1 水夜 Mizu-Ya

 今夜の東京は予報では曇りだったが、業務時間終了の合図のように雷鳴が轟き、帰り際の二人はアスファルトにしぶきがあがるほどの土砂降りに狙い撃ちされた。ビルの出口でしばらく立ち尽くしていても雨の止む気配はなかった。二人は傘を買うために近くのコンビニまで走ることにした。コンビニ店内でずぶ濡れになったお互いを見て、ちょっと走っただけでこれはやばいねと笑い合う。ビニール傘一本と抹茶ラテ二本の会計を済まそうとレジへ向かうケンの背後から、サナはカゴにうまい棒十本を入れた。二人でうまい棒のめんたい味を食べ歩きしながら駅へ向かう雑踏で、天気とは裏腹にケンのサナを疑う気持ちは晴れ、疑いを抱いたことを恥じた。


 サナはマンションのドアを閉めると同時に玄関の灯りをつけた。ケンはサナを抱き寄せその場でキスをする。軽く唇を触れただけですぐに離すと、手を引いてベッドまで誘導した。部屋の灯りはつけなかった。サナは愛撫を拒まなかったが、セックスを拒んだ。より正確には、されるがままになっていたが、体勢を変えようとしないのでケンがあきらめたかたちだった。ごめん、少しだけ休みたい。サナは寝ぼけたような声でつぶやき、ケンの手を掴んで自分の胸に当てた。寄り添って横になっているうちにサナは眠ってしまった。


 嘘って必要だよね、と唐突にサナは言った。起きてたんだ? うん。なにが言いたいのだろう。ケンは暗い天井を見つめながら、サナの意図を汲んで最適な受け答えをせねばと思った。

「必要だね、人を幸せにする嘘は」

 サナはすぐに反応しなかった。


「うーん、ていうか私さ、あらゆることが嘘だらけだと思うのね。だって明日のこと考えて早く寝るのも、朝起きて顔洗うのも噓でしょ」

 サナが言っているのは是々非々でつく嘘ではなく、人間の世界は幻想で成り立っているという話だった。嘘だらけのゲームを正気でプレイするなんて狂気の沙汰にちがいないが、正気がなし崩し的に狂気に堕ちるのも案外楽しいものかもしれない、そうケンは他人ごとのように考えた。


 玄関から届く弱い光に照らされたサナの顔を見た。サナは目を閉じている。

「嘘がなきゃ俺もサナもこうしてここにいないよ」

 サナから目を背けたとき、一瞬部屋に違和感を覚えたが、はっきり意識できなかった。


「ねえ」

 サナはケンを跨いで立ち上がると、電気のスイッチを入れた。薄闇に慣れた目にシーリングの光が眩しくてケンは顔を背ける。怠そうにベッドから身体を起こしたとき、薄々気づいてた違和感の正体がわかった。テレビ側の壁に直径二十センチほどのペンタグラムのような図形が描かれていた。

「見せたいものってこれ?」

「そう、印形シジル

 よく見ると図形は刃物のようなもので傷つけて描かれたのがわかる。何度も刻まれた壁紙は一部が剥がれ落ちかけている。ケンは吸い寄せられるように図形をじっと見つめていた。

 となりに腰かけたサナに訊いた。なにかの儀式に使うの? うん、これをずっと見つめてるの、十五分、二十分、長いときは一時間以上。へえ、見つめてるとなにか変化が起きるんだ? 起きるよ、魂が身体から離れて天井から自分を見てるみたいな感覚になる。そういう状態を引き起こせるようになると、直接手を下さないで誰かを攻撃することもできるんだよ。サナは淡々と説明した。

「殺したいヤツがいるの」

 サナによれば殺したい相手というのは上司のナツメという男だった。ケンは同じ部署で働いているにもかかわらず、ナツメとはほとんど話したことがなかった。要約すれば、仕事の仕方について納得のいかない説教をされ、断ってもしつこく二人だけの食事に誘ってくるというのが、サナがナツメを殺したい理由だった。

