ただ、貴方を思う

 眠れなかった。


 一緒にベッドで寝ている琴音の横で、今日あった出来事が頭の中をグルグル回っている。

お兄さんの事、琴音の事。どれだけ寝ようと目を瞑っても、常に頭の中はそればかり。身体は疲れているはずなのに、頭は思考を止めることがない。


 ガチャッ。


 そんな事を考えていると、階段を下りる足音が聞こえた。


 お兄さんだろうか、こんな夜中にどこかへ行くなんて危険……。じゃないかも。あり得ない話ではあるけど、ファイントが特区から出てきたとしても、お兄さんなら簡単に対処できるだろう。


「……眠れないし」


 琴音を起こさないようにゆっくりとベッドを抜け出し、机に置いていた携帯を持って部屋を出る。少し廊下の明かりに目が眩みつつも、うろ覚えな廊下を歩き階段を下る。そうして階段を下りた先の玄関で、ちょうどお兄さんが靴を履いていた。


「お兄さん?」


 丸まった後姿に声をかける。一瞬背筋が伸びた後、ゆっくりとこっちを振り帰る。


「……びっくりした、あやかか。ごめん、起こしちゃったか?」

「いえ、なかなか眠れなくて……」


 貴方のせいで。

なんて、そんな八つ当たりがつい口を出そうになる。悪いのはお兄さんじゃないのに、なぜかお兄さんになら甘えてもいいと思ってしまう。それはきっと、この短い時間でお兄さんを信用しきっているからだ。


 琴音に、一番の親友に嫉妬してしまうほどに。


「なるほど。それじゃあ、一緒に散歩でもするか?」


 今からいたずらでもするかのように微笑んで、玄関のドアを指さすお兄さん。夜に出歩くという意味を正しく理解しているはずなのに、お兄さんは何てことないようにわたしを誘う。


 琴音の気持ちなんて、きっと何も知らない。わたしの考えなんて、きっと何も知らない。そんなお兄さんが少しだけ羨ましくて、わたしの口からは憎まれ口が出てしまう。


「さ、最低ですね!こんな夜更けに女の子を歩かせるなんて!」

「そうか。俺としては、あやかと話したいこともあるから来てくれたら嬉しいんだけどな」

「なっ……!」


 ……っ、ち、違う!多分お兄さんは、調整者としてのわたしの話を聞きたいだけ。まだそこら辺の話はしていないからきっとそう!だから──。


「どうする?本当に嫌なら無理にとは……」

「い、行きますけど!?」


 うぅ……、琴音の事もあって2人きりはあまりよろしくないけど。でも、お兄さんには聞きたいことが山ほどあるし、わたしの気持ちを整理する意味でも誰かと話したいと思っていたし。


 すぐさま靴を履いて、お兄さんより先にドアを開ける。外に出ると外気は冷たくて、思わず身震いをしてしまう。そうか、最近の夜は思ったより寒いんだ。


 肩に何かをかけられる。それを見ると、さっきまでお兄さんが羽織っていたジャンパーだった。


「その恰好は冷えるだろ。多少はましだから、羽織っといてくれ」

「……あ、ありがとうございます」


 きっと、こういう事を普段から琴音にもしているんだろう。なんだか、女性慣れしすぎでは?いくら琴音が居るとはいえ、わたしは一応妹の友人って立場なのに……。琴音の事もだけど、なんとなくこの人は女の敵な予感がする……!


「ど、どうした?」

「いいえ、何でもありません」


 お兄さんの苦笑いを横目に歩き始める。夜の冷えた空気は澄んでいて、ずっと回っていた思考を少しだけクリアにしてくれた。また感謝しなければならないことが増えてしまって、勝手に借りが増えたと感じてしまう。


 夜の住宅街に、わたしとお兄さんの足音だけが聞こえる。少し歩いたところで、ふとこの散歩の目的地が気になった。軍服は明日の夕方に取りに行こうと思っているし、そもそも逆方向だ。だというのに、横を歩くお兄さんの足取りには迷いがないように見える。


