(10)きっと辛い恋をしてきたんだね」
坂の上の村長邸と、村の中央とに別れる三叉路で、私は松井に振り返った。
「あなたの宿はあっちですよね? 私はこちらなので」
「あえて独りの夜を選ぶのも崇高だが、俺は君と熱い夜を過ごしたいね」
「わーお。右ちゃんがナンパされてる」
坂への道に向き直ると、翠夏がおにぎりを持って立っていた。
「あまりに遅いから迎えに来たんだけど……お邪魔だった?」
「まさか!」
叫んだのは、松井だ。
「あぁ……俺は君に出会うためにこの村に来たのかもしれない……いや、生まれてきた理由が君に出会うため? まさにこの瞬間、おれに生きる意味が出揃ったらしい。翠夏さん、といったかな? さあ、おれと一緒にアラビアンナイトもかくやのロマンスを送らないか」
「右ちゃん、これなあに?」
「フリーランスのナンパ男です」
「ナンパって正社員とかもあるの?」
「ちょっと待ってくれよ!」松井が叫んだ。「ナンパ男なんて心外だ。俺はもう、翠夏ちゃん一筋なんだぜ」
「さっきまで右ちゃんに粉掛けてたくせに。おあいにく様、私、軽い男は嫌いなの」
「ノンノン。俺は今日から君だけのものさ」
元より鬱陶しかったわけだが、あからさまに乗り換えられると頭にくる者がある。
「言っておきますが、翠夏は既婚者ですからね」
「愛の前に、それが何の問題かな?」
「そもそも私のタイプじゃないんだってば」
「軽い男が嫌いというがね」
松井がロマンス映画よろしく、そこら辺の石に登った。それに何の意味があるのか全くわからない。
「ああ、君は男の軽さを誤解している。きっと辛い恋をしてきたんだね」
「余計なお世話」
「翠夏、どうしてこちらに?」
「そうそう聞いてよ、あのお屋敷さぁ」
「注目!」あえて無視していた松井が、声高に叫ぶ。「軽い男は信頼できない? ナンパ男は嘘つき? 硬派な男がやっぱいい? ノンノン、だね。この世で最も大切なのは何か、君たちは知っているかい。そう、自由さ。男は何にも縛られちゃいけない。己の魂にしたがって、風の吹くまま気の向くまま、北に運命の出会いがあれば駆けつけ、南に熱い夜の気配があれば飛んででも馳せ参じる」
なにか始まった。
「しがらみなく、全てを手に入れようとする男! 世界を見つめ、今自分がいるべき場所にいることができる男! 常に自分の世界の中心が自分である男! そのまっすぐな瞳こそ、君たち女性が惹かれるべき光なんだ! さあ、翠夏ちゃん。俺と一緒に愛という名の宝を探しにいこうじゃないか」
「どう思います?」
「浮気を正当化してるようでキモい」
先生とはまた違う、尖った思想の持ち主のようだ。ぶつけたら対消滅しないだろうか。
「松井さん、だっけ? それって、私より美人さんがいたらふらっと行っちゃうってことでしょ?」
「俺は自由だが、今は君という鎖に雁字搦めさ」
「じゃあ、それを証明できたら考えてあげる」
「ワァオ! 勝ちの決まった勝負だが、あえて乗ろうじゃないか!」
「翠夏?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます