(冬号)くねくね/煙羅煙羅/
(1)「ひぃへふれよ」
カレールーを入れる直前にふと、海月が見たくなって、そのまま編集部を抜け出した。
夏はすっかり身を潜め、街角は秋の装いを増していく。夕暮れ時の風も幾分か心地よくなった。
方や、今出たビルのなかでは、入稿締め切りに追われる地獄が広がっている。私の担当は徹夜に向けた夜食の仕込みだが、ルーを入れるくらいなら誰でもできるだろう。
神保町から東京スカイツリーまでは電車で一本。最寄駅で降りると、大きな塔が目に入る。赤いほうが好みだったが、今ではこの渋い色合いが下町の風情に合っている気もする。
エスカレーターを上がり、いつもの水族館へ。年パスを財布から取り出す。年に2回来れば元を取れるので、買わない選択肢はない。
ここは比較的、海月の登場が早くて好きだ。奥まったところにひっそり展示されているのをぼんやり見るのも趣味だが、手っ取り早く補給したいときもある。
いくつかの水槽に、成長順に海月が飼育されている。何かで聞いたが、海月は水流がないと水底に停滞して、そのまま溶けてしまうらしい。水槽の中で、彼らは一定のペースでぐるぐる回っている。回転を見ると、どうも落ち着く。
「だって退屈だろう!生涯飼い殺しなら彼らにせめてもの刺激をと思ってだな!」
御飯時のペンギンに負けずとも劣らない騒がしさに、館内がざわついた。
「帰ってくれ!」
「軟禁だって立派な虐待だ!そっちがその気なら、こっちも動物保護団体に訴えてやるぞ。いいかい、私は訴えると言ったら絶対にーー」
「先生?」
騒ぎのほうへ来てみれば、一色琴乃が、スタッフに首根っこを掴まれている。
「こちらでなにを?」
「やぁ、奇遇だね担当編集。聞いてくれよ、私はここの魚たちに娯楽を与えようと」
「こちらで、なにを?」
詰め寄り、顔面を鷲掴んだ。
「ひぃへふれよ」
一色琴乃はまだ黙らない。
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