3 飴夜 Ame-Ya
出社したケンは、離れたデスクに隣り合って座るサナとナツメが親しげに話しているのを見た。殺したいほど憎い相手と話している様子ではない。昼休みにカフェでサナに問いただすと、上司だから仕方なくに決まってるじゃん、と言いながらリップを直した。
「マジであいつキモいよ」
サナの不自然な視線の逸らし方と瞳に宿る光が消えるのを見て、ケンはこんな猿でもわかるサインに俺が気づかないと思っているのかと考え、怒りが湧いた。だがケンは一呼吸おいて冷静さを取り戻す。サナを操作しているのはサナではなく、もちろんナツメでもない。推察するにサナは神から一人では抱えきれないメッセージの束を託された。すべては嘘である、という主張もそう解釈するのが妥当だろう。すべては罠である、と言い換えてみよ。サナは罠にかけられそのサナによって俺は罠にかけられ、という無限連鎖的な先送りの果てに責任能力をいかに問うべきか、最終的な責任を誰に帰すべきか……ケンは少なくともサナに寛大な処置を施すべきであると、ダークモカチップフラペチーノをすすりながら考えた。
二人は狂いなく定時でオフィスを出た。お互い急き立て合うように、足早で駅へと向かった。サナのマンションへの道すがら、住宅街の低い建物の連なりがふいに途切れ、煙る薄雲におおわれた真っ赤な満月が現れた。ケンは一瞬、遠くで火事が起きていると錯覚して立ち止まる。あの満月、きれいだね。ケンの虚ろなつぶやきにサナは立ち止まらずうんと頷いた。
先に靴を脱いだサナがもったいぶって部屋の電気をつけた瞬間、ケンは見知らぬ人間の家へ入ってきたのかと勘違いして玄関ドアを振り返った。部屋の様子がおかしい。
「ご飯作り置きしたいから、作ってるあいだそこに座ってテレビでも見てて」
サナは掌を上に向けて腕をクッションのほうへぴんと伸ばす。ケンは冷たい感情と熱い感情が脳内でぐるぐる回っているような気がした。ケンは無言でサナを一瞥してからゆっくりと腰を屈め、胡坐をかいて座る。そのまままじまじと部屋を観察した。
部屋に元々一つあった大きめの観葉植物に加えて、赤い肉厚の葉がついた観葉植物の鉢が六つほど増えている。驚いたでしょ。フィカス・ルビーっていうの。昨日夜届いたんだ。
「そのテーブル、かわいいでしょ」
ペンタグラムの前にあでやかな紅いクロスがかぶせられた小さなテーブルがある。机上の両端には金色の燭台が、中央には黄金色の聖杯が据えられていた。聖杯の中身は空だ。
どうせお遊びだと思っているケンは少し煽るような口調で反応した。
「祭壇ね。めちゃくちゃ本格的じゃん」
「当然だよ。ほんとに殺そうと思ってるからね」
ケンは立ち上がり、サナの後ろから腰に手を回してキスをした。半ば強引にベッドへ誘導して彼女の服を脱がしかけたとき、左手首に複数の大きな絆創膏が貼られており、血が滲んでいるのに気がついた。
「手首、どうしたの? リスカなんてするやつじゃなかったでしょ」
「うん、リスカじゃないよ。これは……こんど教えるね」
「いや、こんどじゃなくていま教えて」
サナは自分の手首を見つめて黙っていた。
「壁を傷つけた刃物でやったんじゃない?」
こちらに顔を向けてサナは当たりと笑った。日中は猛暑だったにも拘わらず、サナが長袖を着ていた理由がわかった。ケンはサナの指先に軽く唇をつけて血の匂いをたどるようにゆっくり手首へと這わせる。皮膚の血管の浮いているあたりにハンドクリームのラメが光っているのに気づいた。ほのかに甘い香りがする。傷口の膿んだ匂いとハンドクリームの甘い香りが混ざり合って真っ赤な庭園に漂っている気がした。ケンはその粒子を肺の奥まで吸い込むと、あらゆる違和感を掻き消すためだけにサナを求めた。
「明後日、またウチに来てほしい。頼みたいことがあるの」
帰り際、ドア越しに軽く手を振りながら、頼みたいことね、どうぞなんでも、と請け合った。サナの背後には生気にあふれているのか朽ちかけているのかわからないフィカス・ルビーたちが脈打つような意志を放っていた。
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