(2)もはやアメリカンドリームしかない
「無響室ってあるだろう?」
「音を全て吸収してしまう、とても静かな部屋ですよね」
スタッフから身柄を預かった私は、そのまま先生を上階のテラスへ連行した。すぐそばを流れる川を見下ろせるが、これは隅田川ではないらしい。函館山から見える夜景を、北海道のくびれと勘違いするような肩透かし感がある。
「それと水族館のバイトをクビになったことに、なんの関係が?」
「まあ聞いてくれ。無響音に放り込まれた人間は、遅かれ早かれ発狂するんだ。音のない空間。聞こえるのは自分の鼓動や血潮のみ。刺激がないと、人は狂うわけだね。知的生物にとって退屈や停滞は死、そのものなのだよ」
一理あるかもしれない。現に、海月は停滞すると沈んで溶けて、消えてしまう。
「で、だ。私は寛大だからね。万物の霊長として、魚類にも知性を認めているわけだ」
「今なんの話でしたっけ?」
「彼らは一生ガラスの中。何度も言うが、知能を持つ生き物にとって停滞は死だよ。だから水流をね、ちょちょっとね、限界まで加速させてね」
「逆に聞きますが、先生は突然嵐の中に放り込まれたらどう思います?」
先生はきょとんとしたあと、顎に手を当てた。考え込む姿さえも様になる人だ。黙って座っていても、何かしらの商売になるのではないだろうか。
「キレるね」
ただし喋るとボロが出る。
「まぁ、魚風情が私に感謝こそすれ、激昂するなど言語道断。ありがたく受け取っていればいいのさ」
「クビになって当然かと」
魚に敬意もないらしい。
「別にいいさ。次のアテはある」
言って先生は立ち上がった。
「再来週までにまとまった額が必要なんだ。もはやアメリカンドリームしかない」
「夢みてないで、原稿を書いてみてはいかがでしょう?」
「そんなちんけな仕事、天才には役不足だよ。狙うは一攫千金、ただひとつ」
「作家は書いてなんぼでしょう……ちょうど、先生向きのネタがありますよ」
鞄から書類ケースを取り出そうとして、スマホが光っているのに気づいた。『これじゃ肉じゃが!』と、新着メッセージが入っている。まさか、誰もルーを入れなかった?
「なにやらお前も取り込み中のようだし、私はアメリカンドリームを掴んでくるよ。さらば、そして待っていろ『煙羅煙羅』!!」
あっ、という間もなく先生は駆け出していった。どうして真面目に働かないのか。いや、本人はどのアルバイトも真剣に取り組んでいるのだろうが、書く以外の才能が、一色琴乃からは抜け落ちている。
しかしーー。
煙羅煙羅。
私は1人、先生が言い残した単語を反芻する。書類ケースから、先生に見せるつもりだったチラシを取り出した。
『賞金500万円!見つけろ煙羅煙羅様!コツカー村ミステリーツアー』
それは、小学生がテキストソフトで作ったような、陳腐なチラシだった。見れば見るほど怪しさ満点。半分冗談のつもりで持ってきたのだが。
「もしかして、本気で探しに?」
スマホが鳴る。編集長から、パンを買ってこいとメッセージが入っていた。誰かが間違えて、ビーフシチューのルーを使ったらしい。
アホらし、と私は椅子に深く座り直した。
停滞は死だという。私の気持ちはここのところ、どこにも行かずふらふらと空中浮遊していた。久遠さんのことで、考えていることがある。見上げた空が高い。もうすぐ秋が来る。
そして先生は、消息を絶った。
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