第26話 全てが元に戻っただけ……か

 小学六年生の時、母さんが死んだ。交通事故だった。信号を守って横断歩道を渡っていた母さんを、どこかの誰かが撥ね飛ばし、そのまま何もせずどこかへ消えた。


 俺はその光景を少し離れたところで見ていた。なんで一緒に歩いていなかったのか今となっては思い出せないが、きっと大した理由ではなかったと思う。ちょっと靴を履き直していたとか、道端の石が気になったとか、その程度の理由だ。

 その程度の理由で俺は助かり、母さんは死んだ。そのあっけなさがどうにもならないほどショックで、人の命の軽さを感じた。


 その頃から、俺は人付き合いが苦手になった。今目の前にいるこの人だって、明日には死んでるかもしれないのに、仲良くなって何の意味があるんだろうとか、そんなことを考えるようになった。


 しばらく塞ぎ込んでいたが、事故から半年ぐらい経つ頃には普通に学校に通えるぐらいにはなった。ただ、人との付き合い方はわからなくなったまま。何を話せばいいのかもわからないし、仲良くする意味もわからない。

 自然と友達はいなくなり、学校では孤立するようになった。でも、俺はそれを悪いことだとは思わなかった。誰かと仲良くしなければ生きていけないわけじゃない。一人で生きていくことだってできる。だったら面倒な人間関係なんていっそない方が楽でいい。


 中学生になると、現実から目を背け、妄想に逃げるようになり始めた。今思えば半ば病的ではあるが、母さんがいると想定して、一人分多く料理を用意したり、誰もいない空間に話しかけたりしていた。

 とっくの昔に乗り越えたと思っていたショックは、実はまだ目の前にそびえ立ったままだったのだ。


 このままじゃ駄目だと思い、俺は方法を変えることにした。現実逃避するならそれでもいい。けれど、せめてもう少し前向きなことを妄想しよう。

 そう考え、俺は漫画を描き始めた。母さんの代わりに俺の面倒を見てくれる姉、うちの厳しい家計をなんとかしてくれるお嬢様、落ち込んでいたら励ましてくれる明るいスポーツ少女。とにかく自分に都合の良い人間ばかりが登場する漫画だ。


 今思えば、俺はあの妄想に結構救われていた。三年間かけて少しずつ前向きになれるようになってきて、ついに現実に向き合おうという決心をつけることができた。


 その途端、あの漫画は不要なものになった。俺の妄想を何から何まで詰め込んだ恥の塊。絶対に他人に見られるわけにはいかない性癖のオンパレード。

 目に入るだけでも頬が火照ったので、丈夫な缶に詰め、蔵の奥深くに押し込んだ。


 でも、俺は気づいていたはずなんだ。あんなに恥ずかしい漫画でも、俺の心を救ってくれたことには違いない。あれを描いている間だけは、ちょっとだけ前向きになれたんだ。

 だから捨てられなかった。誰にも見られたくないのなら燃やせばいいだけなのにそれができなかった。


 見られたら恥ずかしい物かもしれない。でも決して生き恥なんかじゃない。誰かに誇れるような出来ではなかったけど、正真正銘の駄作ではあったけど、俺にとっては心の支えだ。それを忘れちゃいけなかった。


「────全てが元に戻っただけ……か」


 家に帰ると、誰もいなかった。当たり前だ。皆消えてしまったのだから。


 以前まで、俺はこんな薄暗くて寂しい家に住んでいたのか。ただ無駄に広くて、どこからも人の気配がしなくて、部屋もすかすかな古びた屋敷。


 風呂は一人で入れるし、料理はいつ何を食べても自由だし、夜中に異音で起こされることもなく、朝からうるさい喧嘩を見せつけられることもない。でもあの賑やかさを知ってしまったら、この孤独には痛みが伴う。


 人はいつかいなくなるのだから、誰かと仲良くなっても意味がない。吹っ切ったはずの昔の俺の考えが、まるで正しかったみたいじゃないか。


 しかし誰を責めることもできない。悪いのは全部俺だ。何かを奪われたわけでもなく、何かを壊されたわけでもない。ただ俺は自分の軽率さを思い知らされ、また元の生活に戻されただけ。俺は何も失っていない。


「これが普通……だもんな。今までがおかしかっただけだ。俺は最初からずっと独りだったし、それが現実だ。現実と向き合うって決めたんだから、いつまでもくよくよしてたって……仕方ないよな……」