 無論ケンは、こんなやり方で人を殺せるはずはないし、殺すほどの案件でもないと思ったが、サナに同調しておいた。

「そんなヤツは殺したほうがいい」

「こないだ家行ったんだけど、そのときもバイブとか見せられてさ、ほんとキモかった」

「え?」

 サナはベッドに腰かけたままニヤニヤ笑っている。こちらの反応を観察するような上目づかいで。

「家行ったんだけどじゃねーよ」

「そういう言い方するの?」

「行ってんじゃねーよ、バカ」

「あー、そういう言い方するんだ」

「ふつうするだろ、バカ」

 ケンはため息をついた。それから数十秒、壁のペンタグラムとサナの顔を交互に見比べながら、憮然とした表情で立ち尽くしていた。

「いつ行ったの?」

「先週の土曜。言っとくけどなにもしてないからね?」

 疚しいことなどミジンコほどもないと言いたげだった。

「お前さ、土曜は友だちと飲みって言ってたよな?」

「だからアイツにしつこく誘われて断れなかったの。一応上司だし」

 ケンはもう一度ため息をつき、無言でベッド横にある白いチェストの引き出しを開けた。

「クスリは?」

「だからやめたって言ったでしょ」

 このあいだまで、チェストの上段には化粧品や香水のすきまにぎっしりとカラフルな錠剤の束がねじ込まれていた。それが空っぽになっている。

「ヤクはどうしたの?」

「全部トイレに流した」

 ケンは口元に手をやって小刻みに頷いた。ケンはクスリをやらなかったし、推奨もしていなかった。人はみな依存症だ。高貴な人間ほど、簡素化された脳内麻薬の生成と、その深刻な政治的効果について知悉しているものだ。そして世界中で頻発している大小の忌まわしい争いどもは、脳内で頻発している快と不快をめぐる争いと相似形である。そこから麻薬をたしなむというおしゃぶり的行為は、危険リスク報酬リターンが釣り合わない同語反復トートロジーであると結論するに至った。ケンは斯様な哲学の原型プロトタイプを離乳と同時期に確立していた。


 サナはサナで溺れていなかった。唯一ケンが気に病んでいたのは、クスリの入手先だ。サナはキャバクラでバイトしていたときに知り合ったルカという女から購入していた。というより、ケンはサナに金を握らされて毎月のように購入に走った。純度の高いヤツ、ルカちゃんからだと安く買えるの、ごめんね。


 いつも歌舞伎町のハイジア前で待ち合わせて、金と引き換えに持ち手がついた白いビニール袋を渡された。ビニール袋を覗くと、処方箋薬局でもらう紙製の薬袋が入っている。中身の錠剤を確認する。繁華街の真ん中で堂々と取り引きするなんて信じられない、ケンはあきれたが、ああだいじょうぶ、このへんは逆に目立たないんですよ、とルカは笑った。ルカがサナの知人であるという関係性が取り引きの雰囲気を消しているのは間違いなかった。


 サナによればルカは三十歳で、いまは吉祥寺のデリで働ているそうだ。いつもトラバスのパーカーに厚底のローファーを履いていた。ルカからはときどき、ケンさん偉いね、と褒められた。代わりに買いに来てあげるなんてさ。いや、サナに任せたらパクられそうでしょ。でも男の人のほうが職質に遭う可能性高いよ。ルカはガードレールに座り足を組んだ。ケンを見つめる大きな瞳には快楽主義者ヘドニスト特有の大胆さと小心さが混在している。まあ、そうだね、でもなんかこわいんだよ。


 ルカは少しうつむいて手元のスマートフォンの画面に視線を落とした。沈黙したままTikTokの動画を一心不乱に眺めている。ルカが素早く視線を戻したときケンは寒気がした。ルカの瞳、その網膜の裏側には、生きている空虚が閉じ込められていた。宇宙のように果てしなく広大な空虚が、眼球内部にすっぽり収まって、モゾモゾ蠢いている。きっと彼女が目を閉じて眠っているあいだに、空虚の涙が瞼から洪水のようにあふれ出し、地上のひ弱な生命を根こそぎさらってしまうだろう。

「やめて正解だと思う」

 サナの眼差しがルカと重なった。空っぽで満たされたサナの瞳はなにかを問いかける。答えはいつも跪くか軽蔑する、だ。ケンは自己嫌悪ともどかしさでいたたまれなくなった。床に置いていたiPhoneを拾う。表示された時刻は二十三時五十五分。ふいに飼っているハムスターがきいきい鳴いている光景を思い出した。

「終電やばいな」

「今日泊まる?」

「泊まりたいけど帰るわ。ハムに餌やらないと。今朝やれなかったから」

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