第32話 君は趣味が良い

 この世界は彼女の手のひらの上。どこから現れてもおかしくないし、何が起こっても不思議はない。そんな彼女を説得しない限り、俺たちは現実へ帰れない。


「君が来るとは思わなかった。てっきり、あれで終わるものかと」

「ああ、俺もそう思ってたよ。俺は現実が辛くて妄想に逃げるような軟弱な男だからな」


 唐突に顔を見せた美那萌は、淡々と俺に語りかけてくる。そこには一切の敵意がなく、また好意もない。その淡白さが逆に恐ろしい。


「一応答え合わせをしておきたいんだが、ここはどこなんだ?」

「私が作り出した、君の漫画の中の世界。基本的には君の住む街が忠実に再現された空間であると思っていい」

「俺の漫画の背景から、よくこの街が舞台だってわかったな」


 一応背景は細かく描き込んではいたが、俺の画力ではどこを舞台にしているのかなんて特定するのは困難だろう。

 学校であるとか、家の中であるとか、住宅街であるとか、その程度の情報量を読み取るのが関の山だ。


「君の脳内世界と現実を行き来できると言ったはず。あの書物に記載されていないことでも私は読み取れる」

「ああ、そういう……」

「だからこそ、君がここまでくることは予想外。そんなに彼女たちのことが気に入った?」

「何を言ってるんだ。俺に自分のすべきことを思い出させてくれたのはお前じゃないか…………?」


 自分で言っていて、違和感に気づく。


 そうだ、俺は美那萌のお陰でこうして、本当の意味で前を向くことができた。思えば、美那萌のやり方は無駄が多い。俺にあの漫画のことを思い出させるだけなら、わざわざここまでする必要はなかった。

 俺への復讐だというなら、もっと手っ取り早く、もっと強烈に、俺の記憶に焼き付くような方法をいくらでも講じられたはずだ。


「まさか、俺が三人を取り返しに来るところまで、お前の計画だったのか……?」

「何度も言っている。君がここに来るのはだったと。君がこのタイミングでここに来ることは計画の内にはなかった」


 正直に答えているのか、それとも誤魔化しているのか。美那萌のポーカーフェイスは天下一品だ。その内心を読み取るのは不可能である。


「今この瞬間にも、地球のどこかで新たな世界が産まれ、そして消えている。日が昇り、沈むのと似たようなこと。世界の誕生と消滅は自然の摂理。作られた物語はいつか忘れ去られる運命にある」

「……まるで生き物の寿命だな」

「私は君の描いた書物を依り代にして、君の脳内世界と現実の宇宙を行き来している存在。君が書物の内容を忘れたら、その繋がりが切れることになる。これは私にとって死活問題。それに、個人的に彼女たちのことは気に入っている。だから消滅を防ぎたかった」


 美那萌は俺の背後に立つ出雲に視線を向けた。


「君は趣味が良い。私と合う」

「……お前、案外俗っぽいのか?」

「言ったはず。私には三大欲求が備わっていると」


 そういえばこいつ、よく食べるしよく寝るんだよな。機械的に見えて、普通の人間より人生を謳歌していると言えそうだ。


「君の記憶に、この世界のことが残れば何でもよかった。もちろん、一時的なものでは意味がない。君は忘れたがっているようだったし、ただ彼女らを現実に送り込むだけでは本質的な解決にはならないと判断した。理想は自らの意思で、この世界の存続を願うこと」

「じゃあやっぱり、今までのことは全て……」

「本当はもう二段階ほど手段を講じていた。けれど、君が予想外の行動に出たのでその必要はなくなった」


 全身から強張りが取れ、緊張が一気に弛緩する。


 美那萌は俺の敵ではなかった。ただ、漫画のことを忘れたいと思っていた俺と目的が相反していただけ。それをひっくり返すために、強引な手段を取る必要があった。


「えっと……ってことは、俺たちは元の世界に帰してもらえるってことだよな?」

「ここに監禁する理由は特にない」

「はぁ……良かったぁ……俺、お前に拒絶されたら正直どうしようかと思ってたんだよ。説得できるような材料はないし、実力行使も通用しないからな」

「一応言っておくけれど、君に復讐したいと思っていたのは本心。彼女たちを消そうとした報いはちゃんと受けてもらう」

「……ああ、分かってるよ。それは反省してる」

「勘違いしないでほしい。私はまだ満足していない」

「え?」


 途端に不穏な空気になって来たな。てっきりこのまますんなりお家に帰してもらえるものかと思ったのに。


「これで全て解決したと思ってもらっては困る。君にはまだまだ忘れていることがたくさんある。……とはいえ、今はひとまず解放しよう」

「あぁ……えっと……お手柔らかに?」

「断る。君にはたっぷり自分の愚かさを思い知ってもらう」


 どうやら美那萌の俺への恨みはかなり根深いらしい。よほど出雲たちのことを気に入っていたのか、漫画を封印していた俺に対する怒りは尋常ではない。

 もし彼女がもっと感情を表に出すタイプだったなら、こんなに落ち着いて会話なんてできなかったかもしれない。


「それと、目が覚めたらまずは入浴することを勧める」

「へ? 風呂?」


 美那萌の言葉の意味が分からず困惑していると、彼女は俺の反応速度を遥かに上回る俊敏さで肩に触れてきた。

 すると体中が光に包まれ、急速に輪郭がぼやけていく。出雲が消えた時と同じような現象だ。


「君の役目はまだまだ山積み。ここで倒れられても困る」


 ────そんな言葉が聞こえたのを最後に、俺の意識は暗転した。

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