「あー、あやかはさ」

「はい?」


 口を先に開いたのはお兄さんの方だった。わたしの方を見ながら、何を考えているか分からない表情で聞いてくる。


「あやかは、どうして調整者をやっているんだ?」


 なんだ、とても簡単な質問じゃないか。


「わたしにはルーベンの能力があるからです」

「そんなの、あやか以外にも持っている人はそれなりにいる。あやかが調整者になる必要はないはずだ。他の誰かに任せればいい」

「論じるまでもありません。他の誰かができるからと言って、わたしがしない理由にはなりませんから」


 そうだ。この能力を自分が持っていると知ってから、他の誰かを守りたいと思えるようになった。自分は特別なのだから、きっと守れるものはある。その一心で、きちんと鍛錬をして今日に臨んだ。

結果は、お兄さんに守られただけだったけど……。それでも──


「──大勢の人を守る為。それが、わたしが調整者になった理由です」


 青臭いと、理想論だと思われるかもしれない。でも、この思いがわたしの行動原理だから仕方ない。


 わたしが質問に答え終えると、お兄さんが薄く微笑む。その微笑みにどういう意味があるのかは分からないけれど、嘲笑ではないという事ははっきりと分かった。どうやらそれで質問は終わったようだったので、次はこっちの質問をぶつける。


「逆に聞きますけど、お兄さんはどうして調整者に?それに、あの強さは……」


 明らかに異常だと分かるあの強さ。委員会の報告ではⅡ階梯だと言われたあの化け物を、苦も無く倒した強さ。その根源にある思いを聞きたいと思った。


「どうしてって……。そりゃあ自分の為だな」

「……はぁ?」


 自分の為?あんな強さを持っていて、誰かを守れるのに自分の為?


「ちょっとした昔話なんだけど、聞くか?」


 さっきまでの微笑みと違うそのほんわかとした笑顔は、いつもの琴音の姿を重ねさせる。

 ……ああ、やっぱり2人は兄妹なんだ。その笑顔につられ、自然と首を縦に振っていた。


「昔、俺の調整者としての師匠に、死にかけてたところを救われたんだ。その後はすぐ弟子入りして、能力がある事なんてその後知ったよ」


 懐かしい記憶をたどるように、笑いながら空を見るお兄さん。


 死にかけていた、なんて簡単に言うから心臓が縮む。そんな苦しいはずの記憶を、まるで楽しかった事みたいに話す。


「だから決めたんだよ。俺は本当ならもう死んでる。だったら、2度目の命は自分のやりたい事の為に全力で使うってな」

「……お兄さんのやりたい事は何ですか?」

「そんなの決まってる。大切な人を守る事だ」

「…………」


 楽しそうに話すお兄さんを見てようやく分かった。この人は本当のバカで、どうしようもない人。だってそうだ。助かった命なら自分の為に使うべきで、それを他人の幸せの為に使うこの人は大馬鹿だ。


「それが、調整者になった理由……?」

「おう!」


 その返事を聞いて、また溜息を吐く。自分の心に嘘をつかず、他人にも嘘をつかず。本当に強くて、優しくて、羨ましい人だ。きっと、その信念がお兄さんを強くしたのだろう。どんな理不尽にも対抗できるように、自分を鍛えたんだろう。


 ……本当に、琴音は幸せだろうなぁ。


 うん、分かったよ琴音。琴音の親友として、わたしがするべきこと。


「お兄さん、ひとつお願いをしていいですか?」

「もちろん。あやかの為なら何でもしちゃうぜ!」

「ふふっ、ありがとうございます。それじゃあ、遠慮なく」


 わたしの調整者としての行動原理は大勢の人をファイントの被害から守る事。そして、目の前の人を戦場で1人にさせない事。琴音の親友としては、琴音の恋を応援する事。それが社会的にいけない事でも関係はない。


 そして、その恋に負けたくないと思ってしまった。琴音には謝らなくちゃ。


「お兄さん。わたしを、強くしてください」


 冷たい空気が頬を撫でて、火照った顔を冷ましてくれる。それが、わたしの決心の後押しをしてくれた。

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