フェルディナント・バイエル

 <柚木千代ピアノ教室>は私の家から歩いて10分もかからないところにあった。

 私はバイエルの教則本の入った手提げカバンをふりふり通った。

 柚木家は普通の分譲地にある一軒家なのだが、外観が普通ではなかった。

 幼い私には皆目検討の付かない北欧やドイツ風の杉の木、カイヅカイブキが高さは2mちょっとなのだが庭の周囲をぐるっと城壁のように囲みまるでお城のようだった。

 門扉もんぴまで槍をもとにデザインされてすべてが尖っていた。

 どうやったら手を傷つけずにこの門扉を開けられるのかいつも2、3分思案したものだ。

 柚木家は下世話な俗世すべてのものを拒絶している感があった。

 通うと畏怖や畏敬の念さえ感じたものだ。

 私はこのときはじめて自分が貧しい家庭の出だと感じ、少し恥じた。


 柚木千代先生は一言。

 美人だった。

 スラリとしたスタイルにぱっちりとした二重ふたえの大きな目。

 軽くウェーブのかかった長い髪。

 私が今まで知っている母だとか、近所のお姉さんだとか、学校の女教師だとか、商店街の店番のパートの女性だとか、とは完全に違った。

 最初は外人さんかハーフに違いないと思った。

 年の頃は30代。着ている洋服はヒラヒラしていて長いスカートかドレス。

 胸元はいつもきっちりブローチで止められていた。

 うっすらだがきっちりと化粧がされていて、なにより何故かいい匂いがした。


 はじめてのレッスンのことは私は今でも鮮明に覚えている。先生がショパンかなにかのエチュードを弾いてくれたのだ。

 私はそのとき、完全なる<美>をそこに見た。いや感じた。

 そんな世界はTVのアンテナが乱立しラジオからプロ野球中継が流れるうちの団地にはなかった。

 ここに通うとこんな風になるとかなれるとかの領分ではなかった。

 柚木先生は弾き終わると私にニッコリして、同居しているらしいお手伝いさんの田尻さんを呼んだ。


「田尻さん、おねがいします」

「はい」


 田尻さんは小さなカメラを持っていた。私は柚木先生に両肩を抱かれてピアノの前で写真を撮った。

 いや撮られたのか、、、、。

 これが、このピアノ教室のイニシエーション入校儀式だった。

 私は、後にこの自分の写真をものすごい場所でみることになる。

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