(3)私はね、小説を書くのが嫌いなんだよ

「私を捕まえたって原稿はないよ」

「書き終わるまでいくらでも待ちますよ」

 上野駅のレストランで、私は先生と向かい合って座っていた。逃さないように、私は廊下側の席に陣取った。


「ドリンクを取りに行っていいかな?」

「ここ、ドリンクバーないですよ」

「喫煙所は……」

「今時あるわけないじゃないですか」

 先生が机に突っ伏す。


「せっかく久遠がいなくなったと思ってたのに……聞いてた通りの堅物じゃないか」

「久遠さんが私のことを?」

「あいつの話は聞かないようにしてるからよく覚えてないけど、隅っこみたいな名前した頭の硬い編集が来ると、言っていた気はする」

「右上です」

「うるさいな」


 口を尖らせながら、先生はメニューを開く。経費で落ちますよ、と私が告げると迷わず、一番高価なハンバーグセットを指差した。「デザートもいいかい?」


「私は久遠さんの一番弟子なので、たぶん同じくらい甘くないですよ」通りがかった店員に注文を告げてから、先生に向き直る。「書くまで逃しません」


「お前は勘違いしているみたいだが、久遠は割と適当だったぞ。ただどうしてか、逃げても隠れてもすぐに私を見つけるから観念したんだ。あいつと追いかけっこしてたらいつまでたっても気が休まらんよ」

「逃しません」

「本当に融通が利かないね。これさ、会話成立してる?」

「せめて仕事場だけでも教えてもらいますよ。さすがに私も、一朝一夕で原稿があがるとは思ってませんから。それとも、缶詰がお好みですか?」

「ないものはないの。なんせそもそもネタがない」

「ネタがないって……あっ、もしかして、さっきのアルバイトは取材の一環で?」


 言いながら、すうっと血の気が引いていった。私の短慮が作家の仕事に支障を生んでしまったのだとしたら、編集者失格だ。


「いいや」私の心配をよそに、先生はあっさり否定する。「生活に困っていてね」

「……そうですか」

 いい加減、私は苛立ちを覚えている。

「なんでか印税が入ってこないんだ。私の本、売れていないのかな」

「出せば売れています。売れていないのは出さないからですよ」

「ひとつ言っておくけどね。いいかい、よく聞くんだ。私はね、小説を書くのが嫌いなんだよ」


 呆れて反論する気にもならなかった。

 頭がくらくらした。心が脳の理解を拒んでいる。この堕落者が本当にあの天才作家なのか。心躍る物語の生みの親なのか。認めることがどうしてもできない。


「そこまで言うなら、どうして書き下ろしを引き受けたんですか?」

 せめてもの抵抗として、安請け合いを揶揄する。やる気がないなら初めから断ればいい。適当に仕事を進めるのは社会人として失格だ。


「お金がなかったんだ。ちょうどバイト先もなくなってしまってね」

「クビに?」

「失礼だな、急に潰れたんだよ。不思議なことにいつもそうなんだ。バーもレストランもバスガイドも」

「それは先生に原因があるのでは?」

「そんなわけないだろう? 私はただちょっとばかし酒瓶を落としたり、冷蔵庫を閉め忘れたりしただけなんだ。確かに、軽油と間違ってレギュラーを給油したのは私のミスかもしれないが、それにしたって些細で可愛げある過ちだろう!」


 おそらく、ちょっとや些細どころではないのだろう。酒瓶をことごとく割り、冷蔵庫の食材を全滅させ、ディーゼル車にガソリンを入れてエンジンを破壊した。そんな災難が続けば企業は大損害だ。


 他人の人生や仕事を台無しにする趣味がある、という一色琴乃の噂はあながち間違いではなかったのかもしれない。本人の意図せぬところで、彼女によって破滅を迎えた人が山ほどいるに違いない。


 カフェテリアの一件で薄々感じてはいたが、この人は多分、小説を書く以外に才能がない。それどころか、日常生活すらも怪しいものだ。


 なればこそ、この人に筆を取らせるのが編集者の使命なのではないだろうか。

 私は自分を鼓舞する。

 嫌な人でも、人として合わなくても、仕事は仕事。どんな状況でもやりきるのだ。


「書きましょう。ネタがないなら取材から手伝います」

「いやだといったじゃないか」

「先生から小説をとったら、ただの肥やし製造機じゃないですか」

「上品に言ったからって許されるものじゃないぞ。というかわかるからな!」

「それにもし仕事しないなら」おそらくこれが一番効く。「ここ支払いませんから」

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