 俺は玄関で座り込む。昨日までごちゃごちゃと大量の靴が並んでいたのに、今は嘘みたいに何もない。

 全身が満遍なく重くて、指一本動かすたびにため息が出る。土がついて黒ずんだスニーカーをモタモタと脱ごうとするも、途中で断念してそのままゆっくり居間へと向かう。


 考えてみれば、今日は昼食を取っていない。出雲を探して動き回っていて、食べる暇がなかった。

 その割には空腹感がない。あれだけ動き回り、相当なエネルギーを消費しているはずなのに、食欲が一切湧いてこない。


 とりあえず居間に向かい、部屋の灯りも点けずにちゃぶ台の上に寝そべった。こんなことをしたら、昔なら母さんに叱られること間違いなし、優里がいれば彼女も注意してきたことだろう。

 しかし今はそのどちらもいない。土足で家に上がり、机の上で寝転がるなんて奇行をしていても、誰にも咎められないのだ。


「あぁ……もう動きたくない」


 手足を投げ出し、グダグダと文句を言う。独り言が多いのは昔からの癖だ。誰かと会話するのが好きなわけではないのに、独りになったらなったで何か喋っていないと落ち着かない。この重苦しい沈黙は、まるでここ数日のことが全て幻であったかのように思わせる。

 漫画の登場人物が現実に現れるなんて、幻でないと考える方がおかしいのかもしれない。記憶はあっという間に朧げになり、感覚は急速に薄れていく。


 始めから何もなかった。俺はずっと独りで、これからもずっと独りだ。そう考えた方が楽になれる気がする。


「────あれっ」


 しばらくそうしていると、真っ暗だった部屋が徐々に明るくなってきた。時間の感覚がおかしくなっているらしい。いつの間にか夜が明け、朝日が昇っている。


「流石に……何か食べるか」


 空腹感は依然としてない。何か食べたいとも思わない。だがそろそろ何も口に入れないまま丸一日が経とうとしている。体の重さは倍増していて、見てもいないのに自分の顔色が悪いことがわかる。流石にこのままではまずい。


 動こうとしない体を引きずって、十五分ほどかけてゆっくり立ち上がる。枯れ果てた気力をさらに削って、何とか冷蔵庫の前まで辿り着く。


「……つっても、買い物とかしてないし、何もないか。昨日あいつに全部食われたんだよなぁ……」


 食べられるものがあれば何でもいい。とにかく何か腹に溜まれば、ひとまず死ぬことはない。

 しかしもし本当に何一つなかったらどうしよう。こんな状態で買い物になんていけないし、結構本気で死ぬかもしれない。


「はは……こんなことで死んだら笑えないな……」


 俺は祈るような気持ちで冷蔵庫を開けた。案の定、中身はすっからかんだ。大量に買い込んであった食料は綺麗さっぱりなくなっていた。


 しかし何もないわけではない。ラップを被せられた大皿が一枚と、折りたたまれたメモ用紙が置かれている。


「なんだ……これ……?」


 俺はそのメモを指先で摘まんで取り出す。


『今日は仕事で遅くなるので、晩御飯は皆で何か作って食べてね。朝ごはんの残りを置いておくから、これを食べてもいいよ』


 丸みを帯びた丁寧な文字で、そう書かれていた。


 そういえば、昨晩美那萌が何もかもを食べ切ったはずなのに、今朝は普通に朝食を作ってくれていた。いつの間にか食材を買いに行ってくれたのか、それとも朝食の分は隠しておいてくれたのか。


「なんだよ……母さんみたいなことしやがって……」


 俺は冷蔵庫を開けっ放しにしたまま床にへたり込む。


 俺の中に、何かが流れ込んでくる。温かいような、くすぐったいような、ちょっと鬱陶しいような、でも懐かしいような、そんな何か。それは俺の背中を押し、同時に叱責してくれる。


 ────このままでいいのか。こうしてメソメソ落ち込んで、自己嫌悪に陥っている場合なのか。他にもっとすべきことがあるんじゃないのか。


 何も失っていないなんて嘘だ。俺は大切なものを失った。だったら、それを取り戻しにいくべきなんじゃないのか。


 俺は皿を包んでいたラップを剥ぎ取り、用意されていた料理を一人で全部食べた。


 あの三人を取り戻す。そう決意したからには、栄養補給は必要不可欠だ。

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