引き継ぎがいろいろあってねえ。でも大丈夫、これでおしまい。光京中の生徒会長、神山織芽は本日をもって完全引退いたしたわけさ」


 そう。

 生徒会長だった織芽は、夏休み終了後、後任の2年生にその座を渡したわけだが、その後もときどき、OBとして生徒会に出入りしていた。生徒会の仕事の中で、2年生が分からないことがあったら教えに行ったりもしていた。


 だが、OBとしての仕事も今日で完全におしまい。

 引き継ぎを終えた織芽は、いまや完全にフリーとなって、


「普通の女の子に戻ります! さぁ、ここからノーマルなJC織芽、大活躍さっ。なにをしよう? なにをするべき!? さしあたって孝巳、織芽と交換日記をやらないかい!? 毎日なにがあったかをお互いに日々、ほうれんそう!」


「3年の10月よ? 勉強一色に決まってるじゃないの。そもそもなんでそこでホウレン草が出てくるのよ」


「歌音さん。報・連・相とは、報告、連絡、相談の略。野菜とは関係ない」


「おりちゃん、たかくんと交換日記は難しいと思うよ~。昔、わたしとしたことあったけれど、3日で終わっちゃったし~……」


「そこを3日で終わらせないように工夫するのさっ! 織芽の頭の中にはいま、書籍化間違いなしの異世界ラノベの案がある。これを日記に書けば、孝巳も続きが気になって気になって、交換日記も10年継続間違いなし! どうだいっ!?」


「そんな大作、日記で終わらせるのはもったいないぞ。投稿サイトにでも連載しろよ」


「っていうか、それ日記じゃないし~……」


 相変わらずハイテンションな織芽を前にして、俺たちは呆れるやら苦笑するやらだったが、――交換日記かよ。なんてアナログな。しかし、織芽と日記。やってみたかった。俺はやりたかったぞ。栞が口を挟んだせいで変な展開になってしまったが……。


 いや、しかしいまのは、栞が俺と織芽の間を邪魔しようとしたようにも見えたけれど。

 気のせい、だよな? 栞も織芽も笑っているし……。


「ねえ、そのうちみんなでどこかに遊びに行かない? 織芽のお疲れ様旅行っていうか。あっ、もちろん泊まりじゃなくて、日帰りで。電車使って、海にでもさ」


「お、いいね、それ!」


 歌音の楽しげな提案に、俺は乗った。

 ここ数ヶ月、勉強ばかりしてきたんだ。1日くらい、どこかでみんなに遊びに行ってもバチは当たらないだろう。


「日帰りで? いいね、それ。織芽は賛成だよ。みんなで行こう、行こう!」


 肝心の織芽が、すぐにオーケーをしたので、話はもうこれでまとまったようなものだった。


 次の土曜日、午前9時に駅前集合。

 光京ヶ浜こうきょうがはまに電車で向かい、みんなで遊ぶことに決まったのだった。




 というわけで、来た。

 土曜日の午前。俺たちは海へ。


「海だ!」


「誰もいな~い」


「10月だもんね」


「貸し切り」


「水平線が見事だね」


 駅を下りて、5分ほど歩くと砂浜が見えてきて、やがて遠くに果ての無い海の広がりが見える。俺たちはそれぞれの感想をつぶやくと、やがて誰ともなしに人気の無い海辺へと駆けだしていった。


 潮風が、俺たちの間を吹き抜けていく。

 気持ちいい。ずっと勉強、勉強で息が詰まるようだったこの数ヶ月の疲れが吹っ飛んでいくようだった。


「最高だぜ。シーズンオフでも海を選んだ甲斐があった」


「みんな、遊びにいくことを提案したあたしに感謝しなさいよ?」


「歌音さんの提案は見事。値千金あたいせんきん


「喉が渇いたら、カフェオレ、用意してきたからね。みんな飲んで飲んで~」


「さすが、栞。織芽はありがたく頂戴するよ。感謝、感謝」


 俺たちは砂浜を思い思いに歩き回り、走り回り、感想を述べながら、存分に楽しんだ。

 波打ち際に、寄せては返す海の水を眺めては喜び、ついにはそれぞれ靴と靴下を脱いでは、足首を突っ込んで、


「冷てっ! 10月の海、冷てっ!」


「誰よ、最初に入ろうって言いだしたのは!」


「あ、あのさ~。ところでタオルとか、誰か持ってきてる? 足を洗ったあと、どうしよう~」


「……栞さんが用意していないなら、誰も用意するはずがない」


「よし、太陽で乾かそう! 天日干しだよ、諸君! 大丈夫、いけるいける!」


 なにをやってんだか、俺たちは。

 遊ぶものもない、ただの海辺で、子供みたいに大はしゃぎして。

 そもそもなんで海に来たんだろう? 分からない。なんとなく、そうなった。


 しかし気分は爽快だった。

 そう、……ただ気持ちよくなりたかったんだ。

 街を離れて、特に意味も無く海にやってきたかったんだ。


 きっと、誰もが。

 ここにいる誰もが。


「みんな、そろそろ織芽に、言うべきことがあるぜ」


 俺が言うと、栞たちが振り返る。

 全員の目線が、織芽に集まった。

 なになに、と織芽はさすがにちょっと身を引かせていたが、――そのとき俺は言った。


「織芽。生徒会長、お疲れ様」


 俺が言うと、栞たちも笑顔になって、


「そうだね、これを言うためにここまで来たもんね。おりちゃん、いままでありがとう」


「生徒会だけじゃなくて、体育祭でもお世話になったからね」


「感謝。織芽さん。……慰労」


「え。……あ、うん……」


 織芽は、柄にもなくちょっと照れて、――すぐに笑顔になり、


「ありがとう、みんな。……特に孝巳」


「え、俺?」


「うん。織芽が生徒会に立候補したとき、手伝ってくれた。いまでも深く感謝しているよ。孝巳がいなければ、いまの織芽はいなかった」


 織芽はにっこりと笑った。

 直視していると、体中が熱くなるような織芽スマイル。


「ありがとう、孝巳」


 織芽の言葉を受けて、俺は返事もできずにうつむいて、「……ああ」と返しただけだった。


 織芽が好きだ。

 もう心の中が、彼女のことでいっぱいだ。

 栞たちが近くにいるのに、いやもちろん栞たちのことも大事だけれど。

 織芽のことしか、見えなくなるくらい。……大好きだ。




 その日は昼過ぎまで海にいて、それから電車で光京市街に戻る。

 海で濡れた足はべちゃべちゃで、みんなで笑いながら、家に帰ったら速攻シャワー、なんて話していた。


 光京駅の改札口を抜けたとき、時刻は午後2時だった。

 栞が持ってきたカフェオレを除けば、昼食も口にしていない俺たちは、ずぶ濡れの足も構わずに、駅ビルの中にあったファミレスに突入し、さんざん飲み食いした。ここのエプシはひと味違うとか、いや違うはずがないでしょうとか、ピザが美味いとか実は雑炊がイケるとか、そんな言葉を交わしながら。


 気が付けば、午後5時。


「ずいぶん遅くなったな」


「本当は昼過ぎに解散予定だったもんね~」


 栞が言ったように、本来は午後3時には帰宅する予定だった。

 それがこんなに遅れてしまった。まあ、かえでは部活だし、親は相変わらず仕事だし、遅れたところで俺は構わないのだが、


「…………」


 織芽は、少し暗い顔をして、何度かスマホを眺めていた。


「織芽、大丈夫? もしかして遅くなったの、まずかったんじゃない?」


「あ、いや。大丈夫、大丈夫。遅いと言っても5時だから、平気さ……」


 歌音の言葉を受けて、織芽はちょっと笑ったが、微妙に眉根を寄せているのを俺は見逃さなかった――


 そのときだ。


「織芽」


 突然、声をかけられた。

 振り返ると、眉間にしわを寄せた、いかにも厳しそうな中年男性が佇立している。


「いつまでも帰ってこないと思ったら、なにをやっているんだ、こんなところで。……約束した時間を過ぎているじゃないか」


「……お父さん」


 お父さん!?

 この人は、織芽のお父さんなのか?

 それも、なんだか厳しそうな――


「帰るぞ。友達にサヨナラを言え」


「あ、う、うん。……ごめん、みんな。それじゃ、さようなら……」


 織芽は、いつもの快活さなどまるで見せず、小さく手を振って、お父さんとふたりで雑踏の中へと消えていった。


「……怖そうなひとだね~……」


「それもあれ、門限破った感じよね。あれ織芽、きっと怒られるわ……」


「私たちのせい。反省」


 栞たちは唖然として、去りゆく織芽の後ろ姿を見つめていたが、


「瑠々子の言うとおり、俺たちのせいで織芽が門限破りをしてしまったのなら、悪いことをしたな」


「別にあたしたちだけのせいじゃないでしょ。織芽だって自分の意思で残ってたんだし。あたしたちは門限のことなんて知らなかったんだから」


「それはそうだけど~。……月曜日、おりちゃん、元気かな~……」


 俺たち4人は、いなくなってしまった織芽のことを、いつまでも案じていた。

 そして俺はふと思ったのだ。


 1年以上いっしょにいるのに、俺は織芽の家庭のことをひとつも知らないな……。


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