(6)私は長い坂道を降りていった
いつまでたっても使用人とやらが来ないので、翠夏に留守番をお願いし、一人で村に出向くことにした。
屋敷のなかはひっそりと静まりかえっていて、使用人どころか、誰もいないのではないかと疑うほどだった。豪奢な内装が却って寂しさを駆り立てる。これもまた、煙羅煙羅で気づいた財なのか。
屋敷から村の中心部までは歩いて15分ほどだ。行きは上り坂だったので、もう少し早く着くかも知れない。
来る途中も思ったが、屋敷に続く坂道の見晴らしには息を呑む。
豊かに広がる田園風景。遠くの尾根と、そこに沈む夕焼け。あぜ道をトラクターや軽トラックが走っている。作業は午前中に終えたのだろうか、田んぼに人影はなく、西日と風を受けて、黄金色の稲穂が海のように輝いている。生まれ育ったわけではなくとも、日本人なら誰もが懐かしいと感じる、そんな風景だった。遺伝子に刻まれた望郷の思いが刺激される。
夏の終わり、秋の始まり。不可逆の変化は好きだ。移り変わるものが好きだ。体のなかの空気全てを入れ替えるつもりで、大きく深呼吸する。涼やかな風のなかに、土の匂いを感じる。
久遠さんは私に何を見せたかったのだろうか。この時間この場所で、私が自然に溶け込もうとするところまでお見通しだったのか。
あの人の洞察力は底知れない。人の内側に潜り込んでくる推力も。闇の中からすくい上げる引力も。そこに強く憧れるし、同時に怖くもある。尊敬と畏怖は、表裏一体だ。
先生は言葉でこそ強く否定しないが、私が久遠さんに入れ込むのを良しとしていない。二人の過去に何があったのかはわからない。私は久遠さんに救われたけれど、先生は他人に隙を見せないから、深い関係にはなり得なかったのかもしれない。
それでも私はまだ、久遠さんに惹かれ続けている。『画霊』と『牡丹灯籠』、そして今回の『煙羅煙羅』。私とそれらを引き合わせたことに悪意があったのなら、その理由を知りたい。久遠さんの内側を、もっと知りたい。
そして叶うのなら、ただ後を追うのではなく、隣を歩けるような人間として再会したい。
いまだにそう思ってしまうのは、もはや呪いの類いなのかもしれない。
そこまで考えて、私は自嘲気味に息を吐いた。
田んぼの煌めきに意識を戻す。ふと、ことさらに揺れている稲穂の存在に気づいた。
それは周囲の稲穂より少し背が高く、色も薄いように見える。それよりも目立つのは不自然な揺れ方だ。ほかの稲穂が風になびいて綺麗な波模様を描いているのに対し、その1本だけは風などお構いなしに、独自のリズムで左右にくねくねと揺れている。煙のような、かかしのような。下から上に空気を送って揺らすバルーン人形のようにも見える。
いや、1本じゃない。
壁蝨を一匹見つけた途端、今まで見えていなかった周囲の壁蝨も視認できてしまうように、5本、10本と、黄金の稲穂群に異質な存在が湧き出てきた。
そしてそれらはゆっくりと、こちらに近づいているように見えた。
途端、風が生暖かいものに変わった。土の匂いも消え、代わりにねっとりとした生臭さを孕んでいる。気味が悪くなり、視線を外す。まっすぐ村の中心部に目を据えて、私は長い坂道を降りていった。
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